目に見えるもの

目に見える現実は、誰かの夢が形になったものであり、それは過去の夢であり、そこに夢はもうない。
まわりを見渡しても自分のやりたいことが見つからないというのは、まわりにあるものが夢のかけらでしかないからだ。
私たちは、そういった現実では、その現実を作った人が過去に見た夢の通りに楽しむことが出来るが、その代わりそれ以上も以下もやってはいけない。
たとえば、ウォルト・ディズニーは夢をもってディズニーランドを作った。
私たちは、ウォルト・ディズニーが「みんなこんな風に楽しんでくれたらいいな。」と夢見た通りに楽しむことが出来る。
しかし、それ以外のことは出来ない。
ディズニーランドに飲み屋のノリで王子様にからんでも、笑いですますことは出来ない。
飲み屋の創業者も「みんなこんな風に楽しんでほしいな。」と夢見て飲み屋を興した。
私たちはその夢の通りわいわいやることは出来るが、それ以外をしてはいけないし、期待もしてはいけない。
飲み屋を、ディズニーのノリで海賊の帽子を被って散策しても冷やかされるだけだし、赤ら顔のおじさんの中にジョニー・デップはいない。
つまり、誰かの夢が現実化した結果であるこの世の中では、私たちが出来ることはその夢を体現するだけで、それは「自分が本当にしたいこと」とは違う。
最近の世の中が便利だけど息苦しいのは、私たちの行動が、「誰かがみた夢」という形で規制を受けているからである。
本当に自分のやりたいことというのは、誰か人からもらうものではなく、信仰によって内から湧くものである。
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