自分という頑なな山を動かす信仰を

自分という山を動かすことについて話してくださいました。

考えたり学ぶだけでなく、一歩踏み出してみて、「これあかんやつ」と思ってからが自分の信仰が試されますね。

出エジプト記では、イスラエル民族がエジプトにいたころは、獄のような苦役の代わりにニンニクやスイカを定期的に支給される安心感がありました。

しかし、カナンは競合に勝ってこそ得られる世界です。考え方は労働者から社長に変えなくてはいけません。

だから、労働者のように給料が約束されているのではなく、いくら計算しても出てくるのは「見込み」の利益だけです。

それが正しいのか、そして信じるかどうかは自分の信仰次第です。みんなで協力して戦っていきたいですね。

カナンを得るのは大変ですが、得れば乳と蜜が流れる世界です。勝手に流れ出てきます。滝か!

そういえば昨日見せてもらった滝、すごかったですね。宴会の準備にどれだけ苦労したのか、昨日の映像、証、先生のメモ書きなどから伝わっきました。

チョウンさんも何回もお色直ししてましたね。

何回着替えたんだったかな…たしか100回くらいだったかなあ(こういうの覚えとかないと女性は怒るそうですね。)

本当に盛大にお祝いをしたので、生活の中でも栄光を帰していきたいですね。

316記念日

先ほど月明洞での記念行事が終わりました。

月明洞は運動場から芝生の奥までとてもたくさんの人で埋まっていましたが、それでも摂理に人はたくさんいますから、会社や学校で来られなかった人も多かったと思います。

この前の証TVであったように、職場のトイレでのお祈りだとしても、心が問題なのだと思いました。

私は会社を休めたのですが、平日に仕事がないということに違和感を感じました。

朝のお祈りが終わって本行事までの時間、けっこうな時間がありました。

時間の使い方に慣れていなくて、とりあえず運動をしたり聖書を読んだりしました。

手持ち無沙汰になりました。

いつもは仕事でごまかしているけれど、定年になったらこんな毎日がずっと続くのかと思うと、ちょっと怖くなりました。

幸い私は御言葉を聞いているから、やるべきことがたくさんあります。

目的もありますし、まわりに人もたくさんいます。

しかし、御言葉を聞いていない人ってどうしてるんだろう。

定年までがむしゃらに働いて、そのあとはいくばくかのお金をもらって、それで何をするのだろう。

遊び回れるほどのお金があるわけでもないし、体力もありません。ずっと働いていたら友だちもそれほどいないでしょう。

世のため人のために何かすればいいんでしょうけど、そんな気も起きないのではないでしょうか。なぜなら、そういうことは職場で嫌という程やってきたからです。

「定年になったらいろんなことをやるぞ」と決めた人が、いざ定年になると何もやる気が起きなくなるという話を聞きます。

実際に、お年寄りはやりたいことがないからお金を溜め込んでいます。そして親しげに電話をかけてくる見知らぬ人に騙されてお金を取られています。

その額が年間何百億というのを私は信じられませんでしたが、今日、実際に老人と同じような時間を過ごしてみて(笑)、その理由が少しわかったような気がしました。

人生は虚しいなあ、と思って聖殿に着くと、たくさんの人がいました。

行事が始まり、みんな熱く天に栄光を帰していると、私の心にも火がつきました。

「天のためにやることは虚しくない」

そう思いました。

3000人の聖歌隊、勇壮でしたね。

一般のホールではこのようなことはできません。

野外ライブ会場で観客が一体になって歌うということはあるかもしれませんが、ろくに歌の練習をしていない人たちがわーっと歌うのと、以前から練習をして指揮のもと声を揃えて歌うのとでは違うなと思いました。

あとはこの指揮を先生がしてくだされば完璧ですね。

それにしても今日は次元あがったのかな。よくわからない。

やっぱり場所が問題じゃなくて心が問題だよ。

何を得るべきかの優先順位がある

毎朝聞いている御言葉だけでなく、他の御言葉でも明日のことについてたくさん出ているので要チェックです。

御言葉は何にも変えられませんね。

我々は何かに向けて頑張ってると必ず悪魔によって試みられることがあって、「世界の半分をやろう」的なことを言われるのですが、そこで「はい」を選択するとゲームが進まないのが初代ドラクエです。

今日わかったのはそんなところです。

たとえ世の中の半分と比べても、御言葉のほうが価値がありますね。

なぜなら、まず神の国とその義を求めれば他のものはそのうち添えて与えられるからです。

三月は会社も個人も決算する時

3月決算の会社が多いですが、私たちもこの一年を総括する試験結果発表の日が近づいてきましたね。

あるいは、舞台での公演をやりきって評価を待っている期間。

または、持ち時間で漫才をやり終えて採点されている時間。

それか、カラオケでうっかり採点ボタンを押して歌ってしまい、歌い終わった後にドラムロールが流れている瞬間です。だんだん例えの次元が落ちていますが、今日はそんなところです。

ともかく、この一年間を振り返って評価する機会にもなりそうですね。

先生の誕生日までもう少し

先生の誕生日までもう少しですね。

この10年は患難の時でもあったし、祝福の時でもありました。6年前の今日に大震災があった一方で、たくさんもらったものも多かった期間でした。

先生の誕生日にどのようなプログラムが月明洞で行われるのかのお知らせがありましたが、そのようにその日も迎えるんですね。プログラムを見る限り、昔のようにおじさんが腹踊りで先生をお迎えするということは無くなるのでしょうか。

箴言では、「終わりははじまりだ」ともおっしゃいました。最後の一年を、最初の一年を迎えるために実体を用意して待つようにしたいですね。

変わらない心で主と会う

必要なものはまず変質しない心だとおっしゃいました。

「自分自身を装って主と会う」というとなんか女子っぽい表現ですが、その日その時にはなにかしら主に差し上げて自慢できるものが欲しいですよね。

社会的に見ても、生産性が高くて世間や従業員に与えるものが多い人ほど得るものが多く、自信を持って暮らしています。

祈りで内助する

二日連続で祈りの御言葉でした。これで今日一日もぎりぎりメンツ保てる社会人www

私たちは先生に対して祈ることしかできないけど、それが大きな力になるのだという話でした。

やっぱり、これはバッタが先生を引っ張るようなことだし、先生が断食の後に塩を舐めただけですごい力が湧いたということなんだなあと思います。

水曜礼拝では魂についても話されましたね。祈りの内助が必要な時です。

バッタの話からふと思ったこと

いまふと思ったのは、一月の御言葉でバッタが先生を引っ張った話、小さな助けだとしても大きな力になったんだと言いましたけど、それって昔やむなく70日何も食べられなかった後に塩を舐めただけですごい力が湧いたという話と同じだということです。

つまり先生はあの時と同じような極限の中にいて、我々は塩くらいのわずかな栄養価しかないけれども、それでも大きな力になったんだ、ということです。

バッタのように主に力を与える祈りを

今朝は祈ることについての御言葉でした。

祈りなら、できる!と喜ぶ社会人www

先生に助けられたバッタが先生を引っ張ったように、たとえわずかだとしても先生に力を差し上げたいですね。

バッタって「ダメダメな人」の象徴に使われることが多いです。イソップ童話では遊び過ぎて冬に凍え死にますし、聖書でもバッタがいい例えとして出てくることを私は知りません。出エジプト記では10の災いの一つに出てくるし、黙示録ではアバドンがいなごの大群を率いるものとして登場します。

バッタは自由気ままで、御言葉では勝手に壁とか登ろうとして結局登れないバッタを先生は登れるように助けたり、リンゴの皮をあげて体質改善させたりして、なんもしてないのに長生きして、そんなの働きアリたちに妬まれますよ(笑)

一時も忘れないで対話すべきことを私たちは学んでいますが、特に117を祈る時間として与えられています。

この「時」がけっこうヤバイことに最近気づきまして、それは、他の「やるべきこと」って後からの追い上げやつじつま合わせができるのですが、時が決まっていることについてはあとからどうあがいても挽回できません。

ラスト3秒でスリーポイントが入って逆転勝利、とかないです。もう時が過ぎてるから。

ていうかそれ漫画だし。

行いが言葉になって聞こえる

修了までいかなくても、証したことが残るのだとおっしゃいました。

神様の耳には私たちの行いが聞こえると言います。3.16までもう少しですが、言わなくても、それまで何をしていたのかってけっこう伝わるものだなあと毎回感じます。

それではお聞きください、「神様の耳に聞こえる」