1タラントでもう1タラントを稼ぐためには本当に熱心にやらなければならない

神様は誰にでも才能を与えたから、熱心にやりなさいと仰いました。

タラントの比喩は水曜礼拝の聖句でも出ました。

1タラントは今の価値でいうとざっくり1億円くらいなので(1タラント=6000デナリ=6000日分の給料)、1タラントを預かった人も相当額を預かったことになります。

それだけ価値のあるのが個性だということですね。

それを使いなさい、開発しなさいと仰いました。

聖書の比喩では、5タラントと2タラントを預かった人は、商売をして他に5タラント、2タラントを儲けます。

これは今の言葉に言い換えるなら、「ある実業家は5億の融資を受けてスタートアップを立ち上げ、他に5億を儲けた。」ということです。

5億を借り入れて、営業利益5億です。

成長率100%。

普通にやってたらできません。それだけ大変なことだということだし、はっきりわかって行わないといけないことです。

私だったら赤字にしてしまうかもしれません。

私「ご主人様、あなたは私に2億をお預けになりました。それで商売をしましたが、あまりうまくいきませんでした。ご覧ください、ここに1億2千万円ございます。」

主「…」

私たちは、日々の生活費を稼ぐために毎日8時間以上働いています。タラントを増やすのはもッと熱心にやらなければならないということです。

聖書の比喩で、1タラントを預かったものは土に埋め、それに対して貸主が怒ってお金を取り上げてしまいます。

これは今の言葉で例えるなら、1億を預かって全部土の中に隠しておいたということです。

貸主さんは「銀行にでも預けておけばよかったのに」と言いますが、当時から金融という概念があったことは確かですが、そうした財テクすら使わず土に埋めてしまいました。

今の日本の銀行は異常な低金利が続いていますが、過去には年利1〜2%の時がありました。海外には今も5〜10%も金利がつく国もありますね。
だから銀行に預けておけば、1億円の1%だとしても年に100万円手に入ることになります。

1タラントを隠した人が怒られるのも無理もないかもしれません。

自分の才能を見つけ、知恵を持って使って多くのもの得、主に報告したいですね。

地上天国をなすためには自分をなくすこと

地上天国をなすためには自分を捨てることだと仰いました。

自分ばかりを主張するのではなくて、相手のことを考え、兄弟のことを考え、天のことを考えなさい。

そうしてこそ和睦、地上天国だと仰いました。

昨日のエステルのたとえで話された御言葉でもありましたが、自分を捨てる決心をしてこそ、大きなものを得ることができます。

聖句にも、また賛美にも「種が地に落ちてこそ黄金の野原になる」とありますね。

ただ、一点気をつけたいのは、相手に気遣いすぎて自分を安売りしてはいけないということです。

これは私がものすごくたくさん経験していることで、また同じ悩みを持っている方がとても多いことを感じることでもあります。

なぜなら、日本人は基本的に謙遜で、相手を立てて自分を低くすることが得意だからです。そういう文化です。

これは本当に残念で、自殺率が高いのも日本人のこういう性質のせいだと思うのですが、自分の価値をはっきり分かった上で、相手を思いやらなければなりません。

「自分の価値を悟りなさい」御言葉で何回もおっしゃっていることです。

自分を空にして、自分の位置を守る

今日も位置についての御言葉でした。

エステル記を引用してのたとえでしたね。

エステル記の面白いところは、男性のモデルとしてのモルデカイと反面教師のハマン、女性のモデルとしてのエステルと反面教師のワシテによって物語ができているところです。

この前、このブログでモルデカイとハマンの話を書きましたが、今日の御言葉ではエステルを中心にして話がされました。

だってエステル記の主人公はエステルだもの。

エステルは異邦人ながら王に嫁いだシンデレラです。

モルデカイに大事に育てられたことで、肩書きはなかったけど育ちは良かった。そのことが王の目に止まったんですね。

おめでとー。

自分はラッキーなことにお姫様になりましたが、同じユダヤ民族のみんなは変わらず庶民生活を送っていました。

その上、大臣のハマンがユダヤ人を殺す法律を作ってしまい、大ピンチになります。(すいません、軽いんで正確には聖書よんでね。)

そこでエステルは意を決して、王に法律を取り下げるよう直談判することにします。

これは、今のようにネットでDMを送るとか、お客様相談口に電話するとかそういう簡単な話ではありません。

当時は、王の言ったことに逆らうことは死を意味していました。

だから、エステルはもしかしたら死ぬかもしれない状況でした。

でも、エステルは逃げなかった。

「死ななければならないのなら、死にます。」

そう決心して、しばらく断食したのち、王しか入ってはならない内庭に入って、王に謁見します。

法律通りなら、ここでエステルは殺されなければなりません。

しかし、王の態度は違いました。

王「何か困ってることがあるの?」

ビックリですね。こんなしるしがあるとは。

エステルはここで安心してしまいまして、「やっぱ王様めっちゃいいやつ、イケメン!そんでさー、あの法律取り下げてほしいんだけど。ね、お願い!」

とは言いません。

「王のためにパーティを開きたいので、ご同席いただけませんか?」と言いました。

王は快く許諾しました。

そうして宴会を開くんです。

しかも、そのあともう一回開きます。

そうして大臣の悪だくみが明るみに出て、ユダヤ人の命は救われましたとさ。

つまり、ここまで自分を空にしないといけないということですね。

そうすると、人間的には考えられないしるしが起こります。

しるしについて、箴言でも「ポートディクソンのようなしるしをまた見る」と仰っています。

どんなしるしが起きるでしょうか。

満ち潮が止まることはあるのか

しるしなのかわからないけど、証した方が良いと思ったので書きます。

「これはっ」と思ったのは、以下のニュースです。

アリューシャン列島震源の地震 多少の潮位変化も

今週の御言葉でモンサンポやポートディクソンでの満ち潮が止まった奇跡について話がありました。

私はこの話を何回聞いても実感がわかなかったとこのブログでも書きましたが、その理由の1つは「満ち潮が止まるなんてこと、あるの?」という疑問があったからです。

潮の満ち引きは地球、月、太陽の重力によって起こっていることですから、ついさっきまで迫っていた満ち潮が止まるというのは、月が公転をやめたかなんかしないと科学的には起こらないように思えます。

または、BSの「日よ止まれ」で「太陽が止まったわけではない」と習ったように、本当は満ち潮が止まったのではなくて、先生と弟子たちが御言葉に集中していたから時間があまりたたなかったのかもしれない。

そんなことを考えていました。

そこへ、先に引用したニュースを読んじまったものだから、この時に証しないでいつ証するの?

記事によると、「今朝、アリューシャン列島付近で地震が起きました。これによって、夜にかけて20cm程度潮位が変化する可能性がある。」とのことです。

つまり、満ち潮によってどんどん高くなっていく潮位が、地震によって相殺される、ということもありえるのかもしれません。

そのように思いました。

もしそうだとして、ではなぜ地震がポートディクソン沖で起きたのか。それはわかりません。

おやすみ。

自分にとって最高のものは自分ではわからないこともある

位置についての御言葉でした。

「位置が大事だ」という先生の歌も発表されましたね。

私たちはよく「これが一番自分に良い」と思ってモノを買ったり、専攻を決めたり、仕事を選んだり、人を選んだりしますが、それが本当に自分にとって最高の位置なのかどうかは、人間的にはわかりません。

特に今は新しくする時なので、新しいことをすると経験もないぶん、何をどうしたら良いのかわからなくなってしまうこともあります。

何かを作ろうとして、目にあたる部分を足につけてしまって変な作品ができてしまったり、岩を横に並べるところを立ててしまって崩れたり、そんなことをよくしています。

だから「自分を一番良い位置に導いてください、と祈りなさい」とおっしゃいました。

そして、その位置の話から、先生の位置についても話してくださいました。

先生は、あなたの隣にいるのだということです。

これがわかれば、行ないも霊も大きく変わるのだとおっしゃいました。

箴言でも実践について話してくださっています。

はじめは微弱だが後では大きくなると仰いました。

教会を買うことも、今ばかりを見ないで将来を見ることを話されていました。

長所と短所の話もされましたし、ベーカリーには6/28水曜礼拝の御言葉「<大変なこと>ばかり考えないで、<よいこと>を考えなさい」も更新されて新着に上がってます。

私の個人的な体感では、今までほんとに摂理的に大変な状態が続いたせいか、少しくらい大変でもあまりへこたれなくはなりました。

これ自体は良いことなのですが、この良くないところは、「大変でもなんとかやれる」という気持ちが、もっと良いことに対する目を塞いでしまうことです。

たとえるなら、慢性的にひどい肩こりが続いたせいで、肩が凝っていることをなんとも思わなくなってしまっているような、そんな感じです。

自分の最高の位置ってなんだろ。マジでわからん。祈らないと。

行なった通りに報われるという御言葉でした

今日は、祝日でいいんですよね。

摂理を走っていると祝日なのか平日なのかよくわかりません。

似たようなものです。

結局、人生は実践した者が勝つようになってますから、休日だからという理由で何もしないでいると将来に後悔してしまいます。

だからと言って私は今日何をするのか、まだちゃんと計画が立てられてませんが。

今朝の御言葉でも行なった通りに報いることについて話されました。

話の流れとしては、「惑わされるな」という話から具体的な悪い例を話されて、そこから裁きの話になって、「行なった通りに報いられる」という話になっています。

昨日も「証をするともっとしるしが起こる」とおっしゃいました。

だから私達は、たくさん行なってしるしをさらに起こす竜巻野郎になるべきです。

しかし、なかなか自ら行うことが難しい状況が今もあることを感じます。

今朝の明け方は私のチームが担当でしたが、直前までお互い譲りあっちゃったり忙しいと言って決まりませんでした。

前日に(この流れ、わいがやることになりそうやな)と思っていたのがそうなってしまって少し残念でした。

直前までああでもないこうでもないとやっていたから、準備を十分にできないまま前に立ってしまいました。

私は古い人だから若い人がやったらいいんだけど。

今週はしるしを証する週だし、これからも人前で話す機会はどんどん増えていくだろうから、前もって慣れておく必要があるように思います。

私ももとは人前で話すことが全くできない人でしたが、聖歌隊をやったり明け方に前に出ているうちに少しずつ慣れてきました。

本当は礼拝の引導もやったらいいのかもしれませんが、準備に時間がかかるからヤダ。

今はやらなきゃいけないことがあります。

とにかく、たくさん実践して竜巻野郎にならなきゃいけないということです。

嬉しいしるしもありました。

先日、「求めなさい」と御言葉で言われた時に「チョウンさんの過去の御言葉を聞いて感覚を戻したい」と思ったのですが、とても探しやすくなっていました!

もともと私の探し方が下手なだけだったのかもしれませんが、ベーカリーの「日本国内行事での御言葉」にたくさん上がっています。

感覚を戻したい人は必聴ですよ。という証。

神様のしるしを証するともっとしるしが起こる

神様が行なったしるしを見つけなさいとおっしゃいました。

礼拝の後に御言葉の時間がありましたが、そこでは魂を使うことについて話されました。

生活の中で起こる出来事について、ただ見るだけではどういう意味があるのかわかりませんが、考えて魂を使ってこそ、そこに働かれている神様がわかるようになります。

そのしるしを証しなさいともおっしゃいました。

すると、しるしがしるしを呼ぶのだとおっしゃいました。

たくさんしるしを見つけて、たくさん証し、さらにたくさんのしるしを起こす、しるしの竜巻野郎になりたいですね。

先生のしるしエピソードでは、ポートディクソン海岸の満ち潮が止まったことについて話してくださいました。

なんども聞いている話なんですが、スケールがでかすぎて、ぶっちゃけ実感がわきません笑笑

それでかどうかはわかりませんが、礼拝後の御言葉の時間には、当時の写真や映像を見せてもらいました。

先生が「ここまで潮が満ちたら御言葉をやめよう」と言ってスコップを砂浜にさした、その場所まで潮が満ちなかったといいます。

それで、少し実感が湧きました。

写真では、砂浜に刺さったスコップと木の棒の後ろに夕日が赤々と燃えていました。

それを見た先生は「何かが起こるのだ」と感じたそうです。

そうして起きたのが、9.11の同時多発テロでした。

この話を聞いて、私はさっきまでわかりかけてたつもりでしたが、またさらにスケールがでかくなったためにわからなくなりました笑

科学には「バタフライ効果」と呼ばれるものがあって、たとえばブラジルの蝶が羽ばたいたその風が、将来テキサスの竜巻を起こす可能性があるっていうんですけど、そういう関係があるのかもしれません。

先生の証は大きすぎてはっきりわかるのは簡単ではありませんね。そのためにも、私たちの周りで起こる小さなしるしを証しなければいけません。

私の身の回りで起こるしるし、ではないんですが、とても気になるのがスズメのことです。

私はスズメが好きですが、最近、このスズメが車にひかれるのを見てしまったんですよ。

その時、私は自転車に乗っていました。スズメが車道のど真ん中で地面をつついているので、ビックリさせないように避けて通りました。

その直後、後ろからやってきた車にはねられました。

10分後、その道をまた通ったら死骸は無くなっていました。

なぜ無くなったのかわかりませんでしたが、後日、カラスが動物の死骸を咥えて飛び立つのを見ました。それで「はねられたスズメもカラスの餌になった」ことがわかりました。

知ったのは、朝はスズメも寝ぼけているということです。

動きが鈍いです。だから、あの時私が自転車でスズメを追い払っていたらひかれなかったなあ、とすごく後悔しました。

様々なことで、こういうことが起こりえるから気をつけようと思いました。

スズメが好きでない人にはどうでもいい話ですね。

私にとっては真剣なしるしでした。

ちなみに、ポートディクソンはマレーシアのリゾート地です。

リゾート地でバレーボールか、いいですね。先生が出てこられたら、そういうことがまたできるでしょうか。それか、もっとおおきなことになるかもしれませんね。

楽しみです。

十字架によって自由になること

今、外で朝ごはんを食べています。

定食屋さんですが、とても空いています。

お客さんは、子どもを連れたママさん友だち数人だけ。

ずいぶん賑やかに話しているので聞こえてくるのですが、話しの内容が神霊すぎます。

「御言葉が…」

「いつも感謝で…」

「お迎えする…」

「聖霊様の…」

「チョウンさんが…」

身内かーい。

他教会の方のようです。これから集まりがあるので待ち合わせしておしゃべりしてたみたいです。

話しかけた方がいいのかな。イヤだよ。

それにしても、私たちがこのように平和に集まって生活できるのも、先生が十字架にかかられたからですね。

今朝の御言葉は十字架についてでした。

十字架がなければ私たちは自分がすべきことができませんでした。

なぜなら、罪に縛られていたからです。

十字架によって、罪の縄目がほどかれました。

十字架が無かったらどうなっていたかというと、今も私たちは追われていたと思います。

それに対して私たちは一生懸命対策を練ったり、問い詰められたら戦ったり、あるいは目立たないように生活したりして、大変だったろうと思います。

とても「実践」なんてしてる場合ではなく、前もってやっている余裕などあるわけもなく、目の前のことでいっぱいいっぱいだったはずです。

それを、十字架で全部先生が背負って行ってしまったんですね。

これは摂理の大先輩から聞いたことですが、罪の中でいつまでも「やった」「やられた」「やり返した」をぐるぐると繰り返していた、その歯車が十字架によって外されました。

そのため、私たちは世の中の誰よりも自由であり、大きな祝福を受けています。

だから感謝なんです。

これからの時代は、私たちから先生に近づいていかなければならないと言われています。

なぜなら、先生がすべきことは全てしたからです。

また、もっと具体的なことを言うと、先生は十字架にかかっていろんな風評をご自身で受けましたので、先生から弟子たちに近づくと「あ、またなんかいかがわしいことをしようとしている!」といわれるリスクがとても大きいんです。

そのため、近づきたくても簡単には近づけません。

先生だからそういうのは気にしないかもしれませんが、仮に先生が「やあ」みたいな楽な雰囲気で接してくれるとしても、それは大きな危険を覚悟してのことです。

だから、先生を楽にするためには新婦たちから近づいていかなけばいけないんです。

私たちから近づいて、愛していることを表明しないと、先に進まないし、また先生が十字架にかかってしまうおそれすらあります。

「自ら行う」という御言葉にはそういう事情もあるのかもしれません。

行なった通りに報いる神様

行なった通りに報いてくださる神様を正確に知りなさいとおっしゃいました。

人の目に見えるところで頑張る人は多いけど、神様は人の心を見るのだとおっしゃいました。そして今、隠れた忠誠者が多いんだとおっしゃいましたね。

思い出したのは旧約聖書のエステル記です。

ちょっと時間がないので読み返さないで記憶だけで書きますが、アハシュエロス王の時代、王に仕えていたハマンというおっさんは処世術に長けた人でした。

王の機嫌をとることがうまくて大臣に起用されますが、ハマンは人からどう見えるかしか頭にない人で、いつも自分がどういう功績を王にして差し上げたのかを家族に自慢していました。

ところが、そんなハマンに対して礼のない行いをする人が現れるんですね。

それがエステルの養育者、モルデカイでした。

モルデカイは、王の暗殺を企てる人を暴いて王の命を救ったことがある人です。王はその功績を記録するんですが、そのあとしばらく忘れちゃいます。

そのモルデカイは、ハマンがどういう人かわかっていました。それで、たとえ会ってもあいさつもしなかったそうです。

カッチーン。ハマンはガチでキレました。

(大臣の俺に挨拶すらしないとかあいつナメてんな。ふーん、モルデカイってユダヤ人なんだあ。よしよし。)

ということで策略を巡らして、ユダヤ人を殺す法律を作るよう工作します。

そしてモルデカイを殺すための十字架を作るのですが、策略がバレてしまいます。

王は、ハマンが自分の命を救った人をはめるための法律を作ろうとしていたことを知って怒り、ハマンをその十字架につけてしまいました。

こうして、ハマンも自分の行なった通りに報いられ、モルデカイも王の命を救ったように自分の命も救われました。

めでたしめでたし。

あ、エステル記なのにエステルのこと書かなかった。正しくは聖書でご確認ください。

時間も神も流れていくもの

今朝の御言葉では、神は時間だと仰いました。

一箇所にとどまっているのではなく、生きている神だから動かれているんですね。

小さく見れば、太陽が続けて動くように神様も動いています。

私は昼休みは外の日陰でスマホをいじっていることが多いですが、集中しているといつのまにか日陰が移っていて暑い思いをすることがあります。

時間を大きく見れば時代です。神様は時代ごとに働きかけてこられました。

昨日は香港巡回の映像を見ましたが、そこでも時について話されていました。

それは、最後のひと時だということです。「宴会をする」ひと時だと仰いました。

宴会、祭ですね。

昔の日本では「祭」と「祀る」は同じ意味でした。

さらに「政(まつりごと)」も元は同じらしいです。

だから祭と宗教と政治って元は同じなんですよね。

今は政教分離がされてるから別々にやってますが、やっぱり限界があるように思います。

今の祭やフェス、イベントは盛り上がるけどいっとき騒ぐだけのものになってしまっているし、政治は混迷を極めているし、宗教は誰も受け入れない。

先生が出てこられたら、そういうところも正していくような気がします。というか期待。

夏祭の季節ですね。昔めっちゃ楽しかったな。