先生の実践力

主の別の名前は「行い」だ。 愛すれば、結局私のために行う。 じっとしていられない、という御言葉を聞きました。
先生のすごさの一つは、その実践力ですね。
構想を受けたら実践する、その量が尋常じゃありません。
でも構想を受けたからといっていきなり成功したわけではなく、月明洞開発ではむしろ土木なんかやったことない状態からスタートしました。
伝道も、恥ずかしくて声がかけられなくて死のうとした、そんな性格からスタートしていらっしゃいます。
持ってるのは、主への愛のみ。
新しいことを始めるときに、いきなり成功を期するのはちょっと違うかもしれませんね。
とりあえずやってみて失敗して「こうやると失敗する。新しい発見だ。感謝します。」と言ってやり方を変えてみる。
もちろん確認しながらなんですけど、それを猛スピードで最後まで繰り返すのが先生のやり方だなあと思いました。
世の中的に言うと、PDCAサイクル(計画→実行→評価→修正)の回し方が半端ないということ。

色々な時

すべき時に仕事をしなければ問題が起こる、という御言葉を聞きました。
時にも色々ありますね。
言葉遊びになってしまいますが、数秒しかないタイミング、数時間のセッション、1日単位の概日リズム、数ヶ月のシーズン、数年間のライフステージ、千年単位の時代。
色々あります。
全部大事だけど、一番は時代。
時代がわかったら、次は自分が生きている当世に何をするか、そして今年何をするか、今日何をするか、この瞬間何をするか。
御言葉と祈りで、自分の仕事を探していきたいですね。

夢を見た。

御言葉を聞く限り、合っているか微妙なんですが。
今朝、1時の目覚ましで目が覚めて、「よし」と思って座ってそのままウトウトしました。
その時、夢を見ました。
礼拝の場面でした。
誰がどんな服を着ていたのか詳しく見ませんでしたが、多くの人が白い綺麗な服を着ていました。
白い上下スーツに真っ赤な蝶ネクタイをつけている人もいました。
誰だったか覚えていません。
牧会者はチマチョゴリを着ていました。
本当は来年もらえる予定の服だったそうなんですが、今年もらえたとみんなに話していました。
そんな夢。

忘れたら死ぬ

昨日、仕事中に一瞬ボーっとしたんです。
そしたら、崖から落ちそうなイメージが浮かんできて、雑多な考えがざーっと入ってきました。慌てて気を引き締め直したら、元に戻りました。
私たちは今、誰であれ、ある程度高い水準にいますね。
今までは雑多な考えが入ってきても、それがいつも通りのことで気にも止めなかったし、何かあっても先生の条件でなんとかなったもんですが、今はそれによって怪我をしたり、死んだりすることがあるということです。
高い所にいるから、落ちたら死ぬ。
忘れたら死ぬ。
しっかり御子をつかんでいきたいですね。

なぜ「帆」なのか?それは愛しているから。

主の帆を付けなさい、という御言葉を聞きました。
「帆」っていう比喩、新しいですね。
大人向けの話になりますが、なんで先生は「帆」と言ったのでしょうか。
御言葉をたとえるのに、火でも斧でもいいのに、帆だ、と言った理由。
その理由の一つは、私たちが「帆」と言われると、すごく具体的なイメージが湧いてきてわかりやすいからではないでしょうか。
なぜ具体的に浮かんでくるんでしょう。
おそらく、例えばパイレーツオブカリビアン。みんな知っています。
またはワンピース。僕も好きです(笑)
このような時代背景があって、船、帆、航海に対するイメージはすこぶる肯定的です。
とても良いイメージが人々の脳に鮮明に入っているんです。
2000年前には、イエス様は農民に対して「種」のたとえで天国の話をしました。
「種」と言われたから、天国を見たことがない人たちも「それならワシらにもよくわかる」と理解することができたんですね。
御言葉は、その世界を見たことがない人にとってはわかりづらいものです。
ですから、どれだけ相手にわかりやすく伝えるか、そこがポイントの一つでもあるんですよね。
福音が日本に入ってきたときも、そのような苦労がありました。
たとえば、聖書を日本語に訳すとき、訳者は「洗礼」の意味がわからなかったんですね。
そこで宣教師さんに聞いたんです。
訳者「あの、洗礼って言葉、ワシらの国にはないんですが、どういう意味でしょうか。」
宣教師「うーん、そうだね。難しいけど、洗礼を受けるとね、コリがとれるんだよ。」
訳者「へえ、さいでござんしたか。それならばそのように訳しましょう。」
会話の内容は適当ですが、そんな理由で、初期の日本語聖書では「洗礼」と書いてある箇所は「コリをとる」と訳されていたそうです。
今の聖書は専門用語のオンパレードで、何書いてあるのか初見の人にはわかりづらい内容になっていますが、おそらく400年前の宣教師さんは、「もっとわかりやすく伝えよう、イエス様の愛を伝えよう」という精神で布教活動をしていたんじゃないか、そんな苦労が垣間見える訳ですよね。
そしてここからは、ちょっと深掘りして、このブログのコアな読者さんのための話になります。
マーケティング用語に、「メジャー感を出す」という言葉があります。
これは、知名度の低い商品の販売をする際に、すでに一般的になっているものとコラボして、商品の信頼度を上げる方法です。
一番よく使われているのが、芸能人を起用する方法ですね。
新しい化粧品のCMに、ドラマで主役を演じた女優を起用する。
すると、ドラマのイメージが化粧品のイメージと重なって、化粧品の信頼度がぐんと上がるんです。
新しいものって、新鮮であるのと同時に、「あやしい、ほんとに大丈夫なの?」と思われるのが常なので、そうやってメジャー感を出していくことが重要だと、この前仕事をしながら調べました(笑
メジャー感を出すのは、なにも芸能人を起用するだけではありません。
人々が「これはアリ」と思っているものを使えばいいんです。
ドラマ、CM、雑誌、漫画、映画、スポーツなど、時代によって一般的になっているものと同じ雰囲気を出す。それがメジャー感を出すということです。
よくありますよね、見ただけで「これ絶対おいしいやつや!」ってわかるお菓子。
または「これ絶対あかんやつや!」とわかる仕掛け。
そういう雰囲気を作っていくこと。
もちろん雰囲気だけじゃダメなんですが、知名度を上げるためには必要なことです。
これから様々な新しいことにチャレンジしていく際に、メジャー感を出す、ぜひ活用してみてください。
ちなみに、このブログはメジャー感を出すという意味では失格です。
いまだに無料ブログで、アイキャッチ画像も使わず、SNS連携もせず、カテゴリ分けもせず、記事にキーワードも入れておらず、コンテンツも短すぎる時があり、と、かなりマイナー路線を走っています。
それでも読んでくれている読者さんに感謝します。
そのうちカスタマイズします。

それは新しいものなのか、罪なのか

箴言は「罪を嫌いなさい」という内容で、春ののんびりした気持ちを引き締めてもらえる内容でしたね。
自分の話ですが、最近、会社での若い人たちの会話についていけません。
彼らが何を話していてもほとんど聞いてないので、若い子から「先輩って、めちゃくちゃスルースキル高いっすね!」と言われます。
スルースキルがなんなのかよくわかりませんが、罪を嫌うという面では、このスキルは強力な効果を発揮しています。
芸能の話にも耳を貸さないし、みんな大好き噂話も聞きません。
ただ、それはそれでいいんですが、もし、その若者の中に主が使っている人がいたとしたら。
「また若者がくだらない話をしている」とスキル発動してしまったら、自分の問題を解決しようとして主が遣わした人を、自分で止めてしまうことになりますね。
2000年前、メシアを待っていたユダヤ人は、イエス様を見ても、そこに主が働かれているのを見つけられずに、いつも通りの判断で「若いのは威勢がいいな。だがそうはいかない。」と、止めてしまったんですね。
先生が伝えてくれるバイブルスタディーの「無知」でも、ヨシアの問題を解決しようと主が遣わしたエジプト軍を、ヨシアは先入観をもって判断してしまい、その道を塞いでしまいました。
罪なのか、新しいものなのか、よく考えて判断していきたいですね。

考えで会うことについて

先生のことを考えなさい、という御言葉を聞きました。
ビジネスの話なんですが、お店を開く前、どんなお客さんがどういう行動を取って、どういう風に買い物をするのか、あらかじめ想定することがあります。
そこに出てくるキャラクターを、ペルソナっていいます。
これを具体的に設定するほど、実際お店を開いた時に「見込み違い」が起こりにくいと言われています。
霊的にも、伝道に行く前にどんな命に会いたいか祈るし、先生が御言葉を宣べ伝える前は木を人だと思って伝えていたという話もあります。
あらかじめ計画を立てておくってのが大切なんですね。
これから先生に実際に会うにしても、今、どれだけ考えて悟れるかがポイントになるはずです。
とそんなことを、昨日仕事中にサボって調べ物をしながら考えました。
このブログも、書くときにはどんな人が読むのか考えて書いています。
なぜかって、ネットは相手の顔が見えないからです。
実際には、目の前にうさぎや象の置物を置いて、そのうさぎさんや象さんが面白がってくれたらいいなという思いで書いたりします。
だからいつも「○○ですね」っていう書き方になっちゃうんですね。
そうやって書いていると、本当にうさぎっぽい人が読んでくれてたりするんですよね、不思議なことに。
あ、それよりメンバーの写真を置いて書いた方がいいのかな。
いや先生の写真だ。
そういうところは日々改善ですね。
とにかく、考えの中でどう接しているかで、実際にあった時にも現れるし、相手にも伝わりますね。
ぜひ、考えで先生に会ってくださいね。

御言葉を忘れない。

忘れないで記憶しなさい、という御言葉を聞きました。
月のことを、普段あまり意識することはないんですけど、夜に見上げるといつもあります。
そこに先生の顔を見ることができますね。
明け方に寝ぼけながら聖殿に向かう時も、仕事帰りに疲れている時も、いつもあります。
思い出して見上げればいつもそこにあります。
忘れないで、見ようと思えば、見えるものなんですね。

Photo
去年と今年の違いについて、御言葉を聞きました。

もう桜が咲きそうですね。

去年、桜が一晩で咲いたあの日から丸一年、あっという間だと、僕は人に会うたびに言ってしまいます。

去年と同じように桜は咲きますけど、御子愛の年から宣教の年に移ったことで、次元を上げていきたいですね。

「日は同じだが厳然して違う。」

そうおっしゃられた御言葉がありましたが、その「違い」は今まで、御子が全て成してくれました。

違うとおっしゃってその違いを実際に成したのは、私たちではないですね。

だからこれからは、私たちが、その精神を持って、「あ、ここ厳然と変えときましたんで」と言えるくらいになりたいですね。

今日も最後までありがとうございました。

兄弟のために祈る

先生が祈ったように、兄弟のためにも祈りましょう、という御言葉を聞きました。
摂理にはいろんな人がいますけども、その人も祈ってもらったから、御言葉を聞いていますね。
だから兄弟を見て、「ほんと、あの人ってあれだよねー」とか「あの人より、私の方が御心」とかじゃなくて、
どんな先生の条件がその内にあるのか考えたら、悟ることも多いだろうし、先生のためにも祈りやすいかもしれませんね。
兄弟のために祈ると、兄弟が栄えて、自分は何も変わらないとか、そういうことが起こりますけど、それが起こった上で、なお不平を言わず、信仰を強められるかどうかですね。
先生はそうしてきて、今あの場にいらっしゃるわけだから、先生の心情を知るなら、祈った方が良いですね。
今はその条件を立てた先生のために祈るときだともおっしゃっていたので、この機会を通してもっと先生の心情を悟りたいですね。