今日も位置についての御言葉でした。
エステル記を引用してのたとえでしたね。
エステル記の面白いところは、男性のモデルとしてのモルデカイと反面教師のハマン、女性のモデルとしてのエステルと反面教師のワシテによって物語ができているところです。
この前、このブログでモルデカイとハマンの話を書きましたが、今日の御言葉ではエステルを中心にして話がされました。
だってエステル記の主人公はエステルだもの。
エステルは異邦人ながら王に嫁いだシンデレラです。
モルデカイに大事に育てられたことで、肩書きはなかったけど育ちは良かった。そのことが王の目に止まったんですね。
おめでとー。
自分はラッキーなことにお姫様になりましたが、同じユダヤ民族のみんなは変わらず庶民生活を送っていました。
その上、大臣のハマンがユダヤ人を殺す法律を作ってしまい、大ピンチになります。(すいません、軽いんで正確には聖書よんでね。)
そこでエステルは意を決して、王に法律を取り下げるよう直談判することにします。
これは、今のようにネットでDMを送るとか、お客様相談口に電話するとかそういう簡単な話ではありません。
当時は、王の言ったことに逆らうことは死を意味していました。
だから、エステルはもしかしたら死ぬかもしれない状況でした。
でも、エステルは逃げなかった。
「死ななければならないのなら、死にます。」
そう決心して、しばらく断食したのち、王しか入ってはならない内庭に入って、王に謁見します。
法律通りなら、ここでエステルは殺されなければなりません。
しかし、王の態度は違いました。
王「何か困ってることがあるの?」
ビックリですね。こんなしるしがあるとは。
エステルはここで安心してしまいまして、「やっぱ王様めっちゃいいやつ、イケメン!そんでさー、あの法律取り下げてほしいんだけど。ね、お願い!」
とは言いません。
「王のためにパーティを開きたいので、ご同席いただけませんか?」と言いました。
王は快く許諾しました。
そうして宴会を開くんです。
しかも、そのあともう一回開きます。
そうして大臣の悪だくみが明るみに出て、ユダヤ人の命は救われましたとさ。
つまり、ここまで自分を空にしないといけないということですね。
そうすると、人間的には考えられないしるしが起こります。
しるしについて、箴言でも「ポートディクソンのようなしるしをまた見る」と仰っています。
どんなしるしが起きるでしょうか。