御言葉、今の時を大切に

今の時代に生まれた人に向けて伝えられた御言葉でした。

神様は先生を通していつも神様の愛を表してくださいます。それはちょうど両親がいつも子どもを愛するようだと仰いました。

しかし今は新婦の時代だから、行いで愛さなければならない、愛したらわかるんだと仰いました。

そう、ちょうどこの前の日曜日は、父の日でしたね。

私が親のことを考えて感じるのは、親の愛は離れてからわかることが多いということと、親が親である期間には時があるのだということです。

箴言では賞味期限の話もありましたが、人の命に寿命がある以上、親といられる時間も限りがあるし、また、今は先生と共に走れるといっても残りひと時です。

その時がすぎる前にやらなければならないことも多いし、また離れてからありがたみがわかるようなことがないように、ちゃんと行いたいですね。

瞬間を捉える御言葉

今朝もやっちまいました。瞬間悩んで機会を逃しました。

明け方に起きて聖殿に行ったまでは良かったんです。
今朝の賛美は私が所属するチームでした。

引導は別の方がやると決まっていたので、私は歌手をやろうと思ったんです。

しかし、聖殿に入って、全体の雰囲気を見てしまい「あ、どうしよう」と悩んでしまいました。それで前に出ませんでした。

いつもこうなので直さなければなりません。

映像説教は瞬間を捉えることについて話してくださいました。

隙間時間を使うことについてでしたね。この文章も出勤の合間を縫って書いています。

今はスマホがあるから何かしようと思った時にすぐできますね。やる気さえあればの話です。

そのやる気は御言葉からもらうものです。また方向性も御言葉から受けるものです。

ただ便利になるだけではスマホゲームして終わる出勤時間でしたが、御言葉があるから少しは有意義に使うことができます。

ただ、御言葉を聞くにしてもまだまだわかっていないことが沢山あります。

今朝の箴言は知恵についてですが、ついてくる人が誰1人わかってなくても目的をなすのだと仰いました。

私たちは、まだまだわかっていないでついて行っていることが多いということです。

先生を1人にしてしまっていることが多いのだと思いました。

御言葉。長い時もあれば瞬間すぎる時もある

今の時に必要な御言葉をくださいましたね。

前もって行なうといってもいつまでも時間があるわけではないので、時を掴んで行わなければなりません。

チャンスには長い期間のものもあればあっという間に過ぎていくものもあります。

季節のように数ヶ月続く時もあれば、シャッターチャンスのように数秒で終わるチャンスもあります。

今日の御言葉は、その「あっという間に過ぎていく方の時」の話でした。

サッカーのシュートチャンスの話もありましたが、数秒からゼロコンマ何秒の世界ですね。

それをつかめるかでその先の運命が変わると話してくださいました。シュートチャンスを逃すと、相手ボールになって再びシュートチャンスに恵まれるのはずっと後になります。

個人的には、瞬間をつかむことは最も苦手なことの1つです。

だからすごく刺さりました。

私はすごく間が悪いのが短所の1つですね。以前勤めていた会社の社長にも「間が悪い」と言われたことがあります。

なんでも熟考してしまうので、それが良い時には良いのですが、瞬間しかチャンスがないものについてはほとんどのチャンスを逃していると思います。

これでも御言葉で精神が鍛えられてますから、チャンスが来たことはなんとなくわかることもあります。

ただ、その時にさっと動けない。「え、今?動いていいのかな。」「周りに危険はないのかな。」などと考えている間にもう何もかもが終わっています。

それでいつまでもほったらかしにしておいてることが多いです。ほったらかしのプロな気がします。

やきもきしてる方いたらマジでごめんちゃい。

で、サタンもその瞬間を捉えようとしているという話も刺さりました。

私は外を歩いている時も考え事をしていることが多いです。そうすると寄って来ますね。

東京はね、「獲物を探している系」の人も多いんよ。海外のように突然財布をひったくったりはしないけど、いろいろ奪っていくんですよね。

それが、いつもこのブログで書いている「私はすぐになめららる」の原因だということがわかりました。

教会では、聖殿では楽しくやればいいんです。でも、外出する時はしっかり扉に鍵を閉めておかないといけませんね。

備える時は過ぎ、前もって行う時だ

難しい御言葉でした。

「備える時は終わったから、前もって行って得なさい」とおっしゃいましたね。

「備える」と「前もって行う」の違いから説明されていたんですが、よくわかりませんでした。

具体例として聖殿の話がありましたね。

聖殿は、先生の条件で備えられた。だから前もって行って得なさい、ということです。

ここで少しわかってきました。

祝福の門は開いているということです。

だから、行えば得られるということです。

得られていないのは、行っていないだけだ。時が来ていないところもあるが、落胆せずに行いなさい。ということ。

つまり、霊ではすでに得ているんだけど、私たちの感覚が鈍くて霊の姿を見ることができていないために得られるのかがわからない。しかし行えば霊で得ているように現実でも得られるのだということです。

たぶんそういうことですね。

箴言でも、体は行わないと得られない存在体だと仰っていました。

成功できるかって、すごく一般的に考えると「その人に素質があるかどうか」とか「どれだけ努力したか」なのですが、今日の御言葉から分かるのは「祝福の門が開いているか」ということがとても重要なのだということです。

私がはじめにこの御言葉がよくわからなかったのは、その「祝福の門」が開いているかが見えないからですね。

私も肉的な人間なので、そういうのはさっぱりわからないし、天国の話とか聞いても眠くなる時が多いです。

しかし、先生の条件で聖殿の祝福も経済の祝福も、門は開いている。

そして、今の時としては先生の体を前もって迎える時だから、共にしなさいと仰っていました。

難しい御言葉でした。

未練なく行うという御言葉でした

未練なく行いなさいと仰いました。

私がまだ新入生だったころ、前半期を走ってこられた大先輩が「自分ではどんなに準備したと思っても、実際先生に会ってみると『もっとやっておけばよかった』と未練を感じるんだ。」と話していたことがあります。

私はその話を聞いて「ははは、私はそうはならないさ。」と思っていましたが、時が経ってみると、やっぱりできなかったことで機会を逃したことが多いなあとおもいますね。

それで最近危険だと思ってるのが、そういうのに慣れてきてしまってるかもしれないということです。

いろんなチャンスが通り過ぎて行って、それが何度も続くと、時々「また行ってしまうのかな。」と何もやらない前からそういう考えになってしまう時があって、ちょっとまずいなと思いますね。

結果はどうあれ、とりあえず自分のできることを未練なくやります。希望と信仰は捨てずに。

御言葉では、「未練なく行うとは時に従って行うことだ」とも仰いました。箴言では、先生は時に従って行なった経緯が語られました。

夕食を食べず、朝2時から昼の1時まで働かれたそうです。

そして!箴言によると『一片丹心』の曲ができたそうです!パチパチ。

今まで同じ歌詞で2つの曲があり、歌う人と歌わない人に別れてしまい物議を醸していたあの名曲が、ついに先生の手によって生まれ変わる。

ほんとうに問題を根本から解決される先生ですね。

夕食を食べずに時に従って、2時から13時までか…

ちなみに私は昨晩、夕食は久しぶりにラーメンを食べました。こってり系のラーメン屋。店内は汚く店主は頑固だが味は最高な、知ってる人は知っているラーメン屋。意外に量が多くて、しかもニンニクを入れすぎたらお腹痛くなっちゃった。

それで寝たら、胃もたれで起きちゃって、時計を見たら2時でした。

一応、先生と同じ時間だから。

今をどう過ごすべきかの御言葉

今の時をどう過ごすべきか話してくださいました。今は愛する時であり、それを忘れたら人や環境が気になるのだと仰いました。

御言葉を聞いている人にとっては今がどれほど大切な時だとしても、聞いていない人にとってはどうでもよく、それより流行を追うほうが大事だし、生活のために働いたり、ポケモンウルトラサンの予約をしたり、防弾少年団の動向をチェックしたり、めとり、嫁ぎなどするほうが重要です。

そのほうが現実的で賢いようなのですが、世の中そうは回っていなくて、昨日の水曜礼拝の御言葉にもあったように、知恵者は隠密に動くので、のんびり見える世界でだけ生きていると、いつかいきなり黒船級の衝撃が走るようなことが、歴史的にもなんども起こっています。

ていうか隠密にやらずに大声で教えても関心がないんだけどね。

だから、知恵のある人は今の時をわかって愛で準備するし、それを忘れて人や環境が気になっていたら、あとでその日が突然やってきて慌てることになります。ノアの洪水は突然やってくるようで、知っている人には前々からわかっていることです。

ミリミリ。

普通に考えても、「これやったら絶対成功する」と思ったことがあったとして、簡単には人に教えないですよ。

世の中はそういう「知っている」人たちが回していて、かつ何も言わずにそれをやるから、我々はその恩恵に預かりながらもいつの間にかその主観圏の中で生きています。

御言葉を聞いていないのだとしても、そうなっているっていうのに気づくといいなあ。

御言葉。新しい時代になった

摂理は新しい時代に変わったと仰いました。

イエス様は十字架にかかられてからその霊で働かれましたが、今は肉で働かれます。ほんとうに新しいです。「未知の領域に突入」って感じですね。かるっ

だから私たちも新しく、というか今までにない次元で走らないといけないんだろうと思います。

新しくしないと滅ぼされるのだと仰いました。

この歴史も転換期がありましたが、旧勢力が腐敗して若者が立ち上がって滅ぼす、というパターンが多いです。

私は日本の歴史しか知りませんが、江戸時代は300年間ほとんど変化がなくて、外国の黒船が一隻きたことでものすごい騒ぎになって、そのまま幕府は滅んでしまいました。

今も新しくするときです。先生が黒船のように(?)新しいものを携えて来たら、どのように迎えるのでしょうか。

「ご苦労でござった」といって迎えるのでしょうか。

当時の日本人は、黒船についている立派な大砲にびっくりして、でも対抗できるものがないもんだから、お寺の鐘を大砲に見せかけて置いたと言います。

その時になって慌てて新しくするのではなく、御言葉ですでに伝えてくださっているのだから、今から準備しておかなければなりませんね。

にしても、たぶん御言葉聞いていない人にとっては黒船級の衝撃になるだろうね…

一人一人が熱く伝えるとき

一人一人が叫び伝えなさいと仰いました。

箴言でも、御言葉を聞いてるばかりで肥満だから実践しなさいと仰っています。

汚い話ですが、摂理の患難期には、御言葉を聞くばかりで肥満になり、さらに消化すらできずに戻している状態だと言われたこともありました。

昔の貴族は食べることだけが楽しみで、食べては吐くということを繰り返していたそうですが、私たちもそんな感じだったということですね。

食事中の方がいたらすみません。ちなみに私は食事しながらスマホでこれを書いています。レタス食べてるところ。ドレッシングがすっぱくておいしいよ。

御言葉を伝えることは運動することだと言います。

昔は道端でいきなり説教を始めることがよくあって、「辻説法」という言葉もあるし、聖書でもイエス様が説教をされているのは井戸端だったり浜辺だったりしていますが、今は少し形が違いますね。

御言葉の中でも「集会を開きなさい」とありますが、今、大勢の前で御言葉を伝えるとしたらTEDのような形式になりそうです。

TEDにはたくさんの人が集まりますが、その理由は無料でコンテンツをたくさん作っているからです。

YouTubeでTEDのことを知って、見ているうちに実際に行って見たくなって、高いお金を払ってでもライブを見に行く。という流れがあります。

「インターネットに食べてる様子を載せる」という話もありましたが、まずは無料で見せて、興味を持った人に実際に会って深い話をする、というのが今の流れです。

今はテクノロジーが発達しているので、うまく使っていきたいですね。

ちなみに、この文章を読んで興味を持ってくれる方もいます。

究極的には御言葉に興味を持ってもらえたらそれでいいんですが、余裕ができたら、文章だけじゃなくてさらにその先のコンテンツを作りたいなあとも思います。

信仰を堅固にすること

先生の映像説教でした。

信仰を堅固にしなさい、疎外感を感じてはいけないと仰いました。

先生自身、ソウルに出てきてすぐは御言葉以外は何もなく、既成のすごい人たちがどんどん人を集め、大きな建物を建てていく中で寂しい思いをしたと言います。

その気持ちがすごく伝わってきました。なぜなら、先生は当時34歳、ちょうど今の私と同じくらいの歳だからです。

先生はそれでも信仰を堅固にして御言葉を伝え続け、彼らよりもっと多くの人を集め、もっと大きな聖殿を建てたんですね。

果たして僕はどうなるかなあ。

箴言では自分がじっとしていたら神様もじっとしていると仰いました。先生が実践して御心を引っ張ってきたように、実践したいですね。

そして、この先生のエピソードは、主日の御言葉にもつながりますね。

というのは、先生は昔は誰にも相手にされなかったのが、だんだん価値がわかる人が増えてどんどん栄えるようになってきた。これは高麗青磁の話と同じだからです。

人々の認識が少しずつ変わってきて、800万だったのが1億、10億と、人々の認識が変わってきました。ほんとはもっと価値のあるものです。これからまたさらに大きくなるでしょう。

だから、信仰を堅固にしないといけないですね。草創期から先生と共にした人は、たとえその価値がわからなかったとしても、どんどん大きくなる摂理の恩恵を受けています。

認識を正しくしてくださる御言葉でした

夜です。こんばんは。

今日の御言葉は認識についてでした。

高麗青磁の話は何度か聞いたことがありますね。

聞いたことがあるはずなのに、みんなの反応がさも初めて聞いたかのように「えー」とか「ひゃー」とか言ってて面白かったです。

反応を意識して先生を喜ばせようとしているのか、はたまた赤ちゃんのように何回同じ話を聞いても飽きない体質なのか。

以前聞いた高麗青磁の話と違ったのは、男女の掛け合いがあるところですね。

前回は、「高麗青磁を売るたびに価値が上がって、最後には国宝級の宝であることがわかった」という話でした。

今回は、登場人物に女性が加わることでストーリーに広がりが加えられていました。

先生は男女の特徴をつかむのがうまいですね。

趣味の陶磁器に夢中になる男と、まったく興味のない女。

しかし最後には女も陶磁器の価値がわかって、気絶したあと踊って喜ぶという。めでたしめでたし。

先生は10年一人きりでいらしたとは思えないほど、人間の特徴というものをよくご存知です。

現実で最近良くあるのが、夫のコレクションを妻がメルカリで売り飛ばしてしまうという事件です。

すっごい高級なカメラを、妻が500円とかでメルカリに出品してしまうんです。

カメラは普通のやつでもレンズだけで10万とかするんよ。いちお撮影部として言っとくけど。

だから、勝手に売らないで。というのが男の言い分なんですが、妻としては趣味に散財している夫に腹が立つんでしょう。

そういう時は、メルカリじゃなくてヤフオクで売りましょうw

価値をわかって高く買ってるれる人が現れるからww

価値っていうのは、自分が決めてる部分が多いんです。

私たちは普段、「ハンバーガーは100円」「電車の初乗りは140円」「ユニクロのTシャツは1980円」などと物の値段は決まっているものと思いがちですが、あれは「流通量が多く」「価格競争が正常に機能している」場合にだけ当てはまることです。

逆に、「数が少なく」「価格競争が機能しない」商品の場合は値段がコロコロ変わるのが普通です。

なぜなら、周りに値付けの指標がないからです。

だから、「価値がわからなくて安く売ってしまう」ということもあるし、「無価値なのに高値をふっかけられる」ということが生じます。

講習販売なんかで、おばあちゃん達を小さな部屋に集めて「このすごい羽毛布団が、なんと10万!」といって買われるのは、周りに比べる指標がないからですね。そういうのに気をつけましょうという話もされていました。