御言葉を聞く姿勢について

御言葉を悟る段階について話してくださいました。

今夜も金曜プログラムがありますが、そこで伝えられる御言葉にも該当する話ですね。

もしかすると、普通に聞いたら今まで聞いたことのある話もあるかもしれません。

しかし、御言葉をどう感じるかは個々人がどう準備したかによるし、そもそも聞く側の準備次第でどんな話になるのかも変わってくると言います。

そして、それは個人だけによらず、国単位でも起こります。

国によって個性が違うせいか、同じ人が伝えるのだとしても、韓国で話している時と台湾で話している時、日本で話している時では雰囲気が全然違うもんだなあと、私は感じています。

自己主観を捨てなさいという御言葉の意味

自己主観が強い人について話してくださいました。

御言葉では「自分の主観を捨てなさい」とよく言われますが、それは「全能なる主の御言葉を受け入れないとは、いい度胸してるじゃないか。」という意味ではありませんね。

愛です。私たちを悪から守りたいという意味もあると思います。

あえて悪の立場で話をするなら、自己主観が強い人ほどビジネス的に楽だと言われています。

なぜなら、広告費をたくさんかけてわざわざ誘導しなくても、相手の主観に合わせた商品を見せれば勝手に興奮して買っていくからです。利益率が高い。マジサイコー。

どれだけ実践したら先生と一緒にいられると感じられるのかを考える

実践に関する御言葉でした。

先生が出てこられるまでもう少しですが、先生はこの10年間、あの環境でも本当に様々なことをされてきました。

月明洞も続けて開発され、世界中に教会があって、回復したエバもいて、新婦っぽい人たちもなんやかんやでいろいろいます。

だから、出てこられたその日1日に、前日までとはまるで違う世界になると思うんです。

というのは、修了式の話にもあったように、1999年のある日に急に墓の期間に入ったのだから、その逆もまたあるだろうからです。

だからこそ、私たちがあと一年で何を準備するのかという話が頻繁に出てくるのだと思います。

鼻血が出るほど実践しなさいとおっしゃいました。噂では「先生と3日走ると鼻血が出る」ということが言われています。

先生と共に走れているのか。その判断はなかなか難しいですが、判断指標の1つが「鼻血」ではなかろうかと思います。

私たちが神霊であれば、そばに主がいらっしゃって共に走っているのか、そうでないのかが見えたり実感できたりするだろうと思いますが、残念ながらそこまで神霊ではない人が多い。

では、どうしたら主と共に走っていることを実感するのか。それは「鼻血が出ているかを見ればわかる」のではないかと、私は思いました。

ほんの一瞬で運命が分かれる。その繰り返しで人生の位置が変わる

「繰り返すこと」についてと、「瞬間」についての御言葉でした。

先生の環境は本当に過酷だと感じましたね。一瞬でもトラブルが起これば、看守がすっ飛んできて懲罰を食らうことになります。

聖書には、「7を70倍するまで許しなさい」と書いてあります。

私の経験ですが、人って悪いところが癖になっていることが多いので、しぜん同じ罪を繰り返し許すことが多くなります。

するとそのうち「ああ、またか」と思うようになって「怒りを通り越して呆れる」段階に至ります。

それでも許し続けていると、一周回って楽しくなって来て「よっ大統領!いつものやつ頼むよ!」みたいな感じになって来ます。

そこから先は私は知りませんが、だんだん考えが深くなって、真に人を治めるとはどういうことかがわかる次元になるのだと思います。

繋がりについての御言葉

今朝は繋がりについてわかりやすく教えてくださいました。

「繋がっている」という考え方はとても東洋的ですよね。

ツボや気、陰陽といった考え方には物事の繋がり、流れについての深い洞察が隠されています。

だから、韓国や日本だけでなく、中国にも御言葉が入ればとても面白いことになると思うんです。

いろんな封印が解けると思いますよ。

しかし、今日も牧会者が摂理の歴史について話してくださった中にもあったんですが、中国はそういうの排除しますからね。

あーあ、中国。あーあ。

限界を超える力

限界を超えさせる力について話してくださいました。

出る杭を打つ文化がある日本だからこそ、限界を超えさせる力が必要だと思います。

社会では、たまに褒められても謙虚に「いえいえ、とんでもございません。これも◯◯さんのお力添えがあってこそです。」と言わなければならない律法があるので、私は最近では褒められるのもめんどくさいです。

さて、午後も褒めちぎるか。

実力ではなく主が共にされるか

昨日の証TVでもあったように、普通に考えれば落ち込むしかないところでいかに主を掴めるかが重要ですね。

昨日の証は「自分は太っているから」とか「後ろ向きで走ったら骨折した」とか、実力の話ではありませんでしたが、そここら神様と主が共にされた証していて、そうした積み重ねが、イ・チャンさんを神様が大きく使う条件になったのだと、私はそう感じました。

考えを綺麗にして礼拝に参加する

礼拝の時、考えを綺麗にしてから来なさいとおっしゃいました。

今夜、実践できる御言葉ですね。

水曜日は1日世の中の波長に触れた後で来ますから、今まさに脳の果実を守るべき時間です。

守るといえば、WBC準決勝どうなったかな、とこのような考えではいけません。

箴言では「選択」について話してくださいました。

姉のマルタは「食べ物をもてなすこと」を選択し、妹のマリヤは「御言葉」を選択したとおっしゃいました。

私たちはどちらを選ぶか答えを知っています。

まさか「食べ物をもてなす」どころか「食べ物を食べながらスポーツの再放送を見る」という選択肢を今夜選ぶことはありませんよ。もちろん、まったく気になりません。ほんとに、まったく。

宝探しの時

御言葉で、今は宝探しの時だとおっしゃいました。

岩にいろいろな形象が隠されているように、主がくださったものにはいろいろな宝が隠されています。

人間も自分の価値を人にわかってもらえないと、「おい、俺を誰だとおもってんだ。◯◯さんだぞ」と思うし、女性なら「◯◯変えたんだから気づけよてめえ」と思って関係性が遠くなるのだから、神様はどれほど気づいて欲しいでしょうか。

人の価値をわかってこそ自分の価値がわかります。

ということは格言でよく言われていることですが、これをビジネス的な言い方をすると、人の長所をわかるとその中での自分のポジションがわかる、ということです。

観客ではなく主人公の人生に

主人公になりなさいと、今日の御言葉でおっしゃいました。

会社でのおしゃべりでは以下のような光景がよくあります。

「WBC見た?」

「ああ、やっぱり自国が強いと盛り上がるな。」

「それと比べてサッカーはダメだな。どいつもこいつも不調だらけでマジくそ。」

という彼は長らく運動すらしてなかったりする…

主日の御言葉でもおっしゃっていましたが、自分にスポットライトが当たっても恥ずかしくないようになりたいですね。

という私も、正直なところ、3.16の芸術祭を見て笑いながら「俺ってなにもしてないのにこんな態度でいいんだろうか」と思っていました。

今年は実体をなせる年だから、なにかしら形にして貢献したいですね。