成功者は、与えることに成功した人でもある

主日の御言葉を聞いて、考えたことがいくつかあって、覚え書きとして残しておこうと思う。

・これからは本当に私たちから行わなければならないということ。
御言葉のほとんどを伝え終わったということ、これ以上の強度で聖霊をくださることはないこと、残ってる変化はあなた自身だと言われたこと。これらの御言葉から、私から行わないといけないことをひしひしと感じました。
今までのように受け身で御言葉を聞くのではなくて、能動的に聞かなければ発展がないのだろうと思う。御言葉を考えながら聞くということ。対話しながらということ。伝えることを前提にして聞くということ。
たとえば「現在が結局を決定する。」と言われて、自分にとって具体的に現在何をするべきかを考えると同時に、人に伝える時にどう伝えたらうまく証できるかを考えることも必要だ。御言葉から「投資」の話もできるし、「条件代価」の話もできる。行いを通して霊を成長させる話もできるし、アリとキリギリスの話でもいい。御言葉を核にして、様々に展開ができる。
御言葉を材料にいろんな料理ができる。それができればとても楽しいし変化があり、できなければ「また同じ話」と思って退屈に思うだろう。退屈なのは御言葉ではなく、自分の頭の中だ。もっと頭を使わなければならない。
・チョウンさんを証するのは私たち
御言葉を聞き終わって、原稿を読み直したら思った。
「あれ、チーターは腸が弱いとか歯が弱いとか、書いてないぞ。」
あの話はチョウンさんのアドリブだ。チョウンさんはご自身の話をされる時、ずいぶん低くして話す。あるいはすごくテンションが下がる。原稿に書いてあるからそのまま伝えられるんだけど、あまりスッキリした感じじゃなく、ときどき恥ずかしいのを誤魔化すようにニコニコしながら話す。「ありゃ、『自分のことは証できない』ってほんとだこりゃ」と思う。証は私たちがしなければならない。
・分け与えること
もらったものを全部与えた、と仰った。今朝の先生の御言葉でも、先生は分け与えることが習慣になっていると仰った。
「与えること」について、この数日で大きく考えが変わった。ルームシェアをしていると特にぶつかる問題が、自分のものと相手のものとの線引きだ。物質もそうだし、ルールもそう、時間もそうだ。自分はこの時間はこうしていたい、しかし相手は違う。私は一人で作業していたい、しかし相手は会話がしたい。
こうした違いが生じた時にはどちらかが犠牲にならなければならない、というのが今までの考え方だった。自分が犠牲になって相手が成功する。これはなかなかしんどい。ヨナのような心情になる。「あいつらが悔い改めて裁きを免れたのは俺のおかげだぞ!それなのに(ry」という心情だ。
でもそうではなかった。もちろん犠牲になるにはなるのだが、後には大きく返ってくる犠牲というものがあるのを、今回感じるようになった。与えることを習慣化することが成功の秘訣だ。成功者は誰でも、与えることの成功者でもある。
与えることが習慣化できないと、いつまでも周りと熾烈な競争を繰り広げなければならない。妬み嫉妬の連鎖が起こる。
ゴールドラッシュの話を聞いたことがあるかもしれない。ゴールドラッシュで一番お金を稼いだのは、金を掘りにやってきた人ではなく、金を掘りにきた人に金をよりたくさん掘れる道具を売っていた人だった。自分が成功してやろうと息巻いて人を押しのけていくより、人の成功を後押しする人が成功する。
もちろん、人の手助けをすると人によっては図々しくなる。でも自分はやるべかことをやってるのだから心が楽だ。そういう聖句なかったっけ。心の中心が自分に向いている状態で、とてもいいなと思う。図々しさにはまた別にしかるべき対処法がある。
自分は周りに何を与えられるか?これを行動指針の一つにしてもいいのではないか。社会でも、より良いサービスを提供できる人が成功する。御言葉も与えるものだ。理論でねじ伏せるものではない。礼拝がサービスと呼ばれるのも、御言葉によって人々が力を受け、復活するからだ。
・まとめ
御言葉を聞いて素直な感情以外の冷静な部分を、忘れないうちに書いた。素直な感想としては「ウェーイwww御言葉、聖霊様、ウェイウェーイwwww」だが、それではバカっぽいし、一行で終わってしまうのでブログ記事の体をなしていないと思ったので、このようになったのだ。

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