繋がっているか離れているかで扱いが違う

髪の毛って、なんで頭についているときは大事なのに落ちてるものは気持ち悪いんでしょうか。

今日の御言葉は、繋がっている時と離れたときは扱いが違うのだという話でした。

髪の毛の話は切実に聞いてしまいますね。気になるのは髪の毛というより頭皮の方ですけども。

自分を通して、体はいくら増え栄えることを願っても限界があるのだということを感じるしかありません。

やれやれだ。

なんでもラインを守ることが美しい

今朝はシェイプアップ御言葉でした。

主を中心にして個性を発揮しながら、でも線を守るというのが難しいですね。

でも、なんでもそういうものです。

お腹の線が数センチ出るだけで美しくないし、ボールがわずかでもラインを割れば相手ボールになるし、1秒でも定時を過ぎれば遅刻になります。

そうした超絶細かいルールの中でどれだけ力を発揮できるかが成功のキモになりますね。

ローマ帝国による迫害によって亡くなったクリスチャンの数は、キリスト教同士の争いで亡くなった人の数の1000分の1らしい

お疲れ様です。

本を読んでいたらキリスト教の歴史について書いてある箇所がありました。

以下は確認が必要ですが参考までに。

キリスト教は西暦313年のミラノ勅令によって国教化されます。

イエス様1人から始まったキリスト教が300年たってこのような歴史を起こすわけですが、それまでに何度も迫害があった話は有名ですね。

ペテロもパウロも十字架にかかって亡くなり、歴代のローマ皇帝がクリスチャンの大規模な迫害を何度も画策しました。

この300年間に亡くなったのは、数千人です。

数千人、けっこう意外ですね。第二次世界大戦を勉強した私たちにとっては「それほど多くないかも?」という印象があると思います。

さらに驚くことは、国教化されたあとの1700年の間で、キリスト教同士の対立で亡くなった人の数が数百万人にものぼるということです。

御言葉でもカトリックとプロテスタントの対立についてはよく出てきますが、1572年8月23日の「聖バルトロマイの大虐殺」と呼ばれる事件では、1日に亡くなった人の数がローマ帝国が300年間に殺した人よりも多かったといいます。

数字だけ見ると、兄弟げんかの方が迫害よりひどいことしてる、とも見えなくもありません。

この話は確認が必要ではありますが、和睦について何度も御言葉を伝えてくださっていることがどれほど切実なことなのかを考えるしかありません。

兄弟はいつもそばにいるから小さなことが気になってしまいますが、御言葉通り和睦をなしていきたいですね。

主の飛行機に乗っていく

先生が「本当に嫌だった」月明洞の生活からどのようにして高い次元に昇っていったのか経緯を伝えてくださいました。

主が操縦する飛行機に乗っていたからできたことで、方向が間違っていたらいくら努力しても今のようにはなりませんでした。

たとえば、日本からフランスに直線距離で結ぶ飛行機があるとします。この角度を一度間違えるとイランについてしまうそうですよ。方向が本当に大事ですね。

つまり、主迎えたから愛と喜びがあるわけで、迎えられぬ人は時が経つほど光を失い遠くに消えていくわけですよ。

罪についての話が多いですね

罪についての話がありました。

指導者に向けての御言葉が最近多いですね。

指導者のみならず「俺って神様から見たら指導者より偉いと思う」と感じている人は刮目すべき御言葉です。

ていうか摂理人はみな指導者という観点から、指導者である私から教えなきゃいけないことがあるのですが、それは、罪ってほんとヤバイってこと。

シケルは重さの単位

初めて知ったのですが、聖書に出て来る「シケル」という単位は重さだったんですね。

1シケルは銀貨一枚ではなくて、8.33グラムだそうです。

旧約聖書の登場人物ヨセフは、子どもの頃に銀20シケルでエジプトに奴隷として売られてしまいますが、あれは女奴隷と同じ値段だそうです。

イエス様は銀貨30枚でユダに売られたと新約聖書に書いてあります。

ヨセフの時代からイエス様の時代で、貨幣も「重さ」から「硬貨」に変わったんだなあ、という、かなり周辺すぎる知識(笑)

罪で失うもの

箴言で「罪は憎むことだ」と仰いました。

私たちは何かしら叶えたいことがありますが、それが何かに対する憎しみから出てくるものだと叶わないんだと、そういうことを思いました。

あと、憎むって筋肉にも良くないそうですよ。損傷するそうです。

罪があると命を失うという話もありましたが、自分の細胞も失うんですね。

時がある

長い長い歴史を見れば見るほど神様は時にかなって働かれることを感じるしかありません。

はるか昔に、地球上の全く別々の場所で、お互いなんの関係性もないはずなのに、似たような時期に文明が発祥した歴史なんか、神様のみわざだなあと思います。

昨日は聖殿建築について話されました。今はこれが「時」ですね。

だからきっと「あれ…こんなところにいつのまにか聖殿が。昨日まで何も無かったのに。じゃあ祈ってくか。」といったことに、なるんじゃね?

心まできれいにすること

行為に移らないでも、心で憎んだことも罪なのだという聖句から話をしてくださいました。

日本人は、外国であるような乱射したり突っ込んだりというあからさまな事件は起こしませんが、心に一物ある人は多い、と社会で働いていると感じます。

たとえば自殺をとってみても、実際に行為に移る何倍もの人が自殺を考えたことがあるといいます。

昔からそうした体質なので、粋な江戸っ子は着物の裏地にこだわって「内側も美しいぜ」ということをアピールしていたと言います。だから!服の裏地にこだわりましょう!!

いや、比喩だから。