最善を尽くす以外に成功への近道はない

最善を尽くすことについて御言葉が伝えられた。

〈現実〉に最善を尽くしてこそ、良い〈結局〉を得る。お金を払って欲しいものを買うように、現実を投資してこそ未来を得ることができる。楽ができるのは現実か未来かのどっちか。現実も楽で未来も楽だというのは、お金を払わないで商品を手に入れることと同じで、法に触れる。
理想的なのは、投資をして得たリターンを再投資してなお余った分を現実の生活に充てることだ。富裕層のお金の使い方だ。
しかし最善を尽くしてもすぐに得られるとは限らない。御言葉でもあったけど、やっても残らないこともある。0.00001%でも可能性があるならやると仰った。ダメそうでも可能性があるなら繰り返して、三位が認める段階まで最善を尽くした時に、得ることができる。
頭で思い描いた時にはできそうなんだけど、実際に行ってみると随分違うということはよくあることだ。新しいことをする時は特に、思いもよらないトラブルがこれでもかというくらい降りかかってくる。
エジソンは電球を発明するまでに20000回失敗したそうだ。ただ失敗とは呼ばず、「電気が点かない発明を20000見つけた」と言ったのだそうだが。多くは、現実にぶつかっているうちに、初めの熱が冷めて、「十分やった、もう諦めよう。」となることがほとんどだ。そうして多くの人が夢を諦めて、夢を持っている人に対して「若いってうらやましいわあ。 」という嘲笑を送る。
だから、夢を叶えた人に付いていかなければならない。先生が岩の造形を作ろうとした時のはじめの構想を絵にしたものを見たことがあるけど、岩を人の顔の形に積んでいる絵だった。目、鼻、口がある笑顔、これを岩を積んで作ろうとされていた。実際にやってみて、いろいろ修正されたのだと思う。それで出来たのが鐘乳石としての岩の造形なんだから、構想だけのものより行いが共にした方が結局はずっと良かったことになる。
夢はそうそう簡単に成せるものではない。簡単に成せるなら成功者だらけになって、もはやそれは成功とは呼べない。以前いっしょにすんでいた人は演劇が好きだった。レミゼラブルの「夢破れて」という歌をよく歌っていた。メロディーがとても綺麗な曲なんだけど、歌詞が「夢は悪夢に 狼の牙が 望み引き裂き 」っていうトンデモだ。
たしかに現実には霊的に見るとこういうサタンがたくさんいて、様々な困難が押し寄せてくる。三位はそこを乗り越えてくることを待ち、乗り越えられるように助けてくれる。
多くの成功者を排出しているアメリカのシリコンバレーでさえ、スタートアップ企業の90%は失敗すると言われている。みんながそれをわかっている。ではどうするかというと、ものすごい勢いで行動して失敗を繰り返すのだそうだ。もうこれ以上失敗する要素がなくなった時、必然的に成功はつかめる。成功は宝くじを当てるのとは違ってランダムに訪れるのではない。経験が蓄積されていくものだ。
最善を尽くして行うことが成功の早道で、それ以外に方法はないのだろうと思う。

成功者は、与えることに成功した人でもある

主日の御言葉を聞いて、考えたことがいくつかあって、覚え書きとして残しておこうと思う。

・これからは本当に私たちから行わなければならないということ。
御言葉のほとんどを伝え終わったということ、これ以上の強度で聖霊をくださることはないこと、残ってる変化はあなた自身だと言われたこと。これらの御言葉から、私から行わないといけないことをひしひしと感じました。
今までのように受け身で御言葉を聞くのではなくて、能動的に聞かなければ発展がないのだろうと思う。御言葉を考えながら聞くということ。対話しながらということ。伝えることを前提にして聞くということ。
たとえば「現在が結局を決定する。」と言われて、自分にとって具体的に現在何をするべきかを考えると同時に、人に伝える時にどう伝えたらうまく証できるかを考えることも必要だ。御言葉から「投資」の話もできるし、「条件代価」の話もできる。行いを通して霊を成長させる話もできるし、アリとキリギリスの話でもいい。御言葉を核にして、様々に展開ができる。
御言葉を材料にいろんな料理ができる。それができればとても楽しいし変化があり、できなければ「また同じ話」と思って退屈に思うだろう。退屈なのは御言葉ではなく、自分の頭の中だ。もっと頭を使わなければならない。
・チョウンさんを証するのは私たち
御言葉を聞き終わって、原稿を読み直したら思った。
「あれ、チーターは腸が弱いとか歯が弱いとか、書いてないぞ。」
あの話はチョウンさんのアドリブだ。チョウンさんはご自身の話をされる時、ずいぶん低くして話す。あるいはすごくテンションが下がる。原稿に書いてあるからそのまま伝えられるんだけど、あまりスッキリした感じじゃなく、ときどき恥ずかしいのを誤魔化すようにニコニコしながら話す。「ありゃ、『自分のことは証できない』ってほんとだこりゃ」と思う。証は私たちがしなければならない。
・分け与えること
もらったものを全部与えた、と仰った。今朝の先生の御言葉でも、先生は分け与えることが習慣になっていると仰った。
「与えること」について、この数日で大きく考えが変わった。ルームシェアをしていると特にぶつかる問題が、自分のものと相手のものとの線引きだ。物質もそうだし、ルールもそう、時間もそうだ。自分はこの時間はこうしていたい、しかし相手は違う。私は一人で作業していたい、しかし相手は会話がしたい。
こうした違いが生じた時にはどちらかが犠牲にならなければならない、というのが今までの考え方だった。自分が犠牲になって相手が成功する。これはなかなかしんどい。ヨナのような心情になる。「あいつらが悔い改めて裁きを免れたのは俺のおかげだぞ!それなのに(ry」という心情だ。
でもそうではなかった。もちろん犠牲になるにはなるのだが、後には大きく返ってくる犠牲というものがあるのを、今回感じるようになった。与えることを習慣化することが成功の秘訣だ。成功者は誰でも、与えることの成功者でもある。
与えることが習慣化できないと、いつまでも周りと熾烈な競争を繰り広げなければならない。妬み嫉妬の連鎖が起こる。
ゴールドラッシュの話を聞いたことがあるかもしれない。ゴールドラッシュで一番お金を稼いだのは、金を掘りにやってきた人ではなく、金を掘りにきた人に金をよりたくさん掘れる道具を売っていた人だった。自分が成功してやろうと息巻いて人を押しのけていくより、人の成功を後押しする人が成功する。
もちろん、人の手助けをすると人によっては図々しくなる。でも自分はやるべかことをやってるのだから心が楽だ。そういう聖句なかったっけ。心の中心が自分に向いている状態で、とてもいいなと思う。図々しさにはまた別にしかるべき対処法がある。
自分は周りに何を与えられるか?これを行動指針の一つにしてもいいのではないか。社会でも、より良いサービスを提供できる人が成功する。御言葉も与えるものだ。理論でねじ伏せるものではない。礼拝がサービスと呼ばれるのも、御言葉によって人々が力を受け、復活するからだ。
・まとめ
御言葉を聞いて素直な感情以外の冷静な部分を、忘れないうちに書いた。素直な感想としては「ウェーイwww御言葉、聖霊様、ウェイウェーイwwww」だが、それではバカっぽいし、一行で終わってしまうのでブログ記事の体をなしていないと思ったので、このようになったのだ。

やりたい心は聖霊様の心

地震、すごい揺れでしたね。

思わず、揺れに合わせて踊りを踊りたくなりましたね。「主よ、地震より踊ったほうがいいですよ」と思わず言ってしまいました。
さて、やりたいけどやれない、ということも聖霊様が働いていることだと御言葉で仰いました。
確かに、昔はやりたいとも思っていなかったし、やっていることはことごとくやらされてやっていましたよ。あるいは周りがやっているからやっていましたよ。
おかげでいろんなことができるようになったのは感謝だけど、イマイチ活かしきれていませんよ。英語を学ぶのに何年間費やしたことか。
「私はこう考えてこれをやっています」そうはっきり言えたら、風が吹いても揺れませんね。そういう変わらない愛を捧げるのに必要なのが、やりたい心、聖霊様の心なんですね。

善悪を析くこと

善悪を裂きなさいと、御言葉で仰いました。
善悪を析くことは先生に学ぶのが一番です。
御言葉を聞いていると、本当に緻密に良いことと悪いことをさかれているのを実感できます。
法律で一律に裁いてしまうのとは違いますね。
僕もよく「あ、この御言葉の流れ、やばい俺裁かれる!やばいやばいやばい……ふー大丈夫だったー」ということがあります。御言葉の剣が向こうからやってきて目の前を通り過ぎて自分と余計な物の間をスパッと切っていく感じです。そういうのないですかね。
線引きがとても緻密で、善と悪を明確に析かれます。
社会でも、特にIT系の会社では、問題が起こった時に「問題の切り分け」という作業が行われますが、たいてい変なとこ切っちゃって余計にこじれます。「仕事のできる先輩が」「自身の経験と勘で」「その時の気分で」切り分けるもんだから大変です。
とても切ないのが、人間関係においてもビジネスのはかりざおで析いてしまう傾向が強いことですね。
今月も女性が一人、SOSを出したにも関わらず、相談に乗った人がみなバリバリ働く人で女性の心理を理解せず「それってあなたが悪くない?」という話に落ちてしまって、結局その女性は辞めることになりました。
人をモノの一部として扱う文化はなんとかしたいですね。日本の心の貧しさはこういうところからも影響を受けているように感じます。人間は神が創造されたとっても貴重な存在なんですよー。
御言葉のはかりざおを与えられたことに感謝です。



ニュースから学んだこと

実力はなくても愛があって選ばれた人の話、実力はあっても対話が足りなかった人の話、今週たくさん聞いています。

最近ニュースで、一流デザイナーの描いた東京五輪のエンブレムがネットで炎上し、ボツになりました。
炎上理由は他の作品の盗作疑惑。デザイナーの佐野さんは盗作を否定しましたが、結局、「一般人への理解が得られない」という理由で取り下げになりました。
素晴らしい作品で、実際盗作ではないんですけど、事態に収まりがつかなくなってしまいました。
問題の一つは、佐野さんがデザインを知らない人に向けての説明を怠ったことだと言われています。つまり愛が無かったと。
どんなものでも、全く新しいものなんて存在しません。伝道の書にも「日の下には新しいものはない」という聖句もあります。特に芸術分野、デザインや音楽なんて似たものが多いです。「このメロディどこかで聞いたな」ってのは山ほどある。でも、B’zとBON JOVIはいくら似ていても炎上しないが、佐野さんのデザインは炎上しました。
ロゴは一説によると一億を超える数があると言われていて、素人目に同じようなものがたくさんあります。しかしコンセプトが別物なら、作られた経緯が別なら、別物として扱う、というのがデザインというものらしいです。専門家にはそれが当たり前ですが、我々一般人は説明されないとわかりませんね。佐野さんはそこを説明をせずにネット民の追求から逃げていたので、余計に追われてしまいました。
もともとこのニュース、なんとなく見ていただけでしたが、この記事を見てはっとしたんですね。
<五輪エンブレム中止>佐野氏がコメント「人間として耐えられない限界状況」【全文】-弁護士ドットコム
残念ながら一部のメディアで悪しきイメージが増幅され、私の他の作品についても、あたかも全てが何かの模倣だと報じられ、話題となりさらには作ったこともないデザインにまで、佐野研二郎の盗作作品となって世に紹介されてしまう程の騒動に発展してしまいました。自宅や実家、事務所にメディアの取材が昼夜、休日問わず来ています。事実関係の確認がなされないまま断片的に、報道されることもしばしばありました。
あ、摂理でもこんなことあったな、と思ったんです。メデイアが押し寄せ、事実関係の確認がなされないまま断片的に報道される。これは日本の文化の一つだと思ったし、これからも変わることはないと思います。
ですから、こういう目に遭わないためには、説明が必要なんだと。つまり証ですね。「あれもこれも一緒だ」という人に向けて、コンセプトの違い、経緯の違いを証する。
ちなみに、エンブレムの見た目が同じでも全く違う、という説明は、こんな風にされていました。
よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?
かっこよく証したいですね。

台風と聖霊様

強力な台風が2つ近づいていて、各地で避難勧告や警報が発令されています。
日本では台風を17号、18号といったドラゴンボールのような呼びますが、以前アメリカでは女性の名前で呼ぶことが一般的でした。
暴風、豪雨、傘をへし折り、屋根を吹き飛ばし、神の創造物をなぎ倒して進んでいく台風を見て、アメリカ人は「まさにこのようにこうだ!」という閃きを得たのでしょう。
聖霊様が怒ると神も御子も止められないと御言葉で語られていましたが、今日は台風に吹き飛ばされながら、万物啓示を受けるのもいいかもしれませんね。
何はともあれ、お気をつけて。

3歳と300線

今日の箴言は、「もっと良いもの」と「それより劣ったもの」の話から、歴史の比較、また親子の喩えに話がつながっていきました。

親の方が大きくても旧歴史で、子は小さくても新歴史。一世代たった数十年ですけど、それを引き伸ばしたら歴史になります。親が老いるように、歴史も老いるのだと。すごいたとえですね。
実家のうちの両親も、数年前までは大きかったのですが、最近ときどき、小さく見えることがあります。いつの間にかおじいさんおばあさんになったなあと感じることがあります。還暦過ぎてなお健康診断はほぼA判定らしいですが。
一方、3歳の姪っ子はどんどん大きくなっています。新しいことをどんどん覚えるし、体の成長も早い。今はまだ何もできないけど、とても希望的です。
姪を見て思い出したのが、「三つ子の魂百まで」という言葉です。3歳までに人生の基礎ができるということわざです。3歳なんてみんなまだ可愛いだけで何もできない、これからどうなるかもわからない時期ですが、その時期に将来の基礎的な部分は決まっているんですね。
300も3歳と同じだな、と、子供を見て思ったんです。
霊はああなったけどこの体はわかっていない。そういうことなんだと思います。一見すると何も違いがないように見えますが、基礎的な部分はもうできたんだと思います。将来の決定的な部分は決まったんだと思います。
肉の生活で霊が下がるという話もありましたが、子供も適当に育てたらいくら3歳まで立派に育っても将来が狂ってしまうように、霊もそのような時期なんでしょう。そして、大事に育てれば、基本に従ってどんどん大きくなる時期なんだと思います。