考えと実際は違う

今朝は実践の御言葉でした。神様な許諾は得ていても実践すると大変なこともあるんだ、と仰いました。

「理論と実践は違う」という先生の御言葉や「口には甘いが腹には苦かった」という黙示録の聖句を思い出させる内容でしたね。

たとえば、今は聖殿の祝福は与えられてはいますが、これは祈っているだけでもらえるものではありません。

実践して、不動産のプロと交渉して、良い条件で、何の問題もないように、契約を結ばなければならないんです。

その実践は、大変だよ。

今までただ霊的なことだけを考えてきた私たち摂理人にとって、いきなり不動産の知識が必要とか、なかなかハードル高いよね。

私もこうなる可能性について全く考えていなかったので、使命者が頑張ってくれるのをボンヤリ待ってるしかありません。

前もってやらないとこうなってしまいます。

よくよく考えれば、先生は今は狭い部屋にいるのだとしても、続けて月明洞を開発されていたわけで、先生が今の場所を出てこられてからは最高の環境で御言葉を伝えることはわかっていたことでした。

ずっと、環境の祝福というのは準備されていたわけです。

私たちが気づかなかっただけで。

それを私たちは「月明洞で新しい岩が建った」「今日はこんな新しいことが起きた」「月明洞なう」という目に見えることにばかり気を取られて、自分たちが本来何を準備するべきだったのかについて考えることを疎かにしていました。

いろいろな角度から見ないとダメですね。

今朝の御言葉では、たとえ実践してうまくいかなくても神様は喜ばれる、と仰いました。

これは私も感じることがあります。「心と思いと命を尽くしていること」を神様は喜ばれます。

御言葉を聞いていざ実践しようとすると、「何をもって神様は喜ばれるのか」、「何が御心なのか」がわからなくなることはありませんか?

「伝道したら喜ばれる」というマニュアルはあるにしても、それだけではなさそう、というのを御言葉を聞いているとなんとなく感じることがあります。

「新しくしなさい」が御心なのだとしても「何を?」って思うこともあるかもしれません。

「もっと具体的に教えてくれよ」と感じている人が摂理にも少しいることを感じます。けっこう抽象的に仰ることがあるので。

ただ、具体的な指示を出してそれを遂行する、となると、それは奴隷なんですよね。

新郎新婦の関係ではなくなります。また、具体的な話は、今は良いのだとしても後世の人が理解できなくなってしまいます。それも愛ですね。

先生は「曲を一緒に作ろう」と言って歌って見せて弟子たちが編曲する、ということをされますが、そのように一緒にやるのが好きだから、先生が御言葉をされ、それを聞いた私たちがどう受けてどう実践するかは自由意志にかかっています。

だから、先生が一生懸命御言葉を伝えているから、私たちが一生懸命実践しようとすると喜ばれるんですね。

そういう授受作用が、愛の世界です。

だから、たった2レプタしか持っていないのだとしても、それを神様のために使うと神様は喜ばれます。

一生懸命やっていると、神様が反応して、だんだん状況が良くなっていきます。

本当だよ。

最初は「そんなことやってないでもっとためになることをしろ」と人から言われることだとしても、バカみたいに熱心にやっているうちに状況が変わってきて、ついに最後までやると、それは「御心」になる、そんな気がしてます。

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