戦争が起こらないように先生は祈っていた、と言いました。
「特に2007年から、極限に至るまで祈りました。今まで摂理史を30年間育てておいたのに、戦争が起こったらどうしよう、と思って、もがきながら心と思いを尽くして死ぬほど祈りました。」
水曜のこの御言葉を聞いて、思い出しました。
数年前に、「戦争か迫害かを選べと言われたら、私は迫害を選ぶ。」と言っていた言葉です。
結局、その言葉通りになりました。
戦争、起こってませんね。
先生は獄に繋がれてしまいました。
あの時先生が祈っていなかったら、違っていたのかもしれません。
先生は無事で、そのかわり韓国や日本は焼け野原だったかもしれません。
ミサイルは日本海に落ち、日本上空を通過しました。
戦争まであと一歩でした。
「迫害を選ぶ」と言ったその一言の裏に、どんな決心があったのか、どんな苦労があったのか。
今さらですが考えてしまいます。

「自分には何もできないと思っていたけど、メンターと出会って時間を共にしていたら、できる気がしてきて、そのうち出来るようになったんだよね。」
今日、仕事中に実業家のお客さんと談話しているときに聞いた言葉です。
「こうなりたい、という人と一緒にいる時間が長いほど、その人に似てくるよ。」
私たちのメンターは主です。
もっと主と共にする時間を増やしたら、もっと主に近づけますね。

日曜日に、先生がゴリラの左手を引っ張って殺した話がありました。
北朝鮮にはいろいろな逸話がありますが、その中に「金正日の左手は麻痺している」というものがあります

式典や視察に姿を現す金正日は、いつも左手を動かさないんですね。
以前は映像を見ながら、「すげえ、ほんとに動かさないぞ。」ぐらいにしか思っていませんでしたが、御言葉を聞いて見方が変わりました。
目には見えませんが、金正日の動かない左手を、先生が引っ張っていたんですね。

今までずっと疑問だったことが解けました。
疑問というのは、箱根駅伝の学連選抜のことです。
このチーム、優勝経験がありません。
選抜なのに何で勝てないのかが、素人の僕には疑問でした。
以下は有名な話かもしれませんが、目から鱗だったので載せます。
「箱根駅伝で学連選抜ってあるだろ。
予選落ちした大学にもめっちゃ早い奴はいて、そいつらから選抜して作ったチーム。
普通だったら優勝するはずじゃん。
だけどいつも違う大学が優勝するよね。
何でだと思う?
たすきをつなごうって気持ちがないんだよ。」
勝利するために何が必要なのか、考えさせられました。

析という漢字についての御言葉がありました。

以前は明について話してくださったこともありました。

漢字には言外のメッセージがたくさん含まれている、ということがわかり、文系人間にはとても興味深い話でした。

義も何度か出てきたことがありました。

義という漢字は、一般的には使いません。

誰かが義とか正義とか言っても、おかしいというか大げさというか、不自然さを感じます。

なぜそう感じるかは一概には言えませんが、長い歴史の中でそうなってしまった風があります。

以下は小説ですが、司馬遼太郎著「項羽と劉邦」からの抜粋です。

義は、正しさのために自然の人情を超える倫理姿勢をいう。この語感には、後世、「外からかりたもの」という意味が加わってゆく。この当時から、すでに「実行上むりはありながら」という意味もことばのなかにまじっていた。

言葉もいろいろないきさつを経て今日に伝えられ、それが私たちの認識になっているんですね。

義に比べると析は、御言葉で「よくわからない」といわれていたように、複雑ないきさつがなく、純粋な言葉であるといえます。

先生の名前に加えられたことで、これから良い意味をたくさん持つ漢字になっていくのではないでしょうか。