先生の心情を知るには祈ること

今朝の御言葉では、先生のために祈る必要性について教えてくださいました。

先生は毎日毎日本当に様々な働きをしながら人を助け、活かし、悩みを解決していますが、それでも悪くいう人がいるし、心情をわからないで自分の好きなことばかり言う人がいて、霊も肉もすり減っているのだと仰いました。

少し大人向けの御言葉でしたね。

私は今でも自分勝手にしてしまうことが多いので先生の心情をわかるにはまだまだほど遠いですが、少し気がつくのは、先生の万物に対する姿勢です。

昨日もキリギリスの話がありました。

キリギリスをとても大事にされて、背中に乗ってきたとか、冬には布団で温めてあげたという話をされましたが、そのようにするのは、とても心情の辛さを感じているからではないかと思います。

そう思うのは、私も経験があるからです。

私は、スズメが好きです。

スズメが好きになったのは、あまりにも人からひどい接し方をされていた時でした。

人間に対して深い考えを持つようになった時に、スズメを見て「万物って完全なんだな」ということを思ったんです。

私がスズメを気に入って接しているので、周りは「あいつどうしたんだ笑」と言いますが、完全な姿を見せる動物を見て癒されてるんです。

御言葉から先生の心情を読み取りたいですね

万物を使って語られる神様

今日の御言葉は、万物を通して話される神様についてでしたね。

今日の聖句は、好きな人も多いこちらです。

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」‭‭ローマ人への手紙‬ ‭1:20‬

私は新入生のころ、聖書を読んでもさっぱりわからなかったけど、この聖句はすぐに覚えました。

子どものころから動物とか虫とかわりと好きだったからです。

動物図鑑を持っていて、なんども同じページを読んでました。

地球上には、本当にたくさんの種類の生き物がいますよね。

それぞれにいろんな性質があります。その性質を通して、神様が様々に働かれています。

あなたは何かメッセージを受けましたか?

私は、今日じゃないのですが、この前ヤモリを見ました。

ヤモリは漢字で書くと「家守」です。人の住むところに棲息していて害虫を食べてくれるので、家を守ってくれると言う意味があるようです。

このヤモリ、虫を食糧としているだけあって、かなりすばしっこい動きをするのですが、普段はとても大人しくて、人が近づいてもほとんど動きません。

手で触っても無反応なことが多いです。

触るとプニっとしますよ。しばらくプニプニしてしまいました。

そういうかわいらしさと、やる時はものすごい勢いでやる姿が人気の秘密なのでしょうね。

このヤモリは聖書にも出てきます。

「やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。」
‭‭箴言‬ ‭30:28‬

「非常に賢いもの」というくだりの中にヤモリが入っているんですね。

私はこの聖句を、「ヤモリは簡単につかまえられるくらい弱い存在だけど、王の宮殿を住処としているから賢い」と読んでいます。

私も、ヤモリのように安心安全な王の宮殿に住んで、害虫を捕まえて王の助けになるような働きがしたいです。

器を大きくするともっと得られる

今朝の御言葉は、「神様が下さろうとする祝福は大きいから、器を準備しなさい」と仰いました。

今のこの時は「苦労の代価」ではなく、「10倍、100倍受ける『しるしの代価』を受けなければならない」と仰いました。

1時間働いて1000円、8時間働いて8000円もらうのではなく、5タラント(約5億円)を預かって商売をして5タラント稼ぎなさい、ということでしょうか。

そのような大きな代価を受けるためには、器を大きくしないといけないと仰いました。

器を大きくするとはどういうことか。

それは視野を広げることだと言います。

今だけを考えて小さなことに感情的になるのではなく、ずっと将来まで見て動いている先生と同じ広い視野を持ちなさい。

そうしたら「しるし」が起こるのだと仰いましたね。

神様はいちいち説明しないで歴史を導く

今朝の御言葉では、心を開けることの必要性について話してくださいました。

自分の考えでは、いくら考えても限界があります。生活の中で起こることも、なぜそうなったのか、さっぱりわからないことがあります。

しかし、神様はいちいち説明しないで人間を導かれます。

なぜなら、人間の低い知能では、いくら説明してもわからないことがあるからです。

この気持ちは、子どもを持つ親御さんならよくわかると思います。

幼い子どもに予防接種を受けさせる時、嫌いな食べ物を食べさせたい時など、いちいち説明して子どもにオッケーをもらってから動くことはしませんね。

そのように、人の知能は神の知能より低い。

だから、心を開けて神様の知恵をもらって判断できるようにしなさい、と仰いました。

私は昨日、仕事帰りにカフェに寄って、賛美を聞きました。

最近、新曲がたくさん出ていますからね。

曲をチェックしたところ、まだ聞いたことのない新しい曲がアップされていました。

『主の体になって実践だ』という曲です。

私は、「先生が作った曲かな?弟子たちが作った曲かな?」と思いながら再生ボタンを押しました。

するとポップなイントロが流れてきたので、私は「弟子が作った曲だ。」と、人間的な判断をしました。

Aメロを聞きながら、(これからどういう展開になっていくだろう、サビはどんなだろうか)と思っていました。

しかし、いつまでたってもBメロになりません。Aメロの次にまた似たようなAメロが入っています。

私は混乱してきました。

(サ、サビは?)

サビが来るだろうことを期待していたのに、結局Aメロが何回も繰り返されて1番が終わりました。

(これ、先生が作った曲や…)

確信しました。

2番が始まりましたが、やっぱりAメロです。

私はカフェで1人、もだえました。

普通、曲の構成といったら「Aメロ→Bメロ→サビ」じゃないですか。90%以上の曲がその構成になっています。それが人間的な次元での常識です。

しかし、先生は「Aメロ→Aメロ→Aメロ→おしまい」だったんです。

いや、もしかしたら「サビ→サビ→サビ」だったのかも?

考えるほどわかりません。

そもそも、Aメロかサビかという判断が適用できません。そういうのが先生の曲です。

本当に先入観を抜いて心を開けないと、先生が作られた100曲覚えるなんて無理ってことを悟りました。

それにしても、先生は「天地創造」とか「風が吹いても揺れはしない」とか壮大な曲を作ったと思ったら、なんか、あえていうと「どう判断して良いかよくわからん」曲を作ったりして、その全てを理解することは果てし無く難しい方だと思いました。

肉体の十字架と精神的な十字架

今朝は十字架についての御言葉でした。

十字架というと、この体が磔にあって死ぬことを考えますが、それよりもっと大きいのが精神的な苦痛だと仰いました。

「精神的に苦痛を感じたことがある人はわかるでしょう?」と言ってましたね。先生は以前「肉体の十字架は一度受けたら終わりだけど、精神的な苦痛は何度も味わうからもっとつらい」とおっしゃったことがあります。

この気持ち、少しでもわかる方はいるのではないでしょうか。「死んだ方がましではないか」そう考えたことがある方は多いはず。

私は、毎日会社に行かなくてはいけないから毎日つらいですね。…その程度じゃ気持ちがわかるとはいえないかな。一応、少し前まではよく「こんななら生まれない方が良かった」ということを思っていました。

肉体の十字架は一度受けたら終わりです。イエス様は、十字架にかかることでその遺産を後世に残しました。

昨日、聖書を読んだのですが、読んだのがこの箇所です。

「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。」‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭9:16-18‬

こうして、イエス様はその言葉を、十字架にかかることで有効にしました。本来の御心ではなかったけれど。

この条件があったので、新約歴史は2000年続きました。遺言の力ってものすごく強いですからね。

しかし、今の時代はそれでは歴史が起こらないのだと、今日の御言葉で仰いました。

なぜなら、子どもは親が亡くなっても遺産で大きく成長することができるが、新婦は新郎なしでは意味がないからです。

だから、先生は死ぬ目にあいながら、一度死んで全てを終わらせるわけにはいきませんでした。続けて精神的な苦痛を受けながら、条件を立ててきました。

そうして、今また会おうとしているわけですね。

そこまでしているから、私たちは前もって準備しなければならない。そういう話なのだと思いますよ。

一対一の愛で導く神様

一対一で接してくださるのが神様の愛だと仰いました。

人によって事情も違うし、個性も違うから、今の段階から一段階上がるために必要なことも、違います。

それぞれに必要なものを、神様は与えてくださるんですね。

だから、自分に与えられている愛がなんなのかを悟りなさい、と仰いました。

私が一段階上がるために必要なもの、それは遊園地に行くことじゃないかなあ。たぶんそうだと思うんだけれども。

箴言は、日曜日にも話された悪癖病「怠慢」について話されました。

一対一だからこそ、人は見ていないし、少し怠けても主は愛で包んでくださると思ってしまうかもしれませんが、そうではありませんね。

行なった通りに報いる神様です。

先生のために祈ることは、あの御言葉とつながっているじゃないか

主のために祈りなさい、と仰いました。

なぜなのか。それは先生が代表だからです。主が勝ってこそ私たちも勝ちます。

昨日の箴言では、「ある問題が迫っている」と先生はおっしゃいました。

その通り、何か良くないことが先生に迫っています。

先生は、その競争に勝たなければなりません。

そのためには、私たちの祈りが必要なのです。私たちが主の手を引っ張り、背中を押す必要があります。

この話は、あの話と通じています。

先生が年始に見た夢、バッタが先生を引っ張る夢の話です。

一年間、毎日思い出さなければならないと言われました。

年始に見た夢の通りに、今は先生が走っています。

今ここで、バッタの力が必要なのです。だからこのような御言葉が出ています。

シナリオ通りに祈らなければなりません!ということを以前も書いた気がする。

あーあ、弟子たちの祈りが足りないから、このままだと先生追いつかれちゃうかもしれないなー。みんなの祈りが、足りないからなー、みんなが祈ったら、夢が実現するんだけど、今のままだとなー。

核の話を核にした御言葉でした。

今朝の御言葉は先生の映像説教でした。やはり先生は月明洞で伝えられている姿が一番気持ちよく伝えられている気がします。

話はエデンから始まって、「核」の話がメインで進んでいきました。

核である先生や月明洞の話をしながら、「核をつかんでこそ全体を掴む、また周りはついていくことができない」と仰いました。

そして、どんなに良いものを得たとしても作りなさいと仰いました。

箴言でも「すべきことが多いから探しなさい」と仰いましたね。

先生は10分も休む時間がないと言います。10分…しょっちゅう休んでるよ。

主日の御言葉でも悪癖について、特に怠けることについてたくさんでていたので、そこからの流れがありますね。

今は「自ら行う」ときですから、どんどん新しい構想を受けて自分からバリバリ働いて飛び回っている人がいる一方で、人から言われないとできなくて怠けてしまう人も多いのかもしれません。良いところは伸ばし、悪癖はうまく切らなければなりません。

そういうこともあって、最近は長所短所の御言葉も多く出ているのかもしれませんね。

箴言の最後には、ある問題が先生に迫ってきているけども、それは大きな問題ではなくて、それより大きな問題は福音を伝えて多くの人たちを神様のところへ連れていくことだと仰いました。

「みんなの引き上げにしか興味がない」という先生の精神を感じますね。

悪い癖は自分を損させる

ココログ

悪い習慣がどれほど損させるかを話してくださいました。

先生がこの御言葉を受けた経緯が、明け方1時から2時間かけて箴言を書き、疲れて横になったら寝てしまい、黄金の時間を逃したというところなのがびっくりでした。

そんなこといったら、明け方の後に二度寝することがなかば暗黙の了解になっている、また毎朝起こすことすらできていない我々はどうなるでしょう。

悪癖は、誰にでもあるということですね。

先日このブログで株の話をしたら「株が習慣になって」とか出てきてビビりました。

こうしたやり取りがあることが楽しいですね。実践してみなければ自分の悪癖に気づけないし、教えてもらわなければ直すことができませんでした。
早速記事を直しました笑

ここで恥ずかしがって主の前に進み出なかったり、頑なになって自分の正当性を主張してしまうとどんどん道を外れて最悪変質してしまいますから、みっともないときでも主と一緒にいる、主が直してくださるということをわからなければなりません。

今日、先生から日本人宛の手紙を受け取りましたが、そこでは「忠誠なだけで愛がわかっていない日本人」と書かれていました。

悪癖を直すことも苦行のように思わないで、主と共に行いたいですね。

悪癖によっていかに損するかは、自分を見てもわかるし、周りの人からも学ぶことがあります。

近所にすぐに怒るおじいちゃんがいることを以前書きましたが、この前、部屋に戻ってきました。

一週間くらい暮らしていたようでしたが、また昨日あたりから静かになってしまいました。

直せないとこのようになる、自分で自分を殺すことを切実に感じてほんと怖くなりました。

まだ70歳くらいだと思いますが、そうとう寿命を縮めているように思います。

先生ほどの目にあって怒らないのはかなりの練達が必要でしょうが、怒って物事を解決しようとする、悪い習慣で今だけやり過ごそうとするところは直さないといけませんね。

疎通の御言葉。愛があるから対話が通じる

疎通の根本について話してくださいました。

「神様との疎通」「主との対話」について以前から話してくださっていますが、今日の御言葉では、疎通しようとばかりするからといって疎通できるのではなくて、愛したら疎通になるのだと仰いました。

これは人間同士でも同じですね。

愛していてこそ対話がしたいと思うのだ。気分が良い時は対話をし、悪い時は主を忘れるのではなく、いつも愛して対話しなさいと仰いました。

これが疎通の根本です。

御言葉はここでいったん中断し、しばらく時間がたって続きの御言葉が伝えられます。

そこでは、主の精神で行うことが疎通だと仰いました。

何をするのだとしても、主を頭にする。

私たちはその時々で行うことが変わり、人によっても様々な考えがありますが、それぞれ考え考えるが御旨ひとつだ。

主から学ぶのはその精神です。

先生の具体的な行ないとしては文章を一日中書いていたり、岩の造形を一日中していたりということになりますが、私たち全員が岩を立てることが御心なのではありません。

今も新しいことをどんどん行なっているし、後世には、今では考えられないことを「先生の精神で」行う人が続出すると思います。そうしなければ古くなります。

主から学ぶのはその精神です。

人がそれぞれ違うことをするのだとしても、「主の精神で」ということは万民に共通していることです。

だからこの時代の御言葉は全世界に広まるわけです。

その共通意識がなくて、見えることだけを意識してしまうと、先生の精神で新しいことをしている人に向かって「そんなことやって、それは御心なのか」と問いただすことになってしまいます。

どんな時も主を頭の中から抜かないこと、それが勝利だと仰いました。