今朝の御言葉は、私たちの認識が人を自由にもするし不自由にもするという内容でした。

私たちの先生に対する認識が、監獄や十字架にもなりうるという話でした。

思わず共感してしまうのは、私たちも学校や職場では自由に賛美したりお祈り神様の話はできくて、窮屈な思いをすることがあるということですね。

人は良かれと思って飲み会に誘ってくるし、日曜午前にバーベキューの予定を入れてきます。

また、人によっては、こちらが平和にしているといきなり見下してくる場合もあって、けっこう心情が傷つきますよね。

それでもなんとか話を合わせたり、飲み会では飲めない代わりにお酌して回ったりして、なんとかその場をやり過ごします。

しかし、そこでは本来やりたいことを何もできないわけで、関係性が深まるわけでも、何かが前に進むわけでもありません。

そのように、先生の認識が間違っていたらそれが先生の自由を奪い、閉じ込めてしまうことになるんですね。

ちなみにどうでも良い私ごとですが、私は見た目がそれほど覇気があるわけではないので、けっこう見くびられることが多いです。

ブログでは名前も顔も伏せているから勝手にやっていますが、人前では油断しないようにという気持ちが強いので、気難しい顔になってしまうことが多いです。

先生のようにどこでも笑顔でいられればいいんですが、すっごい見下してくる人とかに会ってしまうと落胆が半端ないです。気にしない先生はすごいよ。

主を中心に

主を中心にすることについて教えてくださいました。

箴言では健康についてたくさん出ていて、病気になったら「祈ってばかりいる」ことは自分式で「病院に行くこと」は主を中心にすることですね。

私たちがイメージする「主中心」は少し違うこともあって、なんかの新興宗教の影響か、ひたすら主の名前を叫んでいるとひきつけを起こして病気がいつの間にか治っているという、そんなイメージが頭をよぎるのですが、明らかに違います。

いつも御言葉で確認です。

そして、病院に行けというからと言って医者を完全に信用してしまうのも慎重になる必要があって、中には権力やお金のことばかり考えてる医者もいます。

だからやっぱり主中心で分別しなければなりません。

ちなみに、今は医療情報をネットで探すと間違っていることが多いです。DENAが運営する健康サイトWELQでは一文字0.5円でバイトが鼻をほじりながら書いていました。

また、ネットの情報自体に信憑性があるとは考えない方が良いです。

なぜなら、ネットで人気がある情報が検索順位の上位に表示される仕組みですが、それは正確であることとは意味が違うからです。

Google自体が「記事の正当性を判断していない」と明言しています。

そもそも検索結果で上位に表示される記事を信用してしまうという文化自体にも弱点がありますね。おとなりの中国では、百度での検索結果はあまり信用されてないそうです。

海賊版も多いし偽の情報も多い国なので、調べたら自分のコミュニティに聞くのだそうですね。

情報がたくさんあって何を信用するかが重要な時代になって、います。

主中心にはんだんしたいですね。

報告より対話

報告より対話が大事なんだと仰いました。

報告には型があるので学べば誰でも出来ますが話せることに制限があります。対話は何でも話せてスタイルも自由で、相手のことをよく知っているほどもっと深い対話ができますね。

このように理想的なのが対話ですが、自由だからこその難しさもあります。

うまく表現できませんが、合う時ってあまり話してなくてもぴったり合っている感覚がありますね。

反対に合わない時はのれんに腕押ししてるように手応えがなくて、いくら努力してもかみ合いません。

会社のビルのロビーに、テレビがあります。夕方になるたおじさんたちがそこに集まるんです。相撲を見るためです。今、稀勢の里が頑張ってますからね。

相撲ではよくあるのですが、お互いの息が合わないと競技が始まりません。制限時間まで仕切り直しです。他の競技のようにヨーイドンの合図で強制的にスタートはしません。

行司が「はっきよい、のこった!」と言っているのはヨーイドンの意味ではなくて、「発気揚揚」という意味だそうです。がんばれがんばれって意味ですね。つまり行司は応援団長もやってます。

対話もそんなふうに、お互いの呼吸が合ってこそうまく行くのだなあと感じました。

言葉だけじゃなくて、心でも行いでもぴったり1つになった疎通をしたいですね。

天の基準

天が何を基準にするかを教えてくださいました。

私たちは自分の短所に囚われて自信をなくしてしまうことがありますが、天の見方はそうではないんですね。

この世には多くの人がいます。しかし、たった1人の条件で他の人々が救われます。

そのように、人にいろんな短所があっても、たった1つの長所を基準にしてその人全体を引っ張って行くのが天のやり方ですね。

バイブルスタディでも学びました。アベルがカインを引っ張って行くのだと。

図で学びましたね。

うまいとか下手とかは意識しちゃだめだから。仕事中に書いたんだから。

さて、バイブルスタディで習ったように、長所が短所を引っ張っていかなければなりません。

世の中は霊の戦いですが、個人でも「長所VS短所」の戦いが日々起こっていて、どちらが優勢になるかで考えが昼になったり夜になったりします。

いつもカイン側がアベル側を苦しめますが、それは個人でも同じです。自分の短所によって悩みます。

しかし、月明洞が短所を葬って傑作品になったように、自分のそびえ立つ短所に心が折れないように、自分との戦いに勝利して自分を作りたいですね。

悪評者の言葉は聞くこともするなという御言葉でした

悪評者の言葉を聞いてはいけないという話でした。なぜなら、彼らの話は自分の既得権益を守るためのポジショントークだからですね。

イエス様やパウロが御言葉を伝えるのを激しく反対していたのは、旧時代人の人と、さらに銅像づくりを生業としていた「銅細工人」「銀細工人」たちであった様子が、聖書に書いてあります。

御言葉を伝えてそれをみんなが信じてしまうと、商売あがったりになってしまいますからね。

しかし、それを捨ててこそ新しくできる。もっと早く行える。だから、人生短くても長く生きたことになる。このことについて主日でも話していました。

主日でも、古い曲をすっぱりと切っていましたね。

未練なく切っていました。

先生は昔の『御旨咲く摂理史』なんて日本語で歌えるんですよ。覚えるまでに大変な苦労をされたはずです。

日本人メンバーの前で歌えば、今でも「わー」って言われるでしょう。

そういった既得権を先生は放棄してしまいました。

思い出もたくさんあったと思うんです。弟子たちと歌った懐かしい思い出がたくさんつまってる曲も多かったのではないでしょうか。

聴きなじんだ曲ってその当時の思い出を彷彿とさせるんですよね。

私もB’zとかスピッツを聞くと今でも青春を思い出します。いや、今も青春だけどさ。

しかし、先生はそういったノスタルジーってものを感じさせずに切ってしまいました。

もうちょっと名残惜しくやったらいいのにな、と私は思ったのですがみなさんはどうですか。

「残念だけど…もう、この歌は歌えない…。」

「えっ。な、なんでですか?」

「なぜって、神様の言うことだからね。さみしいけれど、前を向いて、新しく変わっていこう。」

「そんな!そんなこと急に言わないでください!せめてもう一度、もう一度最後に歌いましょう!」

「ダメだ。古いものを葬るんだ!」

そういったやりとりは一切ありませんでした。

「本日より禁止する」

以上、です。

先生に接見された方もおっしゃっていましたが、その方がとても久しぶりに先生に会って懐かしい気持ちでいたのに、先生はいきなり要件を話し出してちっともムーディーではなかったといっていました。

最近新しくするべきことがさかんにいわれていますが、なぜ新しくしろというのかといえば、それによって私たちの人生がもっと充実したものになるからです。長く生きることができるからですね。

愛なんだなと思います。

まとまってませんが、今日は以上です。

神様の前では唯一の人、その他

神様の前で唯一の人になりなさいと仰いました。

世界には自分と似たような、またそれ以上の実力を持つ人はごまんといます。それで私なんかは昔は自分が何者なのかわからなくなることが多くありました。

主は唯一の人として接してくださることが感謝ですね。

しかし、仕事をしているうちに主を忘れるということがあります。

特に仕事が忙しい時なんかは目の前のこと頭がいっぱいになってしまいます。

使命もそうですね。

私はよくやるのですが、何でもはじめは主のためにやるんです。

「これを成し遂げて主に喜ばれるぞー」と思って張り切ってはじめるわけです。

しかし、やってみると現実ってけっこう厳しいし、やることが山ほどあるし、どんどん若くて優秀な人が現れて、焦って仕事ばかりしているうちに、主を忘れます。

それで主が「やあ、来たよ」みたいな感じのチャンスがめぐって来ても「すっごいタイミング悪いですねえ!ちょっと今ギリギリんとこでやってるんで!」という、聖書で婚宴の誘いを断った人のようなことをしてしまいます。

さらにこれが高じてくると、チャンスを逃したことで妙な余裕が出て、しかも目的が曖昧になってるから人を意識するようになります。

人を見ると相手と自分どちらが上かなんて考えるようになります。

「余はこのような使命をおおせつかっている者なるが、そちはどんな使命を?なるほど。さあらば、余の方が格が上…ということでよろしいか。して、そちは何の権威でそのようなことをされるか?」とユダヤ人ぽいことを言い出します。

そうなるとそろそろ新しい時代が来るという希望が世界に満ち溢れますね。

いつまでも初心を忘れないようにしたいですね。

あと、全然別の話なのですが、新曲『滝の愛』が発表されました。ニューシングルのリリースです。新しい変化!

めっちゃ演歌だけど。

そしてさらに驚いたのが、旧セノレ禁止のお達しです。

この2つのニュースが同時に発表されたことが、私は「もう本当にすごいなあ」と思いました。

だって、今までも「昔の曲で歌わないようにしよう。新しいメロディで歌うようにしよう。」という話はあったんです。

しかし、どうしても「新しいメロディでは歌えない、あのポップな感じが嫌だ」という方々がいらっしゃって、結局どっちも歌っていました。

すごく中途半端な感じだったんです。

それを!

先生がご自身で曲を作っちゃって、それがド演歌だったわけです。最後なんかこぶしを効かせないと歌えないほどの演歌です。

と同時に、今までの演歌調の曲をぶっ壊してしまいました。

すごく先生流というか、これ以上のやり方はないなと思いましたね。

この歌なら昔から摂理にいる方も自然に歌えるし、若い人もなんだかんだで歌ってます。私の教会でも10代の女の子も歌ってます。

私ははじめこの曲を聴いた時、「あれ、新しくするって言ってたのに結局演歌か。先生も演歌が好きだなあ。」くらいにしか思ってませんでしたが、違いましたね。

ほんとに和睦の方、1つにする方だなあと思いました。

大切に歌いたいですね。

反応についての御言葉パート2

反応についての御言葉でした。

今週2回目ですよ。

やっぱり主日のときの反応が悪かったからじゃない?

敏感になりなさいと仰いました。この御言葉は、信号待ちをしている時に出てきた御言葉だそうです。敏感ですね。

私はいつも信号待ちしている時(早く変わんないかな。あ、押しボタン式かよ、ふざけんな時間返せクソが)と思っています。

このように、敏感かどうかで、御言葉になるか、ストレスが溜まるだけかが変わりますね。

最近は私もあまりできていませんが、以前摂理の兄弟同士で肩を叩きあったりマッサージしてあげたりしていました。

敏感な人と、そうでない人がいるんですね。

敏感な人は少し押しただけで「痛い」といいます。

なのに、そうでない人はいくら押しても「何も感じない。もっと強くしていいから」といいます。

ああ、これは肩の神経に届くまでに多くの肉的な、というか肉があるから敏感に感じないのだなあと思いました。

敏感に感じるためには、多くの余計なお肉、じゃなくて肉的な考えを捨てなければなりません。そうしないと働きかけてる方は指が痛く、じゃなくて心が痛みますので。

また、御言葉では三位を愛で刺激しなさい、悪い刺激をしてはいけないとも仰いました。

愛では同等圏だからこそおっしゃる話で、新郎新婦の時代でしか聞けない御言葉ですね。

自分の考えに固執していないで変わっていくことが大事だという御言葉

自分の考えに閉じ込められたらだめだとおっしゃいました。

自分の考えに閉じ込められてしまうと怖いのが、全体を見られなくなるということです。

箴言にもありましたが、神様は全体を見る方であり「より重いほう」をお使いになる以上、なまじうまくいっていたりすると、周りが見えなくなって神様の御心が別のところに働いていることがわからなくなってしまいます。

それで「あれ?前はこれでうまくいったのに、なぜだ?」ということが起こります。

よく漫画なんかで、悪役の必殺技がすげー強くて主人公が手も足も出ないシーンがありますね。

その悪役は調子に乗ります。街とか破壊して、世界が悪に染まるんだけど、主人公が鍛えて強くなって、またその悪役と対戦するわけ。

悪役は「またやられに来たのか?やれやれ…懲りないやつだな。」といって、以前主人公をやっつけた必殺技を出すんだけど、主人公は強いから効かなくなってるわけ。

それで悪役が「ば、ばかな。効かない…だと…!?」と言います。

これと同じく、自分の考えに閉じ込められている人はそのような運命になるのです。

え、少年漫画読んでないの?なんでなの。

ともかく、神様が全体を見て働き方を変えるのだから、御言葉を聞いて変わっていかないといけないんですね。

私も文章をよく書いていますが、いつまでも文章だけで書いていれば良いとは思っていません。

なぜなら、これから先生が出てこられたら、文章で語られることもなくなるだろうことが考えられるからです。

もっと実体で、理想的に働かれると思います。

そのため、私も変わらなければなりません。

御心は悟らなければならない

御心について話してくださいました。

御心を悟らなければならないとおっしゃり、それは見えたり聞こえたりするものではないから悟らなければならないとおっしゃいました。

はっきり「こうしてほしい」と御言葉で話されていることもあれば、話されていないこともあるんですね。

言えればいいんですけど、大勢を前にして話すときには言えることと言えないことがあります。だから比喩で話したりします。

こんなブログでも言葉にはわりと気をつけています。ましてや御言葉はどうでしょうか。御言葉を聞く時も神様の汲み取らないといけませんね。

2000年前、神様が新しい御心を広げようとしてイエス様を遣わした時代には、異端もたくさんいました。

律法を守ることばかりして神様の心を悟ろうとしなかったユダヤ人たちは、イエス様と他の異端や罪人を分別できなくて殺してしまいました。

今、摂理が新しくなろうとする時もそのように分別してはいけないし、また「新しくする」と言って御言葉を合理化して異端のような行ないをしてしまってもいけませんね。

判断する時も、行なう時も、自分の頭を切って主の頭を付けてやりたいですね。

反応が大事という御言葉

反応についての御言葉でした。とても大事ですね。

今週の主日、チョウンさんが「ハレルヤ!ハレルヤ!」と言った後、しばらく沈黙がありました。

反応が薄かったからだろうなあと思います。少し困ったような顔をしていました。

それで会衆の中に目が覚めた人がいて「御言葉ヒャッホーウ」的なことをして緊張が和み、御言葉が続けられました。

伝えている側は、聞いている人たちの反応がとても気になるようですね。

先生も毎日御言葉を伝えてくださっていますが、たまには手紙でも反応を示したら良いのではないかと思います。

手紙の期間ももう終わりだし。

まずは感謝を伝えれば良いと思うんですよね。先生が御言葉を伝えて、その返しとしてこちらも聞いた悟りなり、実践の報告なりすれば、それが創造と再創造の働きとなって完全じゃないですか。

昔、日本の貴族の中には歌を返すという文化がありました。連歌って習いましたよね。前の人に続けて歌を作るという。そうやってやりとり、疎通をすればいいのではないかと思います。

今、韓国大統領選挙の真っ最中です。

候補者が選挙運動をして、その反応として国民が投票に行きます。韓国では70〜80%の人が投票に行くそうです。日本は50%、しかもお年寄りが多いので、日本ではお年寄りに有利な政策がどんどん決まります。

このように、反応の影響が大きいです。

選挙は今夜11時くらいに当確発表だそうです。