暗闇を退ける方法は1つしかないという御言葉でした

蚊の話を通して、暗闇を滅ぼすには主の光を照らしなさいとおっしゃいました。

蚊の季節ですね。蚊は夏に集中して刺してくるように見えて、やつらも前年の秋冬から準備しているからこそ夏に活動ができます。

道が平坦で楽な時も、そういった害になるものが着実に成長してるのだと思うとちょっと身が引き締まりますね。

悪いことをす人はたいてい、暗い所で活動しますね。匿名だったりとか、一対一だと態度が大きくなる傾向があるように思います。あ、このブログも匿名だった。

ですから、対策としては公にするのが1番だなあと思います。明るみに出ると急に小さくなることが多いです。

そして何より、害がないようにするには自分自身がいつも光の中にいて、暗闇の影響を受けないことですね。

暗闇を退ける方法は、武力ではなく明かりをつけるしかありません。

中心をずれないようにする御言葉

毎朝、先生の箴言と、他の方が書き留めた御言葉を聞いています。

今朝の御言葉では、日曜と水曜の御言葉が主食で、そのほかの方が伝えているのは特別メニューや間食なのだとおっしゃいました。

日曜の広告にも指針がありましたし、先生は以前「ほかの方の伝えてるものはなくなる」という話をされたこともありましたね。

本来、弟子たちの御言葉を聞いて、先生の御言葉がよりわかりやすく、価値がわかるようにならなければなりません。

価値の高い食べ物や飲み物って、ただ食べてもうまいのかまずいのかわからない時があります。

私もコース料理食べたことがありましたが、シェフが必ず説明するんです。「これはすごいんです」みたいな。それでようやく「へー、すごいんだ」ってのがわかって食べるんです、私たち一般人は。

舌が貧しいのであとでカップ麺が食べたくて仕方なくなりましたね。

弟子たちの御言葉も、そのような「先生の証」にならなければいけません。中心がずれないようにしなければなりません。

そう考えると、いつも「弟子たちが書き留めた御言葉」の次に「箴言」を聞いてるけど、それってポテチ食べた後にご飯を食べてるようなものなのかな。

まあ、ご飯にポテトチップをふりかけて食べると美味しいからいいよね、それでも。しかたないよ。

ちなみに、私は最近ポテトチップがあまり好きではなくなってきました。

ほんと不思議なんだけど、昔は店に並んでるの見るだけでついつい買ってしまったことがあったけど、いまは反応が鈍っちゃいましたね。ラーメンも昔ほどは食べたくなりません。食べたい時はチャリで遠出でもするけど。

こうなっていくんですね、人間はみんな。

自発的にやる、という過去の映像説教でした

先生の映像説教でした。

霧深い山の頂上で伝えてくださいました。

その霧の中で「人は心配ばかりしている。霧が深い、10m先も見えないといって。10m進めば、次の10m先が見えるんです」とおっしゃいました。

そして、自発的に行いなさいとおっしゃいました。

先生はこの時から「自らやる」ことを望んでいたんですね。私たちはそうはしませんでしたが。

自発的にやると神様がともにするとおっしゃいました。

「どこまでが神様の責任分担だかわからないから全部自分でやりなさい」と。

そして、先生が岩を建て始めた時の話もしてくださいました。

1つ立てるのに20日かかったと言いました。反対する人もいたと話していました。はじめは時間がかかったんですね。しかも、おそらく小さな石だったと思います。それも後には崩れますしね。

しかし、先生は「始めることが難しい。どこからでも始めれば良いのです。始めたら半分終わったことだ。」とおっしゃいました。

師の姿だなあと思いました。

今週の御言葉は、自ら行うことについて話してくださいました。

御言葉では「自らやることの必要性」を話してくださいましたが、ここでは私らしく「自ら行うことの難しさ」を書いて、読んだ人の頭を悩ませようと思います笑

やっぱり昼過ぎになると波長が悪くなってくるので、なんかポジティブにいけません笑

さて、自らやることについて、私はわりと研究している方だと思いますが、なかなか難しいのが“喜んで”自らやるということですね。

「強制的に」であればいくらでもできます。昔は仕事をよくそんな感じでやっていました。

強制されたときの馬力ってかなり強くて、溜まっていた仕事もあっという間に終わります。

ただ、そのあと燃え尽きてしばらく稼働が停止し、結局プラスマイナスゼロ。

しかも、そうしたやり方は事務仕事には向いているのですが、クリエイティブな仕事なると途端に何も浮かんで来なくなってクオリティが下がります。

これからは人工知能が単純な仕事をどんどん奪っていくので、強制されてはかどる仕事はどんどん減っていくだろうと思われます。

だから、いかに“喜んで”やれるかが大切です。

楽しんでいる時ほど人は色んなアイデアが浮かんできます。

そして、“主の中で”というのも重要でしょう。

喜んでやるにしても、一歩間違えると「自分の好きなことをやっているだけ」になってしまいます。

「自らやる人」が気を引き締めなければいけないのはここです。

いつも「こっちで合っているのか。こっちにショット撃っていいのか。」というゴルフみたいなことをやりながら一打一打ゴールに向けて進んでいくんです。

さらに難しいのは、対価をすぐに得られるとは限らないということですね。

時給、月給で対価をもらえるってほんとに楽で「朝から2時間働いたから2000円確定」という計算を、私たちはよくするじゃないですか。それがやる気になるでしょう。

しかし、自ら行うことについては「これだけやったらこれだけのものが手に入る“見込み”」だけが出てきます。

見込みの数字をはじき出すのは自分の裁量次第なので、いくらでも上を目指せるのですが、それが確定するのは手に入れてから。

だから、自らやるときには最後まで行う決意がなければならないし、見込み違いで崩れることも多いから「崩れても起き上がる精神」も必要です。

しかも、そういう決意をしながら“喜んで”やるんです。

短剣を懐に秘めていつでも死ねる用意はしながら、でも楽しくやるんです。

ちょー難しいです。

ほんとに御言葉通りにしないとダメです。

あと、けっこう試みに会うのが、人の反応がコロコロ変わることですね。

自分が成果を出している時は人もよく接してくれるんだけど、うまくいっていないと多くの人はサーっと引いていきます。引き潮のように。

「なんなんだろう。うまくいかない時ほど助けて欲しいのに」って思うんですが、そうはしてくれません。

だから、うまくいっていても気をぬくわけにはいかないし、楽をするために行なっていては続きません。

主をつかんで「どうなっても変わらない」という強い信仰がないといけません。

だからといって、「変わらないぞ」という決心がいきすぎて頭が固まって新しく変われないと、また失敗するんです。

すごく難しいんですよ、自ら行うってのは。

先日、祈りはヒマラヤに登るように集中することだとおっしゃいましたが、そのように難しいことです。

ただ、それを全部クリアしたら、その祝福は莫大です。

人に言われてチマチマやっている人よりずっと大きなことが成し遂げられ、自由になって歩いていた人が走り、走っていた人が飛び回り、同じ100年をいきても10倍、100倍長くいきたことになります。

小さな山をハイキング気分で登るより、大きな山に挑戦したいですね。

認識が合っていてこそ正しい方向に進める

認識についての御言葉でした。

御言葉を伝えてくださった方が曜日を間違えて、そこから認識を間違えるとなかなか直らないのだという話をしてくださいました。

なんかそうとう忙しい様子です。

主のために働いてる方々のためにも祈らないとですね。

箴言では、どのようにすれば正しい認識がもてるかをおもに教えてくださいました。

認識が正しくてこそ、前もっての行ないも正確な方向に行なえます。

何かを実践していて本当に感じるのはその方向性です。

方向が間違っていたらどんなに苦労しても水の泡です。

まるでゴルフのように、ずっと先に小さなゴールがあって、そこに向けて一打一打むかっていくような感覚です。

いつも「コッチでいいのか」ということに気を配りながら進んでいく毎日ですね。

そういえば、認識といえばやっぱり人は見た目で判断することが多いのだな、ということを感じざるをえません。

私の場合は、もっと見た目に凄みを持たせる必要があります。

もっとみんな知恵深く判断してもらいたいけど、なかなか現実は厳しい。

そこで、ひげを生やそうかなとも思うんだけどどうだろう。

問題は礼拝の時だよね。

みんなに「あの人はどうしたのかな?」と思われるでしょう。

先生にも「あなたはユダヤ人にでもなるの?」と言われる気がします。

ひげもじゃになったらしゃべるの大変そうだよね。普段あまりしゃべらないけど。

だから、やっぱり御言葉でみんなの認識を変える方が良いと思うんだよね。

前もって行うには、やればできると考えること

なんか最近、世間がきつくない?

GW明けから6月は祝日がないのでみんなピリピリしているように思います。

五月病ですね。心がすごく重く、ざわつく嫌な期間が続きます。

私も昔はひどかったですが、今はあまりなくなりました。環境も変えたし、自分をマネジメントする力もついてきたからです。

とりあえずやたら睨むのやめてほしい。弱そうに見えるだろうけど、こう見えてめちゃめちゃ強いから。

早く6月にも祝日ができるといいですね。

今朝の御言葉では「やればできると考えなさい」とおっしゃいました。

主日には前もってやることを話されましたが、前もってやるためには、いつも「できる」と思う必要があることを感じます。

なぜなら、前もってやることはすぐに結果を得ることではないからです。

すぐには対価のないことをやりきるためには希望がなければなりません。将来に対して希望があるからこそ、私たちは事前に行うんです。

「できない」と思っていたら前もってはやりません。

そういう意味で、今朝の御言葉は主日にプラスされる御言葉でしたね。

あと、オレオレ詐欺の話がありました。

思ったのですが、オレオレ詐欺に騙されるのって、世間のことには少しうといおじいちゃんですよね。

つまり、今の摂理にはそういった古い認識が体質としてあって、そこにサタンがつけ込んでいるということではないのかな。

今朝の御言葉は、悪評は見ることも聞くこともするな

ライングループにここに書いていることを載せてるんだけど、今朝1人がグループから抜けてしまったよ…。

昨日ジャニーズの話をしたのがいけなかったのかなあ。

主と近くしてくれさえすればこんな文章は嫌ってくれていいんだけど、個人的にはショックでした。

今日はガンダムのたとえ話をするね。

今朝の御言葉では、悪評は見ることも聞くこともするなと仰いました。

日本人にとても多いのが「善悪をそう簡単に決めつけるものではない。それぞれに事情があるので、両方を尊重すべきだ。」という考え方です。

ガンダムでは、連邦軍とジオン軍のそれぞれに言い分があって、どちらも納得がいくんですね。

その中で葛藤をしながら戦争をするんです。

ワンピースでも「正義」を掲げているのは海軍の方ですね。

ただ、それが絶対的な正義としては描かれてはいません。

対立する2つがある時、どちらにも正しく見える根拠があります。

だからこそ、国会は与党と野党に分かれて議論するわけです。それが行政の暴走を止める役割を果たしています。

ただ、愛を中心にすると、そうした「どちらも正しい」が成立しなくなります。

たとえば話をうんと小さくして、風邪をひいたとします

人間にとってはウィルスは悪者ですが、ウィルスから見たら人間は「やっと見つけた宿主」です。

渇いた大気をさまよって、ようやく見つけた理想郷が人体なんです。そこで張り切って子孫を増やそうとします。

するとどこからともなくマクロファージがやってきて、仲間をバクバク食べ出すんですよ。その光景はまさに進撃の巨人でしょう。

か弱いウイルスの子供達が、どでかいマクロファージに食べられている。ウイルスのお母さんやお父さんは泣いていると思いますよ。

ただ、だからといって人間がウイルスの事情を考えることはしません。「こいつらも生き残るために頑張ってる。共に繁栄しよう。」とは誰も言わず、先ほど言った「善悪は決めない派」の人たちでさえ、全力で退治するし、避けます。なぜなら、誰でも自分を愛しているからです。

また、畑仕事をするとよくわかるんですが、畑っていろんな生き物がしのぎを削って生き残ろうとしている場所なんですよね。

人は野菜を作って食べたいと思う。蝶々は野菜に卵を産んで生きようとする。蝶々が産んだ芋虫を食べて生きる虫もいるし、その虫を食べて生きる鳥たち、その鳥を追いかける猫。

どうですか、すべての事情を考えていられるでしょうか?

また、もし自分の給料が減った時「これで会社の利益が少し増えるな、良かった」という人がどれだけいるでしょうか?

つまり、人は自分のものだと思っているかどうかで判断が変わるんです。

自分のものはつまり愛しているから、それを守るために一生懸命になるんです。他の事情を考えるなんてことはしません。

これは理屈ではないから、「あっちの事情もこっちの事情も知っておかないと」というのが成り立ちません。

だからこその「悪評は見ることも聞くこともするな」なのだと思います。それは、先生が全人類を自分のもののように愛しているからです。

主に会って運命を変えるには目的を悟らなければならない

主に会って運命を変えなさいと仰いました。

まずは摂理に呼ばれて主に会い、変わったことが感謝ですね。

そしてまた先生に会うときが近づいて、変わるのだということを感じさせる内容でした。

しかし、変わるために目的を悟りなさいと仰いました。

イエス様の時代には、みんな自分の立場ばかり主張して目的を悟らなかったといいます。

聖書を読むと、イエス様がいる部屋の中にたくさんの人が押しかけて、会えない人が屋根を引っぺがして中に入ったという記述もあります。

それはそれで、それだけ救われたい気持ちが強いことだから、イエス様もその人を受け入れましたし、人によっては「あなたの信仰があなたを救った」と言われて病気を治したり、罪を赦したりして、そのことがイエス様がなされた救いとして今でも語り継がれているわけです。

でも、それだけじゃダメなんだと今日の御言葉では仰いましたよね。

私たちも、先生!会えた!10年ぶり!という喜ぶからといって、ただの追っかけになってはいけません。

主の仕事をして主の助けにならないといけません。

新婦ではなくヲタクのようになって先生の写真撮りまくってはいけません。たしかに先生の写真撮ったらみんなに自慢ができるけどさ。

私は以前、ジャニーズ系列の職場で働いたことがありましたが、追っかけや出待ちを見た村上君や上田君の顔はあまり嬉しそうではありませんでした…。そのように先生も嬉しくないということです

あれ、村上君知らないの?そんな、関ジャニ∞の村上信五に決まってるじゃないのよ。やれやれ、これだからさ。そのようでは、これ以上ジャニーズの次元が高くて深い話はできないねえ。

さて、先生も前半期には月明洞で弟子たちに追いかけられていたといいます。

そのとき先生はどうされたでしょうか。

愛で接した?

いいえ、《ゴルフカートで逃げました!!》

そういう話を先生に近しい人から聞いたことがあります。

先生の働きをして、喜ばれる新婦になりたいですね。

御言葉聞いて、楽をするタメに働くと続かないよなって思った

安住しちゃだめだと仰いました。

「自ら行なう」時だからこそ、そこにつけこんでくる「安逸さ」には注意しなければなりませんね。

楽になることが目的だと継続ができないことを最近感じます。

世間では90%以上の企業が創業後5年以内に店をたたむといいますが、それって資金の問題ややむを得ない事情もあるけど、ほとんどモチベーションの問題だと思うんです。

私もしょうもないブログを書きながら思うんですが、継続していると、ふと「これを俺がやらなくても地球回るよね」といったことが浮かんできます。

「なんでこんなこと熱心にやってるんだろう。」と思う時もあるし、「そんなことより他のもっとタメになることをやれよww」「今日はだめだ。どうにもならん。休もう。」という時もあります。

こんなふうに、心はしょっちゅう変わるんです。

しかし、消費者が期待していることというのは、「常に高いクオリティ」であったり「毎日営業している」ことであったり、「頻繁にアップデートを繰り返して驚かせてくれる」ことであったりします。

つまり、ロジックが矛盾しているんです。

だから、普通にやったらできません。

それでほとんどの会社が潰れてしまうのだと思います。

最近は「フリーランス」という働き方も増えてきて、個人で事業をしている人がブログを書いています。それで実業家のホンネを知る機会がたくさんありますが、中には辞めてしまう人もいます。

それは、資金が回らなくなったというよりも、走り続けることに疲れて何かに押しつぶされるようにして辞めてしまうんですね。組織に属していた方が良いって。

フリーランスは「自由」「給料は自分で決める」「働く時間も自分で決める」ということに魅力があるわけですが、実際にやってみるとそのようなモチベーションだけでは走り続けられないのだろうと思います。

しかも、じゃあ辞めないで無理にでも続けようとしていれば良いかというと、それもいろんな問題、たとえば仕事が形式化したり、ブラック化したり、仕事のストレスで体を壊したりとかいう問題も起こるわけでしょう。

だから「続ける」って簡単なようですごく難しいことなんです。

こうした、自分の中に常に起こり続ける困難、つまりサタンの働きを乗り越えるためには、必ず愛を中心にして行わなければなりません。

愛って行動力につながりますよね。

冷静に考えたら「辞めても誰も困らない」「なんでそんなこと熱心にやってんだ。」ということも、愛が中心の人にとっては辞める理由にはならないわけです。

恋愛中の人は、まわりにはバカに見えるものです。「なぜそんなことをしているだけで楽しいのか?」という、他人がいくら分析しても理解できないことを2人できゃっきゃと続けているわけですから。

だから、「楽になるため」ではなく、愛を目的にしてやらなきゃいけないと、今朝起きた瞬間にそう思ったんだよね。時間はね、3時半くらいだから。

前もって行うことについての御言葉でした

わかってたけどやってなかったこと。

それは「なんでこのブログを書いている人は平日朝の御言葉のことについては書くのに、肝心の主日についてはなにも書かないの?」

ということです。そう思ってたんでしょ?どうせ。

なぜやっていなかったかといえば、大変だからです。

もともと、同じ教会の人に「朝に伝えられた御言葉の紹介」という趣旨ではじめた一言を、コピペしてきたのがこのブログでした。

だから、「せっかくの核心の御言葉が伝えられた日に僕の文章の影響を受けて間違った感覚を持ってしまったら嫌だなあ」と思って日曜日はなにもしませんでした。

しかし、毎日やることについてここしばらく必要であることを感じ、今日は書こうと思います。

と、日曜日に書いて下書き保存して、投稿し忘れました。

主日の御言葉は、「前もってやること」について教えてくださいました。

先週の主日に「1日3時間早く起きて行なったらどれだけながくいきられるか」について話してくださいましたが、それをさらに「神様の知恵」で強化したものを伝えてくださった感じですね。

ただ3時間早く起きるだけなら10年で3年分の長生きをしたことになります。

しかし、前もって行うことの本当の効果というものがどれだけ大きいのか、様々な例を出して教えてくださいました。

以前には、「明け方に仕事の腰を折ってから1日をはじめなさい」とおっしゃったこともあります。

また、「まずは魂で行なっておく」ということについても話してくださっていましたね。

だから、ただ時間を早く始めるだけでなくて、そこに神様の知恵が加わることでその効果は何倍にも大きくなるのだということです。

で、月曜日。今朝も時間の使い方についての御言葉でした。

最近、先生と手紙で疎通した方の話を聞く機会が多い気がします。

先週の日曜日に一回、金曜日に一回、今週の日曜日にも一回聞きました。

それを聞くと「いったい、御言葉も書きながら様々な手紙も出しながらって、どんな時間の使い方をしてるのだろう」と思ってしまいます。

しかも、それが上司がハンコを押すような一律な返事ではなく、人によってスタイルが違うようです。

「〜なの?」という小さな子どもに聞くようなスタイルの時もあるし、「〜にしなさい」と権威あるようにする時もあるし、「〜をしなきゃね」といった友達のような時もあります。

なかには「そんなこと書いたら人によってはつまずきそう…」というような冗談なのか本気なのか、受け取った人にしか恵みにならないことも書いてあるようで。

先生が亡くなられてから、すべての手紙のやりとりが公開されて全貌が明らかになったら「よくこんなことされてたな」って誰もがたまげると思いますよ。