最高のものをくださる神様

最高のものをくださる主だと仰いました。

どうして最高なのか、箴言でも話してくださいました。

自分の価値がどれほど大きいのかを感じさせる内容でしたね。

われわれはとても貴重な存在なのです。

だから、たとえ隣の兄弟が、見た目は「あの兄弟、どうだろう」と思うとしても、また、たとえしょうもない話ばかりしているのだとしても、それは間違った判断だということです。

本当はものすごく価値があり、あまりにも尊く尊い方でおわします。

だから見た目で判断してしまったことを悔い改めて、古い認識を葬らなければなりません。

自分が変化してこそ現実も変わる

変化についての御言葉で、自分が変われば現実も変わるのだと仰いました。

私たちが知っている現実はほんのわずかです。

たとえば、高校生から大学生になったときに「わあ、大学ってこんなところなんだ」と思いましたし、大学生から社会人になった時にも「わあ、社会ってこんなところなんだ」と思いました。会社を辞めたら、「わあ、老後ってこんな現実なんだ」と思うことでしょう。

自分が変わるたびに、世界が変わることを何度も体験しています。

なにより、主を知らなかった時から主を知ってからが一番変わりました。

私は今でも、礼拝を捧げる時などに「この歳になって、このようにたくさんの人たちと一緒にいることになるとは、思ってもみなかったなあ。」と思う時があります。

礼拝時には後ろにいることが多いのですが、後ろからみんなの後頭部が目に入ると、(なぜ、この人と一緒にいることになったのだろう。)と不思議で仕方ない時があります。あやうくみんなに「いったいどういうわけで、5年も10年も一緒にいるのかね?」と聞いてしまいそうになります。

本当に感謝なことです。

いろいろな現実があって、そのどれかに私たちは属しています。

中には、先生が今いらっしゃるような場所で生きる人たちが見ているような、そのような現実もあります。

どの現実に属するのか、自分次第であることをわかって、良い方に変化したいですね。

古い自分を捨ててこそ、新しく変化し復活すると、昨日の水曜礼拝でも話していました。

先生の古い家を壊す映像も見ましたね。

古いものを捨ててこそ理想的ですが、普通に考えたらもったいないです。未練があります。先生のされたことを自分もできるかというと、なかなかできそうにありません。

たとえば、ポケモンでずっと育てていたピカチュウを簡単にライチュウに進化させられるかというと、未練がありますね。なぜならピカチュウはかわいいからです。しかしライチュウになってこそもっと強く、理想的です。

なんでポケモンの話になったのか、よくわかりません。

波長に関する御言葉でした

今朝の御言葉は波長に関する話でした。

この御言葉を伝えてくださったのは、穏やかな波長で、天もメンバーも和ませる方だったので、そういうところに長けていたからそのような御言葉を神様が与えたのかもしれません。

考えの波長はとても大事です。

特に韓国や日本は世界トップクラスの「空気を読む民族」なので、波長が違えば同じことを言っても別の意味として捉えられてしまうことも多いです。

波長が悪いとどんなに正論を言っても反論されるだけだし、波長が良ければたとえ話していることのロジックがめちゃくちゃでも理解してもらえます。

そういう人いますよね。なんかめちゃくちゃなのに、みんなから「ああ、あの人はそういう人だから」って許されている人。

真理はロジカルな部分だけではないということでしょう。

波長を良くすることも大事です。

科学では、光の波長が違えば色が大きく変わります。

考えの波長にも同じ性質があるのだとすれば、波長が違うとその姿もまったく別のものに見えるのかもしれませんね。

実際に赤い色の脳や青い色の脳の話もありましたし。

アウトドアブランドのスノーピークの社長さんは、五感を正常にして仕事をするために時折キャンプに行くそうです。

確かに、自然の中に身を置くと感覚が研ぎ澄まされますね。波長が正常になって来ます。

では、どうやったら波長が変えられるのか。私はその答えについてほとんど知りませんが、箴言では「心の門を開けてこそ通じる」ことについて話してくださっていました。

運命についての御言葉でした

運命を一番大きく左右するものについて話してくださいました。

主が運命を変えてくださったことに感謝ですね。

誰でも自分の運命は自分で決めたいですが、人生というゲームは自由度が高すぎてちゃんと教えてくれる人がいないと方向を間違えてしまいますね。

しかも、私おっさんの経験と周りを見た限りでは、たとえ若い時は自由でも、ある時を境に可能性がぎゅぎゅっと狭まってきて選択肢がどんどん減ってくることを感じます。年齢を重ねるにつれ、何をするにも今まで立てた条件から展開して行くことになります。

そうなることに備えて、若い時から条件を立てておいたほうが良いですね。

このことを聖書で話すなら、ノアの洪水のようなものです。洪水が起こるまでは自由なんですが、ある日を境に雨がザーザー降り続けてすべて埋もれてしまいます。だから、そうなる前に、雨に耐えうる箱舟を作っておけと。

そういう意味でも、私はブログを続けておいてよかったなあと思うことがたびたびあります。

文章が書けることで、歳を取っても、どこにいても、できることがたくさんあるからです。

そして、もっといろいろやっておけばよかったなあと心残りなこともあります。それが何かはないしょ。

先生はすべて未練なく行ってきました。先生は若い時に御言葉を掴み、行なって来られました。

だから、普通だったらおじさんになってからは可能性がないスポーツ分野、たとえばサッカーを先生は40歳から始めて活躍しましたし、70歳で作曲をしたり、絵を描いたりジャズピアノ弾いたりダンス踊ったりスキーしたり(以下略)自由でした。

御言葉を中心にしたから、他のものは添えて与えられ、復活させることができたんですね。

間違ってももう一度立ち上がる勇気についての御言葉でした

今朝は、聖霊様が、間違ってももう一度立ち上がって行おうと励ましてくださいました。

とても温かい言葉ですね。

世の中でもきれいごととしてはよく言われますが、実際に十字架を負う覚悟でそう言ってくれる方はなかなかいませんね。

昨日はテドク牧師の話を聞きましたが、そこでは昔先生が「山を動かす信仰」という聖句を間違って解釈して、山で一生懸命お祈りしていたなどのエピソードを話してくださいました。

そのように1つずつ体験したからこそ、違うことは違うと言えるし、はっきりわかって伝えられますね。

やってみると想像と違うことは山ほどあります。

野球の試合を見てると簡単にヒットを打っているように見えますが、いざ自分がバッターボックスに立ってバットを振ってみるとかすりもしないものです。

現実世界ではこのようなことがたくさんあります。

本当に、自分が知っていたことはわずかでしかなかったということを感じざるを得ません。

だから、理論と実際が違った時にどう対処するかがその人の人格を表すと言えますね。

既成タイプ「私が間違ったわけじゃない。たまたま運が悪かっただけだ。私の認識は正しいから、そのうちうまくいく。」

悪評者タイプ「なんだよ。あんなふうに言ってたけど全然その通りにならないじゃん。みなさーん、あの人の言ってること、嘘ですよーwww」

日本人タイプ「俺はダメなやつだ…もう諦めよう。」

先生タイプ「やり方を変えてもう一度やってみよう。」

どの道を行くかは自分の自由意志で、多くの人が楽な道を行こうとしますが、狭き門から行く人が、天のものをすべて得るんですね。

間違いはあまりしたくないものです。ただ、たとえ間違った時でもその責任を自分でとれると、天の信頼度がめっちゃ上がります。だからどっちにしろお得です。

主の御名で祈ることについての御言葉でした

いつも言われていることですが、主の御名で祈ることについて、改めて教えてくださいました。

ペテロが例に出されていましたね。イエス様の生前には、ペテロはイエス様を人間的に好きではあったものの、価値がわかりませんでした。

価値がわからなかったものだからイエス様に余計なことを言って「サタン」とまで言われるし(‭‭マタイによる福音書‬ ‭16:23‬)、イエス様を否定するし(‭‭マタイによる福音書‬ ‭26:34‬ )、しかもそれをマタイとかルカがちゃっかり記録に残してて聖書に載っちゃって、かなり恥ずかしい人でした。しかしイエス様をはっきりと悟ってからは目覚しい活躍をされました(使徒行伝)

人間的に考えれば、黒歴史のところは隠すべきだしペテロは一番弟子なんだからそれも可能だったのではないかと思います。

もし、私の恥ずかしい過去が記録に残ってしまうとしたら、全力で抹消しようとすると思います。「金ならいくらでも払う、だから頼む!なかったことにしてくれえ!」って言うかもしれないよ。あなただったらどうする?「やめてー!」て言う?

しかしペテロはそういったことはしませんでした。ちゃんと聖書に残っていますね。

これは私の想像ですが、ペテロは自分に起こった変化を後世に残すため「記録しておいてくれ」って周りの弟子たちに言ったのではないでしょうか。

このペテロのように、私たちも前半期は先生を人間的に見て、好きで、ついて行きました。その認識がはっきり変わってこそ、大きな働きができるのだと思います。

人を育てられるのは自分の水準までという御言葉でした

自分が教える人は自分のレベルまでしか成長しないから、今の自分の水準を考えなさいと仰いました。

人が自分の言うことを聞いてくれないと「あいつは何でああなんだ。バカ」と思いますが、それは例えば建てた岩の造形が崩れた時に「あの岩は何で崩れるんだ。バカ」というのと同じで、岩のせいにしているうちは完全な作品は作れなくなってしまいますね。

摂理では、自分のやっていることが人に大きな影響を与えています。

バイトならマニュアル通りにやれば良いし、仕事も上司の顔色を伺ってうまくやりくりしてれば何とかなることが多いですが、摂理での仕事はそうはいきません。霊の命を生かすところだからです。

だから、命のために働く人ほど、もっと自分を大切にしないといけません。

自分がやっていることが人に影響があるんだということに気づくと、「このままじゃ悪い影響を与えてしまうかもしれない。もっと自分の健康も脳も管理しないといけない」と思って動くから、自分の次元も上がってきますね。

そう、だから私も、今日はちゃんと朝ごはん食べて体の調子を整えたし、御言葉を読み返して霊の調子を整えて、そして今日オープンの銀座シックスに行って精神の調子を整えようかどうか迷ってるところ。

時を掴んで行いなさいという御言葉でした

今日は時についての御言葉でした。

主日は主に「歴史」という壮大な時の流れについてでしたが、今朝の御言葉では「瞬間」、特に「寝起き」という最も身近な時についての話でした。

寝るに時があり起きるに時があり、パジャマに時がありスーツに時があり、すっぴんに時があり化粧に時がありますね。聖句通りです。

すいません、正しくは「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」伝道の書‬ ‭3:8‬ ‭です。

時が過ぎたら神様は二度と行わないという主日の御言葉で仰いましたが、それを聞いて「神様って冷たいのかな」と思った方いますか?私は思ったのでそれについてあれこれ考えていました。

それで今朝の御言葉を聞いてわかったのは、たとえば、自分の子どもがいつまでも寝ていて昼過ぎまで起きなかったら、お母さんは起こすのを諦めて自分のすることをするしかないように、神様もそうだということです。

だから神様が冷たいのではなくて人間が悪いんですね。

私は長らく摂理の兄弟と暮らしていましたが、よくあったのが、兄弟が疲れて昼寝しているということです。僕もしょっちゅうやってました。昼寝大好きだからさ。

そんな時、周りの人はそこには触れないように気を使ってくれるんですよね。新入生がくると、何としてもその部屋には入れないようにするという苦労がありましたw

ともかく、主日の御言葉を身近に感じられる御言葉でした。

知っていると思うところに罪がある

「自分は知らない」ということを自覚していることが知恵があることだと仰いました。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、これを「無知の知」と言いました。

「自分って何もわかってなかったんだな」ということを知ること。これが無知の知です。

ソクラテスは、ボロ布をまとい、道行く人にかたっぱしから話しかけていたといわれています。

そして相手の答えに質問しまくって、相手が「ああ、俺って何もわかっていなかった」ということを自覚させることをしていたんだそうです。

そうやって人々が今の自分に満足せず、もっと上の段階に登る手伝いをしていました。

人は年をとるとどうしても「自分は物知り。偉い人」となってその場に安住してしまいます。しかし、「知っている」というところにいつまでもいられるわけではありません。

なぜなら、主日でも、その年齢の時その時代に該当することは行って終わったと仰ったからです。時は変わっていくものです。

つまり、どんなに物知りな人でも「以前のことは知っている」だけで、これからの時代のことは誰にもよくわからんのです。

イエス様が福音を伝えていた当時、ユダヤ教のお偉いさんたちは自分たちを賢い者だと思っていました。自分の行いに満足していたし、主観が固まっていました。だから新しい時代が来たことに気づけませんでした。

聖書にはこう書いてあります。「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネによる福音書‬ ‭9:41‬

「自分はよく知っている」と思い込んでしまうのは罪なんですね。

古くなった習慣は捨てて謙虚に学び続ける姿勢が必要です。

御言葉も、毎回同じようでどんどん変化しています。

「<牛>の話をしている途中で<犬>の話もするし、あるときは<天使>の話もするから、最後の一行まで聞いてみなければなりません。」と仰いましたが、そのようにどのようになるかわからないから、続けて学ばなければなりません。

ちなみに、このブログも真面目な話をしていたのに突然プレステの話をしたりどうでもいい話をしたりして、話がどうなるかわからないから、ちゃんと最後まで読んだほうがいいから。

やっていることを後世まで残すことについて

主管圏についての話でした。

摂理の中で実践したことは永遠まで残ると仰いました。

主管圏の外では、いくら大きなことを行なっても残すことができません。たとえば今、北朝鮮では金正日の誕生日を盛大に祝っています(昨日「メディアだめ」って言われたばかりなのにこんな話ししてしまう…w)。

人の動員数、かかる費用は先生のお誕生日より大きいです。しかし、誰得なんでしょうね?この行事の恩恵を被るのは北朝鮮首脳陣だけなので、今の体制が崩れると同時に忘れられます。

一方で、箴言にあったように、先生がいらっしゃることで世界が時代の恩恵を受けます。

だから、俗な言い方をすると、人々がすすんで残そうとします。

そんなふうにして、キリスト教も2000年間も残ってきました。

これは本当にすごいことです。大企業といわれるような組織でも100年で経営が傾いたりするのに、2000年も続くというのは本当にすごいこと。しかもその創始者が今なお尊敬されています。企業であれば創始者のことなんかすぐに忘れられてしまいますね。宗教というのは、そういうところがすごいです。

私たちも、何かしら後々まで誇れることを、若いうちにやっておきたいですね。