摂理の今日の話より。
「条件つきでやってはいけない」
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摂理ライフの早朝vol.47
摂理の今日の話より。
「自家用車が行く前にまずブルドーザーが通るでしょ。そうしたら自家用車が通れる。」
キリスト教では、メシアが来る前に、道を整える人が来ると言われています。
メシアだけに限らず、例えば結婚式では、新郎新婦が入場する前に司会者が場を整えるし、プレゼンでもまず司会者が趣旨を説明して場を作るし、落語にも前座がいるし、ドラマでも最初の1分はナレーションが入って気持ちをドラマモードに変えてくれます。
いきなり本題に入るとついていけません。
まず場を整えることが大事だという、先生の例え話です。
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摂理ライフの早朝vol.46
摂理の今日の話より。
「親が子供を生んでよくしてくれたから私も親を愛してよくしてあげなければというのが正常です。義務的にやるのでなく愛して好きで喜んでやらないといけません。」
正月は実家に帰って親孝行!
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摂理の主日vol.7
摂理の今日の話より。
「目の見えない人に、何で見えないのか、と叱ってはいけません。見えない人には触ってわかるようにしなさい。
知らない人は盲人です。絵画に目が開かれていない人に絵をみせてもわかりません。無知な奴だといわないで、わかるように教えなさい。」
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信仰とはなんだろう
信仰をもつことは、難しいことのように思えます。
第一、信仰とはなにかがわかりにくい。
そしてウサンクサイ。
そこで、僕なりに以前考えたことをまとめました。
信仰について、聖書にはこう書いてあります。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」ヘブル10:1
わかりやすくいうなら、「希望的な未来が起こることを確信している」ということです。
さらにウサンクサクなってしまいました(笑)
未来を知ることなんて出来なそうですが、ほとんどの人が、精度の差こそあれ、そんな「予知能力」ぽいものはもっています。
例えば、キャッチボールをするとき。
投げる前から、どこらへんに落ちるのかを知っています。
「あの人はあのくらいの力だからボールを投げたら放物線を描いてここらへんに落ちるだろう」
なんて考えません。
高度な心理学や物理演算などを駆使しているわけではないのに、私たちは飛んできたボールをキャッチすることが出来ます。
ものすごい予知能力です。
もちろん、ボールを全然キャッチ出来ない人や、とんでもない方向へ投げる人もいます。
しかし、基本は変わりません。
ボールが飛んでいる途中で180度軌道を変えて自分に戻ってきたり、相手が急にスーパーサイヤ人に変身して豪速球を投げてくることはありえません。
もしかしたらそういうこともあるかもしれない。。。
そう考えていたら精神耗弱で病気にかかってしまいます。
「ボールはこの様に飛んでくる」
「あの人はこう投げる」
無意識にそう信じているから、キャッチボールが楽しめるのです。
キャッチボールだけでなく、もっと長いスパンでも、私たちは未来を確信しています。
この記事を書いているのは夜ですが、あと10時間もしたら太陽が登って朝になっています。
最近寒くなってきましたが、これからもっと寒くなっていきます。
あと50年もしたら、みんなおじいちゃんおばあちゃんになっているか、もう死んでいます。
これらはみんな、まだ起こってないのに私たちが知っていることです。
聖書には、もっともっと長いスパンでの未来が描かれています。
そして、そこに書かれているのは希望的な未来です。
私たちが信じているのはそういう希望的な未来、それを信じ仰いでいる、つまり信仰しているのです。
摂理、20代折り返し男の独り言
この年になると(まだ20代ですが)、時間の経つのが早くなるものです。
いろいろやりたいことはあるのですが、体がいくつあっても足りません。
今日も、仕事を終えて帰ったらこんな時間。こんな調子で自分の人生はあっという間に終わってしまうのかと思うと、ふと寂しくなります。
でも、人間1人では生きていないといいます。
自分の人生でできることは大したことなくても、多くの人と人生を分かち合うことで何倍ものことができます。
僕は摂理にいますので、摂理の多くの仲間からたくさん学びました。
ブログを書くようになったのもその一つで、「摂理の侍」のようなイカシテル感じのブログを目指しつつ自分にその才能がないのを悔やみそうになるけど摂理の先生が後悔するなというから前向きに自分らしさとは何かを考えながらブログを書いています。
自分の人生を濃くする上で人間関係はとても大事ですが、それ以上に大事なのが、摂理にいる僕の意見ですが、神様との関係です。
神様と関係すると、神様と関係してきたすべての人と関係することになります。
アダムとイブからはじまって、ダビデ王、イエスキリスト、数十億人のクリスチャン、ブッシュ大統領に至るまで、文化、歴史をまたいで無数の人と関係することになります。
もう、寂しいなんていってられません。
神様を信じてきた人の歴史は、常に正しかったわけではなく、何度も神様を怒らせ、殴られ、許され、共に歩み、再び怒らせ、蹴られの連続ですが、そこから僕は学んでいます。
知識を詰め込むだけの歴史でもなく、武勇伝を連ねただけの歴史でもない。
リアルな人間の歴史が、僕の代わりにたくさんの経験をしてくれています。
神様との関係は、短い時間しか与えられていない私たち人間にとって、強力なバックボーンになることを確信しています。
摂理の夕べ
摂理、今日の話より。
「穀物を奪うネズミを捕まえようとするのが知恵なのか、いそしんで穀物を刈り取るのが智恵なのか。」
ネズミを捕まえればすっきりはするが食べるものがない。それより働きなさい、という内容の話でした。