良い意味で思ったのと違う変化

御言葉は挨拶について話してくださいました。

実は、今朝は起きるのが遅くて挨拶もせずに家を出ました。

聖殿に着くともう御言葉が半分終わってるころでした。

挨拶もできなかったし、御言葉を聴き直そうにも途中からしか録画されてないし、文章でもまだアップされてない。

早く読みたい。

それよりびっくりしたのが箴言です。

箴言は教会と住環境について話してくださいました。

明け方の守り方とか、今までとは変わった話もされていますのでメンバーは要確認です。

この話は新しいようですが、私の記憶だと5年くらい前に一度話されたことがあります。

「これからは礼拝も個人で守るようになる」

うろ覚えですが、たしかそのようなことをチラッといっていました。

当時は迫害がとても強かった時期でもあったので、私は「ああ、迫害によってみんながちりぢりになり、初期のキリスト教のように隠れながら信仰生活をするんだ」と思ったんです。

すごくつらくおもった記憶があります、

でも、実際は全然違いました。むしろ今は外に出て行く流れです。なんか理想的でした。

ほんとに良かったです。

そして、余計な心配しないほうが良かった。

水曜礼拝の御言葉のように、心配しないで将来得るものを考えて進まなければ行けませんね

主と共に走りなさい

主と共に走りなさいと仰いました。

今、先生と共に走れるかで「先生が出てきたら、級どおりに位置が分かれ、使命が分かれ、
主との距離も変わる。」と仰いました。

今日と明日はいつもの御言葉に加えてチョウンさんの映像説教もありますが、そこでも「主がそばにいると思って過ごしなさい」と仰いました。

私の場合、主がそばにいると考えると、ちょっと部屋が汚いです、ははは。

箴言では裁きについて話してくださいました。

こういう御言葉があるときは、実際にさばきがあることが多い気がします。私たちの目には見えていないだけで。

その箴言では、裁きには2つあって「使命の裁き」と「行なった通りに報いる裁き」だと仰いました。

行なった通りに報いる裁きは私もよく感じます。それで苦しいとなぜか神様を恨もうとする心が湧いてきます。箴言の2番でそういう人のことを話してくださったので気が引き締まりました。

使命の裁きは、使命を取り除く裁きだと仰いました。こちらは自分にはあまり実感がありません。使命ないから笑

ただ、今週の主日では「他のところにもっと良い御心がある」とおっしゃっているので、ただ使命をおりたからといって落胆してしまうのも良くないですね。

目的は、主と共に生きることです。一緒に暮らせるなら新婦が使命なんだから他はいいじゃん?笑

その「主と共に生きること」ですが、主の考えに次元を合わせなさいと仰いました。

人によって、主に個人の夢を叶えてくれることを期待している人もいれば、家族や民族が良くなることを考える人、もっと大きなことを考える人もいます。だけど、主の構想通りになるから考えを合わせなさい、と仰いました。

ちなみに、2018年の平昌五輪では、韓国と北朝鮮の合同チームが作られるかも、という話が上がっています。

韓国大統領 ピョンチャン五輪で北朝鮮との合同チーム目指す / NHK NEWS WEB

このニュース、日本では「ふざけんな」といった反応が多いのですが、「平和」ということを考えると実現してもおかしくないですよね。僕は賛成です。

2002年は日韓ワールドカップだったけど、2018年は韓国北朝鮮共催五輪なるか。

今までもそうでしたが、2018年からは、いろいろ思いもよらないことが起こりそうです。

神様は実数を見るし、先に祈ることで仕事は早くなる

伝道の義の大きさについて話してくださいました。

伝道は愛であり、あたまかずを増やすためのものではないと仰いました。

箴言でも、管理簿に数字をたくさん入れてしまう問題について話してくださっていますが、そうした数さえ満たせば祝福があるというわけではなく、神様は各自の功績をご存知で霊的に冠を与える人たちを見つけてすべてお与えになったと仰いました。

また、たくさん祈ることで新しい伝道方法が浮かぶし人も残るのだと仰いました。

箴言でも、月曜から霊を先にすることが語られていて、先生はどんなに急ぐ手紙が来ても先に117祈りを守るのだと仰っています。

そうして、時間が20分しかない中でも先に祈ることで聖霊を先にすることができ、手紙を書ききって数千人の集会に送ることができたのだと言います。

すげー(かるっ)

毎日があっという間に過ぎていく中、祈りで日をとどめて多くの仕事をしたいですね。

生の中に入っていく

救いの機会について話してくださいました。

先週の御言葉で「瞬間をとらえること」について学び、私は「自分は瞬間をとらえることが苦手だから直さないと」とこのブログにも書いたのですが、そうした「私たちが掴むべき瞬間」だけではなくて、命にとっては私たちが「チャンス」であり「つかむべき瞬間」なのですね。

「引き上げられた霊の権勢」というものを感じられる御言葉でした。

そして、生の中に入って行って共に生きてあげ、多様に同行してあげ、種を蒔きなさいと仰いました。

先生は幼少期のころ「お菓子をもらえるから教会に行った」というエピソードがありますが、強制的に御言葉を伝えるのではなく、そのようにするのだということですね。

そうだとすれば、うちの教会でも「礼拝参加者には抽選で『プレステ4』が当たる!!」とか「今なら年会費無料!!(ていうか永久に無料!!)」とかやったらいいんじゃない?

もっと感謝が必要だと教えてくれた

今朝、歌手をやってみて後で映像を確認したんですが、微妙な顔してて自分で自分が笑えました。

変えてかないと笑

今朝は先生の映像説教で「感謝」について教えてくださいました。

主日に「感謝と愛で神様に進み出なさい」と仰った、その感謝についてです。

良い時だけではなくていつも感謝して感謝の主人公になりなさいと仰いました。

聖書の中ではダビデが最も感謝した人だと言いましたが、その感謝していたときはサウル王に命を狙われていた時でした。

そうした生活の中での条件があったから、ダビデは後にイスラエルの王になりました。

主日には「困難があるとすぐ不平を言う人が多い」と言いましたが、感謝で乗り越えることで大きな祝福を得るという例をダビデは示していますね。

「今栄えている人は、以前に条件を立てたからだ、だから隣の人を見て『なんであの人だけが』というな」とも仰いました。

主日ではチョウンさんが世界を飛び回るという広告がされましたが、それも以前にチョウンさんが大きな条件を立てたからですね。

2009年とか2010年あたりに、チョウンさんが2017年に世界を飛び回るということは内定していたということです。

そのように条件を立てたいですね。

箴言では、次元をあげている人もいれば下がっている人もいると話していました。

行い方によって、もっと飛び回る人もいればただ歳を取るだけの人もいます。

コツは、霊を上に立てること、だそうです。

やってダメなら他を探してみるのもあり

二つの主題で話してくださいました。

1.他のところにもっと良い御心がある
2.神様の前に進みでるときは感謝と愛で進み出なさい

1つ目の主題は、ちゃんとやってもうまくいかないときには他に御心があることを確認できたのだ、と仰いました。

よく、エジソンは電球を発明するまでに20000回失敗したと言われていますが、エジソン本人は「20000回失敗したんじゃない、20000個の『電気がつかない』という発見をしたんだ。」と言われていますが、そのように、やってダメなときは「ダメだった」ということがわかって感謝すべきですね。

2つ目の主題は、目的をなすまでには困難もあり、それを乗り越える力について話してくださいました。

私たちはちょっとした困難なことにぶつかるとすぐに怒ったり落胆したり「死にそう」という言葉を簡単に使いますが、それを乗り越える力は感謝と愛だ。

この2つの主題はつながっています。私は2つを逆にしたらわかりやすいかなと思いました。

つまり、目的をなすまでの困難を感謝と愛で乗り越え、でも、そのようにちゃんとやってもうまくいかないときには、もっと良いものが他のところにあるから落胆しないで探しなさい。

どうでしょうか。

私個人的には、聖殿を他のところにしたいです。

カーテン閉めっぱなしがすごく嫌です。昔働いていたブラックな職場を思い出します。太陽が届く所の方が気持ちが良いですよ、肉的にも霊的にも。

みんなよく平気だなと思うんですが、あれは平気なんじゃなくて慣れですね。気がついていないだけだと思います。実はちょっと悪い影響を受けていて、礼拝後に少し攻撃的になっている人がちらほらいますね。

しかも今日は御言葉が長かったからか疲れている人、さらにチョウンさんの最後の「今年は世界を回るから忙しい」という広告に負けん気を起こしている人もいてわけがわからなかったです。

そういうのも、自分で敏感に気づいて瞬間入ってくる悪い波長をすぐに切って、感謝と愛で乗り越えていかないといけないところだと思います。

先生は環境はあんなだけど、まったく影響を受けないのがすごいです。

先生のために祈って力を与える時

先生のために、歴史のために祈りなさいと仰いました。

最近の箴言では時間についての話がたくさん出てきていますが、どれほど先生が急いでいるかが伝わってきます。

年始に「暴漢に追われるように走りなさい」とおっしゃって、その夢の通りに、今先生が走っています。

夢では、このあとバッタが現れて先生を引っ張ります。

だから、私たちがそのシナリオ通りにやらなければなりません。そうしないと今年の夢の通りにならないから。

今は、楽屋でスタンバッてるバッタに「そろそろ出番なんで準備お願いします。」とスタッフから呼び出しがかかってる時なのです。

この瞬間を掴まなければなりませんね。

時をつかめなければどうなるでしょうか。

先生(あれ、夢で見たバッタが出てこないぞ)

観客(なんだ?)ガヤガヤ

バッタ「ぐーぐー」(楽屋で寝ている)

スタッフ「バッタさーん!早く起きてくださーい」

バッタ「ぐーぐー」

場内アナウンス「申し訳ございませんが、バッタが出てこられないため上演を中止します。」

観客「なんだよ、せっかくスリリングな展開でハラハラしてたのに、バッタのせいで台無しだな。」

先生(…)

すいません、なんか適当です。

さて、先生が年始に見た夢によると、先生を追ってくる人はマラソン選手で、先生より足が速い人だったと仰いました。

その通り、現実でも先生を追っている人は、体力や技術力では優秀な人ばかりでしょう。拡大すれば、摂理人より信仰のない人の方が実力があります。

だから、少しの助けでも大きな力になるのだと仰いました。

その力でもっと走れるようになり、途中でサタンは諦めて、先生は無事に月明洞に着きました。

この夢が成就するかどうかは、バッタ次第。

わざわざ批判を知る必要はない

悪評者の言葉を嫌いなさいと仰いました。

エバがどんな人物だったのかを教えてくださいましたが、なんかけっこうヤバイい奴ですね。

エバにはアダムがいたが、悪評者が「こんにちは」といって誘ったらそっちにも行ってしまった。ヤバい。

聖書にはこのことについてさらっとしか書かれていないから、ただ読むだけではわかりませんね。

そんなエバの行ないで歴史が壊れました。

4000年後、イエス様が現れ、5人の恋人がいた女や7つの悪霊に取り憑かれた女、姦淫の場で捕らえられた女、どこまでも追ってきて騒ぐ女などを救ったりします。そうして歴史は一部回復しました。

さらに2000年後、先生の条件で回復したエバが現れました。

復活の歴史。

悪評者に耳を語るける理由として「相手のことを知らなければ勝てない」といった意見もあります。

しかし、今はそうしたことに時間を使っている暇がなく、集中して自分のすべきことをすべきです。

さらに、自分から悪評を見にいったって古い情報しか手に入りません。これから悪評されるとしたらもっと違う方法でくるはずなので、参考にもなりませんね。

それに、自分から悪評を見に行かなくても、どのうち試練は訪れます。

だから、急いで前もって準備しないといけないんです。「昼きたら夜が来る。」と今朝も歌いました。

私は韓国語ができないので読み方が間違っているかもしれませんが、私は「良い時の後には悪い時も来る」という意味で捉えています。

そんな歌詞をあの軽快な曲に載せちゃうんだから、先生ってどういう考えなのだろうと思いながら歌ってます。

宝は外の世界ではなく自分の中にある

宝を掘り出すことについて教えてくださいました。

一般的に「宝」というと、世界のどこかに古の宝が埋まっている洞窟があって、そこには危険がたくさんあるんだけど奥まで行くと宝箱があり、しかしそれを開けると眠っていたドラゴンが目を覚ましてしまい、かろうじて倒した先に本物の宝箱があって、開けるとキラキラした貨幣がぎっしり詰まってる。といったおとぎ話です。

宝を見つけて財宝ざっくざくというのはインディジョーンズかパイレーツオブカリビアンの世界だというのが、この現実世界では当たり前のように語られています。

だから肉的だというんだよ!!

御言葉では、宝は自分の中にあるのだと仰いました。

それは誰でも持っているのだと言います。

それを見つけたばかりの時は自分だけがわかるのだと仰いました。

しかし、聖三位が使うと、自分だけのものではなく、全体が使うのにふさわしい宝、見物し、訪ねて行く宝になると仰いました。

だから開発しなさい。聖三位の前に持ってきなさい。そうすればふさわしく使う、と仰いました。

箴言では先生が得た宝を、私たち全体にの宝としてくださいましたね。

先生はその宝を明け方に得ています。

そして、神様の時間を守れば次元の高いものを得られる、守らなければ低いものしか得られないと仰いました。

明け方に次元の高いものを得、それを三位に見せることで三位が使い、全体の宝になっています。

こうした話を聞くと、本当に人の考えと神様の考えは違うということがわかりますね。

人は、宝は外の世界にあると思っています。しかし根本は中にあります。

高麗青磁のように、その元になるものは誰にでもあるものだから、あとはどう作るかと、どう認識するかで価値が大きく変わってきます。

人とぶつかる時は、認識を変える

御言葉で、認識を変えて誤解を解きなさいと仰いました。

人とぶつかりそうになった時、相手を変えようとするとぶつかるので、自分を変えないといけないですね。

以前の御言葉でも、困難がある時はそこから逃れてより大きな御心を見つけることもある、と仰いました。

旧約聖書のヨセフは、兄弟にいじめられ続けた末にエジプトに奴隷として売られ、さらに売られた先でもポテパルの妻に「襲われそうになった」という冤罪を受けて獄に閉じ込められてしまいますが、最終的にはエジプトの首相になって行政を一手に引き受ける存在になり、ポテパルよりもずっと高い位を得、また家族も養うようになります。

もし、ヨセフがポテパルの妻に「襲われそうになった」と言われた時にぶつかって「では、私はあなたを偽証罪と名誉毀損で訴えますね。」といって返り討ちにしたらどうでしょうか。

すっきりはしますね。獄に閉じ込められたポテパルの妻を見て「はははは!お前にはそこがお似合いだよ!」とあざ笑ったら楽しいかもしれません。

しかし、そうしたらヨセフは首相になることはなかったろうし、一生奴隷(ただし怒らせると怖い)として暮らしたと思います。

先生はぶつかりませんでしたね。十字架にかかり、その期間が終わろうとしています。

ちなみに、怒りやすい性格だと健康にもよくないです。

若い時にはいいんです。でも問題は歳をとってからです。怒った瞬間に血圧がガンと上がってそのままぶっ倒れますよ。

うちの近所にすごく怒りっぽいおじいさんがいるんです。いや、いたんです。

もう出勤時間なのでどう怒るのか詳細は割愛しますが、そのおじいさん、最近とても静かなのでどうしたのかと思っていたんですが、入退院を繰り返しているということがわかりました。

家の前にナースステーションの自転車が止まっていることもあります。

お祈りしたら、「怒りっぽくて、怒るたびにすぐに体調を崩している」という感動がありました。

気をつけましょう。