伝道者とエバンジェリスト

伝道に関する御言葉でした。

つい笑ってしまったのが、「あなたで終われば希望がない。あなただけが主と聖三位を迎えるなら、それが何の希望なのか。」という箇所です。

昨日の御言葉でも、つたてえくださった方が「私が努力して得たものの中で、主と共に享受できるものはありますか?」と聞いたそうですが、もう個人が「何かをもらう」ための信仰の時代は終わりなんだということを感じました。

主のために何かをして、それをみんなで共有する、というのが今の考え方なんだなあと思います。

昨日もブログに書きましたが、今は個人が尊重される時代です。

YouTubeやmixchannel、showroomといった自分をアピールできる場が今は整えられていて、それぞれがそれぞれのメッセージを発信しています。

影響力の強い配信者は「インフルエンサー」と呼ばれたりします。

これは語源が「インフルエンザ」と同じで「影響力が強い」という意味を表しています。

聖書には、パウロが「お前は疫病のような人だ」と言われたことが書かれていますが、パウロは今で言うインフルエンサーだったんですね。

また、特にIT企業では、企業のメッセージを伝える広報の人のことを「エバンジェリスト」と呼ぶことが多くなりました。

エバンジェリストの元は、そのまま「Evangelism(伝道)」ですから、彼らは伝道者なんですね。伝えているのは福音ではなく企業の宣伝ですが。

「伝道」というと私たちの頭の中に浮かんでくるのはキリスト教の宣教師たちです。

聖書を片手に、裾の長い黒い服を着て、穏やかに話している。そして頭には輪っかがキラキラ光っていたり後光がさしていたりする。

中には頭がハゲている人もいて、「伝道するとハゲるのかな」と思う人がいるとかいないとか。

そういうイメージが今もあるから、キリスト教の多くは今も各家を訪問して聖書を配ったり、わざと昔の言葉遣いを使って説教をして権威を見せようとしています。

しかし、そのやり方に固執する必要はない、というかもしかしたらもう古いものになっている可能性があります。

「伝道者」も「エバンジェリスト」も意味は同じだけど、イメージがずいぶん違いますね。

昔のやり方で、おじいちゃんが各家を回って伝える福音よりも、今は若い女の子がshowroomでぐだくだ話しながら「これ使ってみた」と紹介した商品の方が受け入れられます。ばかばか売れるそうですね。

何がいいのかわからないけど、そういう時代です。昨日も書きましたが、私の職場にもそういう子がいて、推しのアイドルのCDを20枚買うとか、友だちに頼んでライブのチケットの抽選開始から予約を入れまくるということを普通ににします。

「Googleのエバンジェリスト」というとめっちゃかっこいいですが、これはもともと「福音の伝道者」が核として真似しでできたものです。

なのに、やり方だけ真似した彼らだけがカッコよくて、福音を伝える人はなんかうさんくさい。これはちょっと癪に触ります。本家本元はこっちなんだから。

核をわかって、あたらしくおこなっていきたいですね。

ちなみに、これは私の予想ですが、御言葉をうまく証できる力を付けると、ビジネスで成功するのはかなり簡単かもしれません。

これからの時代は自分を作ることが霊的にも肉的にも大事

自分を作ることについての御言葉でした。

御言葉を伝えてくださった方は「自分が努力して得たものの中で、主と享受できるものはありますか?」と聞いたのだそうです。

新婦だと思いました。ただ「ください」というだけでなく、自分が得たものを主と共有したいという姿勢が必要ですね。

月曜の映像説教でも「あなたのものは神様のものでもあるから求めなさい」とおっしゃいましたが、自分が得たものを主のものとして、全体が使うようになるのが一番理想的です。

その質問の答えは「自分を作ること」でした。

崖の上に育った希少種の松ように、また激しい艱難の中で育った摂理史のように自分を作りなさいとおっしゃいました。

自分が作られた時に得られる利益はどんなものとも比べられないといいます。

今、世界的に人の価値が大きく見直されている時です。

先進国ならどこでも「全ての人の基本的人権を尊重しよう」という認識がありますが、今はさらにそこから進んできています。

個人個人が自分をプロデュースする時代になってきていますね。

今までは、個性は捨てて、企業の中で粉骨砕身の覚悟で働き、その努力で何かの商品を作って利益を得る、というのが一般的でした。

今は個人がどんどん前に出てきています。その媒体としてSNSを使ったり、YouTubeを使ったり、最近はミックスチャンネルやショールームといったアプリで自分を押し出す人が多くなりました(みんな若い女の子ばっかりだけどな)

男性向けには、自分を上場できるVALUというサービスが熱いです。

そうしたところで自分が自分をプロデュースして、応援する人が何人もつきます。

そうしたファンは応援している人が勧めるものを買う、という流れができてきています。

今の若い子の何割かは、こうした「推し」が行動の基準になっているそうです。私の職場にもいます。

昔のように、会社の規則に黙ってついていってせっせ商品を作っていれば売れる時代はだんだん古いものになっていくかもしれませんね。

それだけ個人が尊重される時代だから、自分を作ること、というのが一番重要なんですね。

逆にいうと、自分を作らないでは世の中でも成功しにくい世の中になっていくように思います。

最近の子供の夢のランキングには「ユーチューバー」が入ってくるそうですが、自分を作らないでYouTubeデビューしたらガッカリする結果になるのは目に見えています。

自分を作ることが大事、そしてそれをするには、御言葉が必要です。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」についての御言葉でした

今朝は求めることについての御言葉でした。

摂理の弱さは求めることだ、私たちのものは神様のものでもあるから、迷惑だと思わないで求めなさい、とおっしゃいました。

数年前の日本巡回の御言葉が聞きたいよ。他にもたくさん求めることあるよ。

御言葉では日本人のことについて話が出ていましたね。

人の迷惑にならないようにとよく考える国なんだとおっしゃいました。

ぶっちゃけ心の中では何考えているかわからないし、私も外を歩けば上から目線の人に会いすぎて疲れていますが、世界的にみたら周りに気遣う民族なのだと思います。

箴言では、今週一週間「よく考えること」について教えてくださいました。

考えてこそ答えが出る。

これは「考える」ということが「求める」ということにも繋がってきますね。

三位を考えない時間は愛が死んだ時間なのだともおっしゃいました。

「見たから忘れるな」「忘れたら死ぬ」ですね。

ちなみに、教会の文書室のパソコンには「電源を消し 忘れたら死ぬ」と書いてあり、電気のスイッチには「消し 忘れたら死ぬ」と書いてあります。まだ死にたくない。

箴言ですが、体が行った通りに見えるように、考えは考えた通りに、三位に行動として見えるともおっしゃいました。

義も罪も考えた通りに区分され、集中するとフィーリングが来るんだってさ。

脳の愛の世界です。

先生は求めてから10年20年たってかなったこともあるそうだから、諦めずに求めていきたいですね。

御言葉は台湾からの中継でした

今日は台湾からの中継をつないで御言葉を聞きました。

広告ではアメリカメンバーについてのものもあり、摂理がいろいろ世界的に広がっていることを感じますね。

まずびっくりしたのが、通訳を1人でやっていたことです。

中国語と韓国語と日本語の通訳を1人でやっていたよ。しかも同時通訳。さらに御言葉長かったよ。

彼女すげーって思いました。

台湾は人口は日本より少ないのにメンバーの数は多いです。

中継を見て感じたのは、台湾はかつてのイスラエルと似ているところがあるということです。

昔、中国大陸で毛沢東と蒋介石が喧嘩して、蒋介石の一派が負けて逃れた先が台湾でした。

香港摂理も熱いらしいですが、それは故郷というものに強い憧憬があるからなのだろうと感じました。

これは韓国も同じですね。北朝鮮との統一を切に願っています。

それに比べると日本は、そういうハンがありませんね。

「カナン?ここがカナンじゃ!我が家が一番。」

こんな感じなので、聖書の中の民族的な話をしてもあまり響かないのかもしれません。良くも悪くも危機感がないというか。

日本摂理を盛り上げるには、民族的な歴史やハンの話だけでは爆発力に欠けるかも、と思いました。

それより、御言葉でも何回も繰り返されていた言葉「宴会」について突き詰める方が良いかな。日本人は楽しいことが大好きだし。

そんなことを考えました。

ちなみに、蒋介石が台湾に逃げる際、大陸の歴史的な宝物をごっそり持っていってしまったそうです。それを整理してできたのが「国立故宮博物院」。御言葉によく出てくる「高麗青磁」級のお宝がたくさん飾ってあります。

そして、実は韓半島の宝の多くは北朝鮮にあるという話も聞いたことがあります。

1つになることで進むことはかなり大きいぞ。

なにより、そういった各国によって状況が異なるにもかかわらず、聞いている御言葉は同じだということがすごいです。

今日は「見たから忘れるな」とおっしゃいました。

台湾に向けて「今日と昨日の宴会を忘れるな」というメッセージでもあったし、引き上げの価値を体験したことを忘れるなという世界のメンバーへのメッセージでもありましたね。

感覚を忘れてはいけないんだということを、改めて感じました。

台湾の巡回を通して、私は日本の巡回のことも思い出しましたが、数年前の巡回でおっしゃっていたことも「感覚」についてでした。

だから当時の御言葉を探したんですが映像が見つからない笑

あの、桜満開の中で伝えられた御言葉をもう一度見たいな。

ともかく、あの時の温かい感覚を忘れずに、そして、今日の礼拝で受けた感動を忘れずに生活していきたいですね。

ちなみに、チョウンさんが歌っていた「彼女に会う100m前」動画探したら出てきた笑

妄想が爆発しています笑笑

私はこういうシーンでは頭真っ白になってしまい無愛想になるタイプです笑笑。

調べると、この曲はいろんなグループがカバーしているようですので、韓国では国民的な歌謡曲ぽいです。日本の「上を向いて歩こう」のような。

動画で審査員のように映っている丸メガネのおじさんが原曲を歌った方かな。

ついでに、御言葉で「台湾のファリョンって言われただけでは外国の人はわからないでしょう?見てこそわかります。」も探したら見つけました。俺はヒマか?ヒマではない。やるべきことがあるがやれていないだけだ。朝会と同じだ。

台湾の「花蓮県(かれんけん、ファーリエンけん)」には、台湾随一の絶景スポットである「太魯閣(タロコ)国立公園」があります。


TAIPEI NAVI


TAIPEI NAVI


Instagram

すごい絶景。秘境ですね。

いつも確認しながらやらないとズレていく

確認についての御言葉でした。

「主の意向通りに」と言いながら確認もせず自分勝手にやるからいろいろな問題が起こるのだと仰いました。

箴言でも〈引き上げはそんなにやさしいことではない〉とおっしゃっていますが、主の意向通りに続けて実践していくのはなかなか難しいことです。

それは例えば、恋人に続けて喜ばれるようにするのが簡単ではないことと同じです。

少し間違えると「これは君のためにやっていることだから」「これは君のためを思って言ってるんだよ」と言いながらやっていることが相手を傷つけてしまうこともありますね。

主が喜ぶことなのかどうかをいつも考えないといけません。

仕事をするときも確認しないと損をします。だから、行う前にそれをやっていいかの確認、実践を始めてからもこのやり方でいいのかの確認、一緒にやる人の中に詐欺師がいないかの確認、実践しすぎ体を壊していないか健康診断で確認、確認確認確認。

すべてのことについて確認し、一回でやりきることが一番神様も安心することです。

ただ、これは私もよくやってしまうのですが、「確認が終わってからやろう」と考えて慎重になりすぎてなかなか実践しなかったり、無難なことしかやらずに古いやり方でばかりやって新しくしなかったりすることがあります。

昨日このブログの最後にも書きましたが、私はやらなきゃいけないことがあるんだけどちょっと心配なことがあって、まだやらないでいます。
言い方によっては「確認がまだ取れていないからやっていない」なのですが、ちょっとこれはこじつけですね。

また、よくあるダメな例としては、新しいことにチャレンジしている人に対して「そんなことしていいの?ちゃんと確認を取ったの?」と言って止めてしまうこともありえます。

イエス様はユダヤ人に「なんの権威でそのようなことをしているのか」と言われましたし、先生も岩の造形を作るときにはたくさん止められました。そして実際に岩は何度も崩れました。先生を止めた人は「ほら。御心ではないからだ。」と言ったそうです。

しかし、先生は最後までやりきりました。

確認しなかったのは、先生を止めた人達の方でしたね。

つまり、誰でも先生のように最後までやることが必要です。

箴言では実践について、人生を長いと思わないで1日だと思いなさいと仰いました。

何があっても今日で終わりだと思えば、わりと頑張れるよ。

古いものを捨てて、新しく、先生と共にする

新しくすることについての御言葉でした。最近はこの「古いものを葬りなさい」と「実践」の御言葉が非常に多いですね。

それだけ時なのだと思います。今の時が過ぎれば、また別の時が訪れます。どんな時になるかはわかりませんが、前もって神様が準備されていることを考えると、その予兆はすでに現れているのかも?

御言葉で皮袋の聖句が出ていました。

数日前にこのブログで「あの比喩わかりづらい」とか書いたものだから気まずかったです笑

そこは改めるとして、とにかく核を押さえて、古いものを捨てることを意識しないといけませんね。

具体的に何を捨てるかは個人個人が祈りながら見つける必要があります。

「古い曲を捨てること」は具体的に示されていますが、そうした周りで起きていることを受け入れるだけで自分が古くなっていることに気づかない人が多いのだと仰いました。

人って古くなると、他人のことを指摘しながら具体的な改善策を示さなかったり、自分では何もしなくなってしまうことがあります。

会社では「重箱の隅をつつく上司」とか呼ばれていることがあります。聖書にも「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」という聖句がありますね。

つまり、いつの時代も同じ。それだけ人が陥りやすい問題ということです。

年はどうしてもとっていくものだけど、古い時代に固執しないで常に新しくいたいですね。

箴言では自分を作ることについて話してくださいました。

考えが浮かんできたら、そのままにしないで、整理して束ねなさいって仰いました。

そうして先生は新しい歌を作られています。

箴言では続いて、歌詞を作ったら、その雰囲気に合うように曲も歌わなければならないと仰いました。

歌の使命をやっているので、これは自信を持って言います。

最近の摂理の曲、バリエーションが多すぎぃ!

1人で切々と歌うような曲もあるし、ライブで大勢で手拍子を合わせながら盛り上げる曲もあるし、ラップ部分が激しくてどんどん前に出て行かないと曲に負けてしまうのもあるし、恋人を隣に置いて優しく歌ったらいい雰囲気になるのかもしれないバラードもあります。けっ

曲ごとに歌い方もガラッと変えないとついていけません。

箴言では「1つの歌で『歌謡曲、演歌、賛美歌、歌曲、パンソリ』などに作ることができる」とおっしゃっていたから、編曲も様々にしなさいってことでしょうね。

パンソリ、知らなかったけど「摂理人は絶対聞いたことあるやつだろうな」と思って調べたらやっぱり聞いたことあった。月明洞の芸術祭で見るやつや。

かっこいいですね。「よっ!」とか「やあ!」という「あいの手」は日本の伝統芸能にもあるし、スペインのフラメンコでも聞いたことある。伝統芸能に共通している部分なのでしょうか。

1つのものから様々に作る技術が必要です。

御言葉は与えられているけど、それをどう料理するかは各個人の腕次第です。

家庭料理を作るのか、高級料理を作るのか、大衆料理を作るのか、エスニックなのかフレンチなのかイタリアンなのか和食なのか。

どれが優っているかではなく、個性通りにつくりたいですね。

先日、先生が「埠頭の孤独」を作る様子を見ました。

あの鼻歌から、あの歌ができたのが衝撃でした。

「埠頭の孤独」って悲しいメロディだし、悲しい歌詞ですが、先生、なんで楽しそうに歌ってんだ?

それが一番謎でした。

そして、ふんふん歌ってるこのメロディからあの大きな曲になったの?というのも衝撃でした。

先生「カモメ 悲しく鳴き クークー(カモメの鳴き真似) 汽笛も鳴いている〜」

元の歌詞ではカモメの鳴き真似入ってるじゃねーか!

って思いましたよ。しかも二回歌って二回ともカモメの鳴き真似入ってましたよ。

なのに、私たちが歌ってる歌詞には「クークー」がありません。

作曲した人が(いや、みんなで歌うのにカモメの鳴き真似はちょっと…)って思ったんでしょ!

これではいかん!先生のおっしゃった通り歌詞に「クークー」入れないと!

というのは原理的な考え方ですね。

先生は「弟子と一緒にやること」が好きなので、先生が歌って、私たちがそれを元に様々に作ることが必要なんでしょうね。

今日はたくさん書きました。なぜこんなに書いたかというと、本当はやらなきゃいけないことがあるんだけど、そこから逃げているからさ。

考えと実際は違う

今朝は実践の御言葉でした。神様な許諾は得ていても実践すると大変なこともあるんだ、と仰いました。

「理論と実践は違う」という先生の御言葉や「口には甘いが腹には苦かった」という黙示録の聖句を思い出させる内容でしたね。

たとえば、今は聖殿の祝福は与えられてはいますが、これは祈っているだけでもらえるものではありません。

実践して、不動産のプロと交渉して、良い条件で、何の問題もないように、契約を結ばなければならないんです。

その実践は、大変だよ。

今までただ霊的なことだけを考えてきた私たち摂理人にとって、いきなり不動産の知識が必要とか、なかなかハードル高いよね。

私もこうなる可能性について全く考えていなかったので、使命者が頑張ってくれるのをボンヤリ待ってるしかありません。

前もってやらないとこうなってしまいます。

よくよく考えれば、先生は今は狭い部屋にいるのだとしても、続けて月明洞を開発されていたわけで、先生が今の場所を出てこられてからは最高の環境で御言葉を伝えることはわかっていたことでした。

ずっと、環境の祝福というのは準備されていたわけです。

私たちが気づかなかっただけで。

それを私たちは「月明洞で新しい岩が建った」「今日はこんな新しいことが起きた」「月明洞なう」という目に見えることにばかり気を取られて、自分たちが本来何を準備するべきだったのかについて考えることを疎かにしていました。

いろいろな角度から見ないとダメですね。

今朝の御言葉では、たとえ実践してうまくいかなくても神様は喜ばれる、と仰いました。

これは私も感じることがあります。「心と思いと命を尽くしていること」を神様は喜ばれます。

御言葉を聞いていざ実践しようとすると、「何をもって神様は喜ばれるのか」、「何が御心なのか」がわからなくなることはありませんか?

「伝道したら喜ばれる」というマニュアルはあるにしても、それだけではなさそう、というのを御言葉を聞いているとなんとなく感じることがあります。

「新しくしなさい」が御心なのだとしても「何を?」って思うこともあるかもしれません。

「もっと具体的に教えてくれよ」と感じている人が摂理にも少しいることを感じます。けっこう抽象的に仰ることがあるので。

ただ、具体的な指示を出してそれを遂行する、となると、それは奴隷なんですよね。

新郎新婦の関係ではなくなります。また、具体的な話は、今は良いのだとしても後世の人が理解できなくなってしまいます。それも愛ですね。

先生は「曲を一緒に作ろう」と言って歌って見せて弟子たちが編曲する、ということをされますが、そのように一緒にやるのが好きだから、先生が御言葉をされ、それを聞いた私たちがどう受けてどう実践するかは自由意志にかかっています。

だから、先生が一生懸命御言葉を伝えているから、私たちが一生懸命実践しようとすると喜ばれるんですね。

そういう授受作用が、愛の世界です。

だから、たった2レプタしか持っていないのだとしても、それを神様のために使うと神様は喜ばれます。

一生懸命やっていると、神様が反応して、だんだん状況が良くなっていきます。

本当だよ。

最初は「そんなことやってないでもっとためになることをしろ」と人から言われることだとしても、バカみたいに熱心にやっているうちに状況が変わってきて、ついに最後までやると、それは「御心」になる、そんな気がしてます。

古いものの上に新しいものを立てるのではなく、古いものを捨てて新しいものを立てる

古いものの上に新しいものを立てるな、過去の古いものを捨てて新しいものを得なさい、と仰いました。

聖書には「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるな。ぶどう酒も皮袋もダメになる。」という聖句がありますが、それを現代向けの比喩で話してくださいました。

私が新入生の時にこの「ぶどう酒と皮袋の比喩」がよくわからなくて、聖書を教えてくれた先輩から何回聞いても理解できない子でしたが、今日の御言葉で不動産の話で例えられていたのでわかりやすかったです。

ワイン飲まないとわからないね。しかも今はボトルだし。当時はワインを皮袋に入れるのが普通だったからイエス様も皮袋のたとえで「古いものと新しいものを一緒にするな」と話してくださいました。

比喩の核は相手にわかりやすいこと、つまり愛だから、今もわざわざ皮袋の話をする必要はないんだなと思いました。

ちなみに、皮袋は古くなると硬くなるそうで、そこに新しいワインを入れると発酵して皮袋が破けてしまうんだそうです。だから新しいワインは新しい皮袋に入れるべき、ということらしいです。

御言葉では、その流れで過去を捨てることについて話されました。

今朝、3時くらいの夢で過去のパワハラ上司が出てきて、起きた時にその時のことを思い出してしまいました。

祈ってもすっきりしなくて、波長がどんどん過去に引きずられて悔しい思いが出てしまっていましたが、御言葉を聴きながらだんだん治ってきました。

夢は、そのパワハラ上司を見返す作戦を決行する内容でした。上司は象徴として夢に出てきていると思うので、過去の苦しみが消えるといいと思います。

箴言は、昨日に引き続き詐欺師の話でした。

実は私も摂理に来る前に引っかかったことがあるので、それもあって過去を思い出しちゃったんですよね。

まだ揺れるなあ。

さて、箴言では不動産の話がされていましたね。非常に具体的な話です。聖殿の話。

不動産業界にはいろんな人がいますからね。すごく気をつけないといけないことではあります。

おそらく、韓国の不動産事情は日本よりも厳しいのではないかという気がします。

日本は一応先進国だから、法も整備されていてズルがそう簡単にはできないし、商道徳もマシな方ですが、韓国はどうなんでしょう。箴言を聞いている限り、金のためには手段を選ばない人がわりといそうなイメージです。

御言葉も、箴言も不動産の話が入っていました。摂理もそのように変わってきています。

自分のものにするのは大変ですが、カナンを手に入れたいですね。

御言葉を聞くだけでなく実践が必要

実践してカナンの地を手に入れなさいと仰いました。

繰り返して言いました。

旧約聖書で、イスラエル民族は隷属していたエジプトからモーセに導かれて出てきました。

残念ながらモーセの時代には理想郷であるカナンにはたどり着かなかったのですが、モーセの右腕のヨシュアがリーダーになってカナンに定住するようになります。

エジプトとカナンの違いは、隷属しているかどうかの違いでした。

エジプトでは重い労役の代わりに配給があったようです。

しかし、カナンでは誰かが給料をくれるのではなく、自分で手に入れなければなりませんでした。

実践が必要でした。

それが不満で、モーセの時代のイスラエル民族はカナンには入れませんでした。

カナンに行く途中でシンの荒野を通りますが、そこで「なんでこんなとこ連れてきたんだ!エジプトにいた時はスイカもニンニクもニラも食べられたのに!」と不満を言います。

ちなみに話が外れていくのですが、スイカ、ニンニク、ニラ、これってどれもスタミナ系の食材なんですよね。

スイカにはシトルリンが豊富に含まれています。夏はスイカだよ。ニンニクやニラは言うまでもなし。

スタミナ命で暮らしてきたイスラエル民族、かなり頭が筋肉だったんだと思います。エジプトではどんどん労役が重くなるにもかかわらず子孫が増えていく描写がありますから。

筋肉命だったイスラエル民族は、自ら実践する自動人生ではありませんでした。

その体質を作れず、カナンに行く途中で死んでしまうんですね。

自ら実践することは、カナンを手に入れるためだということをわかって行いたいですね。

箴言は詐欺についてでした。

先生も過去に詐欺に遭われたことがあるから、厳しいですね。

摂理の人はみんな優しいから、「こいつらをカモにしよう」という考えが入ってしまう人もいるのかもしれませんね。

多くの人は金銭をだまし取ろうという詐欺を働くことはありません。ただ、私たちがよくやる詐欺があります。

「やるやる詐欺」です。

私も毎日詐欺ってる気がします。

言葉だけでなく、実践が必要だと御言葉でおっしゃっていました。

プライドの持ち方で次元が変わる

プライドについて話す中で次元について御言葉をしてくださいました。

御言葉をしてくださった方は、たぶんいろいろ軽んじられたり「どっちが偉いか」みたいなやり取りがあったのだろうと思います。そういう雰囲気が経緯からうかがえます。なんでわかるかというと、私もそういう経験が多いからです。

それで対話する中で、「人間的なプライドを主張してぶつかるのではなくて、最後までやってプライドを持ちなさい。」という答えを得たのだと仰いました。

聖書でも弟子たちが「どっちが偉いか」を言い争う場面があるのですが、この「プライド」の問題は根強いです。

特に男性。

男はいつも「偉いかどうか」を考えて動いているところがあります。

女性がちょうど「美しいかどうか」をいつも気にしているように、男は「偉いかどうか」なんです。

女性がもしこれ読んでたら覚えておいてくださいね。

男性にとってのプライドは、女性にとっての化粧と同じです。

それがないと表を歩けません。みっともなくて。

だから、女性は男性に「そんなくだらないプライドなんてはやく捨てなよ笑」と感じることがあると思うのですが、それはけっして声に出してはいけません。

なぜなら、それは男性が女性に対して「そんな下手な化粧ならするなよwww」というのと同義だからです。

たとえ本当だとしてもガチでキレるでしょ。

だから、たとえしょうもないプライドだとわかっていても、男性はプライドを持っていきているわけです。

まあ、そのせいで私みたいな人はナメられることが多いのですが。

そこで、御言葉では正しいプライドの持ち方を教えてくださいました。

男性必見ですね。正しい化粧の仕方を学べます。

最後までやってからプライドを持ちなさい、と仰いました。

その最後とは、新しくなることだ、と仰いました。

心と思いを尽くして何かに取り組んでいると、周りはあまり気にならなくなります。そして最後まで行くと、次に何をすべきかが見えてくるようになります。

そうしたらそれに取り組む。人を意識している暇がありません。

軽んじてくる人は多いけど、気にならなくなります。

そうやって新しくなって行くことが、変わらないこと、正常なことだと仰いました。

箴言では、「心を開けること」について話してくださいました。

自分の考えでなくて心を開けなさいと。

人とぶつかってないで、やるべきことをやりたいですね。