今、外で朝ごはんを食べています。
定食屋さんですが、とても空いています。
お客さんは、子どもを連れたママさん友だち数人だけ。
ずいぶん賑やかに話しているので聞こえてくるのですが、話しの内容が神霊すぎます。
「御言葉が…」
「いつも感謝で…」
「お迎えする…」
「聖霊様の…」
「チョウンさんが…」
身内かーい。
他教会の方のようです。これから集まりがあるので待ち合わせしておしゃべりしてたみたいです。
話しかけた方がいいのかな。イヤだよ。
それにしても、私たちがこのように平和に集まって生活できるのも、先生が十字架にかかられたからですね。
今朝の御言葉は十字架についてでした。
十字架がなければ私たちは自分がすべきことができませんでした。
なぜなら、罪に縛られていたからです。
十字架によって、罪の縄目がほどかれました。
十字架が無かったらどうなっていたかというと、今も私たちは追われていたと思います。
それに対して私たちは一生懸命対策を練ったり、問い詰められたら戦ったり、あるいは目立たないように生活したりして、大変だったろうと思います。
とても「実践」なんてしてる場合ではなく、前もってやっている余裕などあるわけもなく、目の前のことでいっぱいいっぱいだったはずです。
それを、十字架で全部先生が背負って行ってしまったんですね。
これは摂理の大先輩から聞いたことですが、罪の中でいつまでも「やった」「やられた」「やり返した」をぐるぐると繰り返していた、その歯車が十字架によって外されました。
そのため、私たちは世の中の誰よりも自由であり、大きな祝福を受けています。
だから感謝なんです。
これからの時代は、私たちから先生に近づいていかなければならないと言われています。
なぜなら、先生がすべきことは全てしたからです。
また、もっと具体的なことを言うと、先生は十字架にかかっていろんな風評をご自身で受けましたので、先生から弟子たちに近づくと「あ、またなんかいかがわしいことをしようとしている!」といわれるリスクがとても大きいんです。
そのため、近づきたくても簡単には近づけません。
先生だからそういうのは気にしないかもしれませんが、仮に先生が「やあ」みたいな楽な雰囲気で接してくれるとしても、それは大きな危険を覚悟してのことです。
だから、先生を楽にするためには新婦たちから近づいていかなけばいけないんです。
私たちから近づいて、愛していることを表明しないと、先に進まないし、また先生が十字架にかかってしまうおそれすらあります。
「自ら行う」という御言葉にはそういう事情もあるのかもしれません。