御言葉で一年を振り返ることができる 摂理の便り

今年最後の御言葉は、
「行ったとおりに報いた」
でした。

毎年、年末には一年を締めくくる
御言葉が宣布されますね。

この御言葉を聞くことで、一年を振り返ることができ、
あれができた、これができなかった。
そう考えて、気持ち新たに新年を迎えることができます。

しかし、御言葉がないと、
最近は一年の振り返りが難しい
世の中になってきましたね。

クリスマスにわーって遊んで、
クリスマス明けに力尽きて、
でも「もう少しで年末休みだ」
って頑張って休みに滑り込んで、
ずっとやってるお笑い番組を見て、
年始から福袋買ったりして、
気づいたら仕事始め。
そしてまた長い一年が始まります。

世の中が騒がしくなってきて、
日本旧来の良い習慣がなくなりつつありますが、
私たちは御言葉で秩序を保てることが
ありがたいですね。

一年間、どうでしたか?

特に年末、100%主を愛せましたか。

清く過ごせましたか。

それとも遊んじゃいましたか。

2013年は、
迫害も少なく、
御言葉も続けて送ってくださり、
ここ数年で一番過ごしやすい年でした。

でも、まだはじまったばかりです。

道半ばです。

ここで満足したり、何かにおぼれたら、
ここにとどまることになります。

変化して抜け出すことが今すべきことです。

引き上げが目的です。

年の移り変わりとともに頭も切り替えて、
来年主とともに走っていきましょう。

先生の行動力を自分のものに 摂理の便り

金曜日、仕事納め、そして23時くらいに
聖殿に行って御言葉を聞きました。

一人で聞きましたが、先生の話ぶりに
一人で興奮していました。

先生は御言葉を火のように、
カメラ一台以外何も無い環境で伝えているんです。

その火を受けて僕も興奮していました。

環境がどうでも関係なく、
変わらず極的に主を証される先生です。

一年を振り返って思うのですが、
先生のその超人的な精神が、
すべての不利な状況を転換させました。

悪評やら裁判やら取材やら投獄やら、
何があっても先生はまったく変わりませんでした。

墓の期間、様々な状況に出会って
摂理の将来性を心配し、
見切りをつけた方も多くいます。

その方はきっと今頃
「摂理は先生なしでほそぼそやってんだろう。」
と思っているでしょう。

しかし、人間の考えとは、神様の考えは違います。

ほそぼそと続けるどころか、V字回復しました。

ずっと底値を這い続けるのかと思いきや、
ぐりぐりと持ち直してきました。

普通の人はあそこまで虐げられたら
再起不可能です。

しかし先生はそれをやってしまいました。

四転五起不屈の精神。

この言葉を、実際に行って、
私たちに示してくださいました。

そして2014年はさらに次元を上げて
御言葉を伝えると仰っています。

もうなんかすさまじいですよね、
「ああ、ここまでやるんだ」って。

うっかりして口が半開きになっちゃいますよね。

先日の御言葉で、みんなに手紙を書いているうちに
気づいたら夕方になっていた、と仰ったんです。

僕は、年末仕事に忙殺されて、
気づいたら昼休みが終わっていたということがあり、
その時、どれだけ集中したら時間のたつのを
忘れるのか、というのを体験したのですが、
普通にあれが2日続いたら倒れるなって思いましたね。

先生についていったら2日で鼻血が出る、
ということわざもありますが、
それくらい先生の行動力はすさまじいものがあります。

私たち一人ではたいした行動はできません。

しかし、私たちは先生を師とし、新郎として、
影響を受ける立場にあります。

先生の、そして先生を通して働かれる
御子の気を受けて、力をもらって、
来年はどんどん行っていきましょう。

PS
このブログの文章、
見た目のインパクトをつけようと、
前まで赤字で強調していたんですが、
若い子が「天国には黒と赤がないんだって」
って教えてくれたので、
啓示だと思って青字にしていました。

しかし最近、チョウンさんが
真っ赤な服を着て登壇するんですよね。

あらーってなって、やっぱり赤字にすることにしました。

先生も以前、「黒はだめだ」って言った後に、
黒いスーツで説教を伝えられたことがありました。

それで「これは黒じゃないよ、濃い紺色だよ」
って言うんです。

笑っちゃいましたが、
同時にすごく嬉しかったのを覚えています。

なんでかって、社会人、
スーツは黒が基本なんですよ。

それ以外持っていないことが多いんです。

説教で「黒はだめだ」って言ったら、
黒い服を着ている人に対して
すごく冷たい視線が送られてくるんですが、
それを先生は離れていてもわかって、
自ら黒い服を着て現れたんですよね。

こういうところいいですよね。

なかなか文章を通しての説教だけでは、
そういう生の、リアリティある愛が
伝わって来づらいことがあります。

早く出てこられて、みんなの前で
ライブの説教を伝えていただきたいですね。

クリスマスの目的 摂理の便り

仕事の忙しさはヤマを越えて徐々に落ち着きを取り戻しつつあります。

仕事が忙しいことで、礼拝に出られないといったデメリットは多くありましたが、良いこともありました。

それは、余計な情報に触れる機会がなかったことです。

ずっと会社にいたので、クリスマスの「ク」の字もありませんでした。

何の誘惑にもさらされませんでした。

12月に入ってから、巷で聞いたクリスマスソングは一回だけ。

あちこちに気を散らす機会が無かったので、頭の中はすっきりしているし、考えもシンプルにまとまっていて楽です。

しかし一般的にはそうではありません。

恋人が見つかれば天国、見つからなければ、あのクリスマスの雰囲気がわずらわしいだけの地獄です。

先日、銀行でお金を下ろしているときに、後ろで「おせーよ、まだやってんのかよ、早くしろよ」ってずっと言いながら唾を吐きまくる人がいたんです。

一瞬いらっときてしまい、「なんすか」と言って見ていたら、「俺はクリスマスの流れに乗れなかった、どうしよう」って気持ちが伝わってきたので、かわいそうだと思って「そんなら先に使いますか?」って聞いたら「うるせーよ」と言って大人しくなりました。

クリスマス、なんなんでしょうね。

クリスマス本来の目的は、あなたを救うキリストが誕生したことを感謝してお祝いすることですが、日本ではそこの目的を摩り替えているのはご存知ですね。

日本でのクリスマスの目的、それは端的に言えば企業が儲けることです。

なんでかっていうと、企業が今の日本のクリスマスを創ったからです。

どんなに華やかでも、どんなに雰囲気が良くても、どんなに楽しくても、全ては企業がお金を稼ぐために作り上げた世界です。

クリスマスの主人公はあなたではありませんよ、企業です。

企業が新郎であって、クリスマスはその新郎が創造した世界、その目的はただ一つ、会社に栄光と儲けを帰すること。

変な言い方をするとこういうことです。

目的が目的なので、クリスマスにどれだけ投資しても、行き着く先は、企業の喜びですね。

日本のクリスマスの道を進んでいって、100の線を越え、200の線を突破し、300の線までたどり着いた先にあるのは、会社天国です。

会社とあなたが一体になる天国です。

会社が新郎となり、あなたが新婦となる世界です。

頭痛いですね。

もうそれは天国じゃないですよね。

だから溺れないようにしましょう。

目的がなんなのかはっきり分かって、うわべだけ見て判断しないで、自分が進むべき道を知恵をもって見分けていきましょう。

クリスマスの本来の目的が回復することを願います。

あなたを救う救い主が生まれたこと、本当に奇跡です。

その目的が自分の引き上げであること、本当に感謝です。

そうした目的を持った世界に呼ばれた価値を感じてこの期間を過ごしましょう。

この一週間、毎日終電ペースでした。

水曜も金曜も礼拝にいけず、朝のお祈り会にも参加できない。

いわば普通のサラリーマンと同じような生活をしていたわけですが、
そこで一番考えたのが、「いったいみんな、どういう計算で人生を過ごしているんだろう」ということでした。

仕事して、休んで、仕事して、遊んで、休んで、仕事して。

そうやって40年働いて、途中で子供を育てて、退職して、余生を過ごして、死ぬ。

うーん、自分で考えても希望的な計算ができない。

「そんな大げさなことを考えるな、気楽に行こう」と人は言うでしょう。

そうですね、確かに、仕事を一生懸命したらお金がたくさん稼げるし、楽しいです。

来月はおそらく給料1.7倍くらいになりそうです。

それを考えるとよしって思います。

それでちょっと遅めのクリスマスプレゼントを自分にしたりしてね、よしじゃあまた頑張るか、と。

それで頑張って、疲れたらまた自分にご褒美したり、遊んだり、旅行行ったり。

そうしているうちに、人生の日が暮れて、遊ぶ体力もなくなって、死ぬ。

・・・

やっぱりそこまで考えちゃいますね、僕は。

どう考えても人生の戦局が不利に傾きます、信仰がないと。

どうコマを進めていっても、詰むんですよね。

「あれ、もう手がない」って状態にいつかなる。

もし仮に成功して、事業を起こして、人生を謳歌できたとします。

僕の祖父はそういう人でした。

葬式では、向かって右に親族が並び、左に会社の人が並び、僕は正面に祖父の会社の人たちを見ていたんですが、まあ、悪い言い方をすると、会社狙っている人がぽつぽついるなあと、そんな印象でした。

祖父はそういうところを抜かりなくする人だったので、死ぬ前に叔父に事業を渡しました。

大変なんだなあと思いました。成功した後も。

そして、叔父の代のあとはどうなるんだろう。

さらにその後は?

って考えていくと、やっぱり不安があります。

旧約聖書に、ソロモンっていう、王であり大富豪であり知恵者が出てくるんですが、その人は人生の終盤に、相続に触れてこういいました。

「今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。」伝道の書2:21-22

そして、その子供の時代に国が二つに分裂してしまいます。

彼が建てたエルサレム宮殿も、いまや嘆きの壁だけが残るだけです。

人生の空しさを知っていたソロモンはいいます。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。」伝道の書12:1-2

人生の計算を間違わないよう、霊に投資しないといけませんね。

肉は滅びますが、霊は滅びませんから。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」マタイ24:35

仕事が忙しくなると何が一番問題かって、性格変わる人が出るってことですね。

忙しくなる → 業務がこなしきれなくなる → それは自分のせいじゃなくてあの人が悪い → あいつのせいで忙しくてストレスになってるから責任取れ

これが黄金パターンです。

しかもこれを女性じゃなくて男性がやるんです。

これを先生に使った女性が過去にいたので、これは女性がよくやる必殺奥義なのだと思っていたんですが、計算が違いました。

女性だけが使うムーン・スパイラル・ハート・アタックだと思っていたんですが、これは男性も使うんですよ。

僕は今まで、誰かがこのムーン・ゴージャス・メディテイションを繰り出そうとしてるなってのがわかると、その人から逃げるようにしていたのですが、これもまた間違いであったと、金曜の御言葉を聞いて気づきました。

先生が借りていた聖殿にいつもおしっこをしにくる犬の話、ありましたね。

先生はその犬を追いかけました。

そして叱ると、犬は「習慣になっていて、悪いことだと思いませんでした。」と言ったんですね。

僕は「悪いことだとわかってない」っていう点にはじめて気づきました。

今まで何度かその犬の話は聞いていたんですが、そこに気づいたのは初めてです。

ちゃんと言えば分かることもある。

そこをわかったので、実践してみたいと思います。

ブログを書く目的 摂理の便り

会社が水、金定時退社日で、どんなに忙しくても礼拝のある日は帰れるラッキーな職場なのですが、最近水金も残業になってきました。

それで金曜は御言葉が終わってから聖殿に行きましたが、それでも主がそばにいて恵みを与えてくれました。

少しすれば落ち着くと思うのですが、しばらくは、毎朝メールボックスをチェックするたびに山のような新着メールが届いている光景を目にしそうです。

摂理では社会は実践の場だといわれますが、忙しいときは特に実践のしがいがありますね。

水曜日に「小さいことから行いなさい」って仰いましたが、これがモロに使えました。

朝メールボックスがパンパンになっているんですよ。

普通に考えたらどうしたらいいかわからないですよね。

でも「小さいことから行いなさい」っていう裏技を知っているんです。

わかりましたーっつってとりあえず手をつけていくんです。

するとそのうち終わります。

それであー感謝だなーっていってパンを買いに行って、パンについているシールを集めるわけです。

もう少しでミッフィーカレープレートがもらえるくらいたまります。

ためても交換しないかもしれませんけどね。

ためるのが楽しいだけなんで。

自分の仕事が終わったら隣の人の仕事を手伝います。

隣の席の人は御言葉聞いていません。

朝、メールに圧倒されて、真っ青になって「えーどうしよう」って言ってメモリがいっぱいになって動作が遅くなります。

それで仕事が進まないと上司に「何やってるんだ」って言われて、事情を説明して、1時間くらいミーティングする。

ミーティングから戻ってくるともっと仕事が増えていて、じゃあ支援を求めようということになって、経験のある人を呼んできて、業務説明をする。

そうこうしているうちに、もう夜です。

本当に天と地の差があります。

なんでそんな差が生まれたのかっていうと、たった一言「小さいことから行いなさい」っていう御言葉を知っていたかどうかなんです。

たった一言です。

僕と隣の人は平常時の仕事のパフォーマンスはそれほど変わりません。

むしろ彼のほうが早いです。

自分でマクロ組んで仕事効率化しているし、ディスプレイ3台持ちで見た目もできる感じです。

僕はマクロ組めないし、ディスプレイ3台の代わりに菓子パンが机の上に置いてあります。

ただ、違うのは御言葉を知っているだけ。

「だけ」はおかしいですね。

先生からもらっている御言葉っていうのは、マクロ組めるとか、仕事効率化虎の巻を知っているとか、資格持っているとか、そういう表面的なスキルとは違います。

どんな仕事をするときも、何をするときでも、流行廃りに左右されず、永遠に使える、それが御言葉です。

しっかり自分のものにしていきましょう。

話は変わって、水曜礼拝の後にポンソクさんのブログ「古木」の紹介がありました。

出会いと対話
ログインすることで記事を読むことができます。

そこでポンソクさんがブログを書く目的などを話していただいたんですが、、、、
同じブログを書いているものとして、本当に自分が恥ずかしくなりました。

どんな目的だったかと言うと、聞いているうちに自分が恥ずかしくなってきて耳を閉じてしまったのであまり覚えていません(笑)

ただ、先生を証しようとするその一心だったのは覚えています。

先生のことを生涯を通してご存知であるポンソクさんにしかできない話もありました。

そんなのとても今の僕にはできません。

できないんですが、じゃあ無理して背伸びして立派な証をすべきかというと、それだと続けられないんですよね。

無理して御言葉を真似して書いた文章を気に入ってもらえたとして、「すばらしいです、どうしてこんな文章が書けるんですか」って言われて、「いやあ、まあコツとしては、御言葉のコピペかな」っていえないじゃないですか。

ですので、たとえ足りないんだとしても、比べないで正直に書こうと思っています。

正直に書いていたら、気に入ってもらえてもそれが自分の本性ですから、それはとても嬉しいことです。

正直にやってたら足りないところもあからさまになるので、あとは実践するうちに修正していけばいいだけです。

ところで、ポンソクさんが生涯を通して先生のことをご存知であるがためにポンソクさんにしかできない証があるのと同じように、当世を生きている私たちにしかできないことってありますね。

後世にはけっしてできないこと、今やっていますよね。

引き上げです。

この時期を逃すと二度とできません。

先生がいないから。

後世の人からしたら、私たちの話を聞いて「うーむ、すごい・・・とてもわれわれには無理だ」って思うわけです。

そう、われわれは偉大な先人たちなんです。

後世から見たら。

ともに走る兄弟の顔を思い浮かべていただければ、みんな偉大な顔をしていますよね。

していますね。

アーメン。

毎日何気なく過ごしていますが、とても大事な今のこの期間だから、自負心をもって大切に過ごしましょう。

ちなみに僕がブログを書く目的は3つあります。

1、主と近くするため
2、ライティングの勉強
3、世の中に証する

もうポンソクさんのブログの目的に比べたらちっぽけで恥ずかしいばかりですが、これが正直な目的です。

1については、社会人として、どうしたら距離は離れていても心が離れないかを考えに考えた結果です。

社会人、普段一人ですからね。

ほっとくとどんどん流れていくのを以前から如実に感じていました。

それでどうしたら、どうしたらずっと近くにいられるんだろうってすごくもがいていました。

会社を辞めて自由人になって御言葉の実践に専念するのもいいですが、まだそれだけの資本がない、その結果、文章でメッセージを送ることにしました。

そばにいてほしかったからです。

これが僕の文章を書く大前提です。

もしかしたら先生も同じところはあるかもしれません。

たぶんこの期間、先生が毎日御言葉を送らなかったら私たちは世の中に流れていますよね。

それを引き止めて引き上げをなさせようと御言葉を毎日送ってくださっていることが本当に感謝です。

2については、文章を書く勉強のためにブログを書いています。

文章はどこにいても使えるツールです。

監獄にいても。

そういう風に、先生が血のにじむ実践を通して道を開いてくださったツールです。

だから文章力を磨いておけば、将来どうなったとしても大丈夫ですね。

3については、もともとブログをはじめた目的がそれでした。

世の中に先生を証するぞっていう目的が一番でした。

でも、それだけだとモチベーションとして弱いっていうのを、実践していて感じるようになりました。

証するぞっていうだけだと漠然としていて、実践しているうちにまるで宙に鉄砲を撃っているような空しさを感じるようになりました。

それで好きな人に向けて書くっていうのに気づいて、それが今は一番のモチベーションになっています。

今では文頭に御言葉を入れていることがありますから、はじめてこのブログに来た人は「なんじゃこりゃ」っていってすぐページを閉じるはずです(笑)

そうして読む人が限定されていきます。

ブログって誰でも読めるように公開されているものなので、誰が読んでいるのか心配になるかもしれませんが、そういうのはあまり心配ないと思います。

読むっていう行為は体力がいるし時間もかかるので、その文章を気に入ってくれる人以外、どんどん離れていきます。

街頭演説なら、それが耳障りなときは「うるせー」って言いますが、ブログなら「閉じる」ボタンを押すだけなんで。

だから愛している人に向けて書く、実践する、これがとても大事です。

かっこつけて書くと、かっこつける霊が寄って来ますから、無理して立派な証をしようとするのはおすすめしません。

是非、あなたも何かするとき、好きな人に向けて、っていうのが継続する力になりますので、実践してみてください。

幼い新婦を脱却するぞ 摂理の便り

誰もいない聖殿って、ちょっとわくわくしませんか。

僕は聖殿に入って誰もいないと「わあ」って思います。

それで賛美をしたり、前に出て話す練習をしてみたり、いろいろ好き勝手しています。

一方、誰もいない会社って怖いですよね。

誰もいない学校もめちゃくちゃ怖いです。

なんで同じように「誰もいない」って状態なのに、違うのかわかりますか。

霊界が違うからですね。

聖殿には、誰もいなくても三位がいらっしゃいます。

礼拝には誰よりも先に来て待っていらっしゃるという御言葉がありました。

いらっしゃるから、人がいなくてもとても暖かな感じがするんですね。

そして会社や学校にもいます。

三位ではなく、低級な霊が。

御言葉で出てきたわけじゃないのでどんなのがいるのか確かではありませんが、今の学校教育っていうのが大企業と政治家が話し合って「優秀な労働者を作る教育をしよう」と決めてできたものである以上、人の価値を100%発揮できないように押さえつける力は存在しているといえるかもしれません。

その力っていうのを、人がいないときにモロに感じて怖いと思うんじゃないですかね。

僕の考えですが。

教育に従事されてる方は、是非、職務を全うする以上に、農学校から多数の偉大な先人を送り出したクラーク博士のように、そして先生が私たちを教えてくれたように、子供を大きく育てていただけたらと思います。

いずれにしても、ひとっ気がなくなったときにその霊界っていうのははっきりしますね。

おそらく、この肉体がなくなったときも同じような現象が起こるのでしょう。

この肉体がなくなるとき、死ぬとき、そのときに、まるで人がいなくなった聖殿のように、あるいは学校のように、今まで隠れていたものが姿を現すんでしょうね。

そしてそこでずっと暮らすんです。

それだからもっと頑張らないといけませんね。

というわけで、日曜日は霊界の話をしてくださいました。

霊界は木の年輪のようになっていて、命の道に行くのは200人に一人と仰いました。

0.5%です。

大体、学年に一人ですね(汗)

学年トップにならないと命の道にいけないという・・・。

いやいやしかし、私たちはその命の道を歩いているんですよね。

まわりがみんな命の道を歩いている人なだけです。

学年トップばかりが集まったようなもんです。

御言葉にあったように、選手が選手村に集められるように、集められているだけです。

0.5%っていうと、経済圏では富裕層って呼ばれる層に余裕で入りますね。

純金融資産を1億以上持っている人のことです。

すごいですよね。

これをいかに実感して、実践して、実体化できるかが聖霊集会の御言葉でした。

あなたは、もしここに一億があったなら何をしますか?

いろんなことが頭に浮かんできますね。

あれを買って、これをして、と。

それでは、摂理の御言葉があったら何をしますか?

いろいろ浮かんでくるでしょうか。

一億以上の価値がある御言葉ですよ。

ぱっと、あれして、これして、って浮かんできますか。

こないんです。

わくわくしていてもたってもいられない、ってとこまでいかない。

それが課題なんです。

僕にとっても。

そこの頭の回路を正常化したら、ものすごいことになります。

先生からもらっているものがあまりにも多すぎるから。

あとはそれをどう行うか。

どうやったら御言葉っていうお金を使って買い物ができるのか。

それを知ること。

わかりやすくいうとそういうことです。

僕は小学校低学年のころ、いや幼稚園だったかな、どうやったら買い物ができるか知りませんでした。

お母さんの買い物についていって、「何か買っていいよ」って言われたから、スーパーをくまなく回って、ついにゴルフのおもちゃつきのお菓子を買おうと決心しました。

まだ覚えています。

ゴルフのおもちゃつきのお菓子を買うと決めたのですが、どうしたら買えるのかがわかりませんでした。

母に教えてもらったかなんかでレジに並ぶっていうことを知ったのですが、知っても、なかなか実践できませんでした。

なんか怖かったんです。

レジが(笑)

おばさんが無表情で品物を右から左に移しているんですよ。

お客さんも流れるようにてきぱきと動いているんです。

その流れに入れるわけないじゃないですか(笑)

レジに並ぶくらいなら死んだほうがましだ、じゃないですけど本当に嫌でした。

なんとか買って、精根尽き果てて家に帰りました。

おそらく、今の私たちも同じような状況じゃないかと思うんです。

先生からみたら、ほんとどうしようもないけどかわいい、みたいな感じじゃないですかね。

幼い新婦です。

御言葉の使い方、研究していきましょう。