共にすることが完成したこと

今朝は「なぜ主と共にしなければならないのか」について話してくださいました。

それは、愛してるからだよ。

この世は神様が作った世界で、愛の世界だからです。

1人だけでは片思いになってしまい、興奮はあっても愛はないのだと仰いました。

共にしてこそ「完成だ」といえます。

バイブルスタディにも「二本のオリブ」の話がありますし、聖書にも「すべてのものにつれあいがある」と書いてあります。

御言葉に続く箴言でも「対話」について詳しく話されました。

昨日の箴言では「万物とはフィーリングで通じる」とおっしゃったのですが、今日は具体的にどんなふうに通じているのか教えてくださいました。

先生は万物も恋人のように大事にするのだと仰いましたが、対話の内容からそのことを感じることができます。

ちなみに、旧約聖書の中での万物との対話は以下のようになってます。

ろばは主の使を見てバラムの下に伏した。そこでバラムは怒りを発し、つえでろばを打った。 すると、主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。 バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。
‭‭民数記‬ ‭22:27-29‬

時代がいかにも「主人と僕」って感じですね。先生の対話とは大きく違います。

今日の御言葉を聞いて、僕はなんでも1人でやってしまうのが好きなのですが、「俺ぜんぜん対話たりてない…」ということに気づきました。

自分の考えはまず置いて、相手の立場になる。

自己主観を治しなさいと、今朝の御言葉では仰いました。

自己主観といえば!僕は日曜日に自己主観の強い人に絡まれたんですけどね!っていつまでその話しとんねん!!

今の自分に必要な御言葉がたくさん与えられていて感謝です。

今日の御言葉は、明け方のお祈りに向かう時、マンションのエレベーターから降りた時に浮かんできた聖句から伝えられました。

明け方ってシーンとしてるから、ふっとアイデアが浮かんでくることがあるんですよね。

「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。」

ルカによる福音書‬ ‭21:23-24

終末に関する聖句ですね。ちなみに終末とは転換期であると、先生は教えています。

この終末には、身重の女と乳飲み子をもつ女は不幸だと聖書には書かれています。

文字通りの「赤ちゃんがお腹にいる女性」という意味ではなく、自己主観が強い人のことを指しているのだと今日の御言葉では話されました。

頭の中にたくさんの自分の好きな考え、古い考えが入っていると目的地まで行けないよ、という話です。

古いものはどんどん捨てていかなくては行けませんね。

先生はよく「生きている神様」ということをおっしゃるのですが、この「生きている」っていうのは「常に新しくなる」ということでもあります。

この体も常に新陳代謝が起こっているから生きているといえます。代謝が鈍くなったら老けるし、止まったら死にます。

これは体だけのことではなくて、考えもそうなのだと、私は御言葉を聴きながら思いました。

自分の頭の中も、いろいろ詰まっている身重な頭になるのではなくて、いつもリフレッシュした状態であるのが健康的ですね。

そういう意味では、先生は本当に自分がない方です。

今日の御言葉の後に先生の箴言を伝えてくださいましたが、その中に万物と通じる方法について話されている箇所がありました。

<万物との対話>は、自分が「万物の立場」になって「そのフィーリング」を話す時、対話になる。万物が人間のように話すのではない。万物の立場を分かって自分が「通訳」することが「万物との対話」だ。

「万物の立場になって」というのが先生の性格を端的に表しているなと思いました。

常に相手の立場、神様の立場で考えて行動されるのが先生です。

普通に考えても、自分の立場から見える世界って狭いです。

その狭い世界に閉じ込められていることは、自分にとっても、神様から見ても嬉しいことではありません。

そうした自己主観を捨てて、より知恵深く生きて生きたいですね。

「推測」で決めつける前に「確認」が必要だ

今日の御言葉では「推測ではなく実体の生を生きなさい」と仰いました。

きっかけはちょっとしたトラブルです。御言葉を伝えてくださった方の乗っている車が他の車と軽い事故を起こしました。

そこで運転者同士の話し合いになったのですが、お互い「向こうが悪い」となってしまいました。

「今は感情の時代だ」と御言葉でも仰いましたが、悪い感情に陥ると冷静に物事が見られなくなって、推測で決めつけてしまいますね。

そのように、先生を迎えることについても推測で考えているから、そうじゃなくて御言葉どおり「今、共に生きなさい」と仰いました。

この御言葉を聞いて、また日曜日にあったトラブルを思い出してしまいました。日曜日に礼拝に向かう途中で心の姿勢の悪い人に絡まれたんです。

「てめえ今睨んだだろ」という言いがかりでした。

確かに、その日は新しい歌をたくさん歌う予定だったので、歌詞を忘れまいと反復しているうちに目つきが悪くなっていたかもしれません。土曜日から100回くらい聞いていて頭がぐわんぐわんしてました。

それが睨んだという推測で決めつけられたのはちょっとキツかったな。

主管が強い人だったので、話しても「いいや、睨んだ」の一点張りです。

その場は謝って、相手の長所を褒めたら機嫌がよくなりました。もちろん向こうは謝らないよ。うーん、キツい。もう思い出したくないんだけど。

読者の方は「お前の個人的な事情なんかどうでも良い」と思うかもしれません。しかし今朝、民族的な規模で御言葉を実感せざるを得ない出来事が起こりました。

北朝鮮が弾道ミサイルを発射 日本上空を通過 /朝日新聞デジタル

今朝6時の出来事です。ブログでお世話になっている方から教えてもらいました。

北朝鮮は以前からかなり“推測で”世界を決めつけて、憎み、ミサイルを発射しつづています。

これほんとにどうしたら良いのよ。

北朝鮮の思い込みの強さはかなり達人級に達しています。

普段は「悪であるアメリカ、日本、韓国に正義の鉄槌を下す。火の海になる。」といった脅しをして、諸外国から有利な条件を引き出そうとするじゃないですか。

それにアメリカや韓国が反応して「北朝鮮に対してはあらゆる選択肢を考慮に入れる。」といった武力をもほのめかすコメントを発します。

すると北朝鮮は、「我々はアメリカに脅されている。アメリカは恐怖で他国をおさめようとする最悪な国だ。」といった言い方をするんです。

うわー!っていうしかないよこんなの。

なんちゅう被害妄想だよ。北朝鮮はどうあっても「自国は悪くない。他の国が悪い。」というふうにロジックをもっていってしまうんです。

アメリカは「あのレトリックを封じなければならない」といっています。

韓国には、先生という「御言葉の達人」がいますが、北朝鮮には「言い訳の達人」がいますね。

韓民族って極と極だな。

推測、ダメ絶対。

いつも御言葉で行っているように「確認」が必要です。

良いことは後から来ることがある。最後まで喜んで主を賛美することだ

賛美について御言葉を伝えてくださいました。

日曜日だけではなくて、日常で神様を賛美しなければなりませんね。

神様を褒め称える人は、願うことが叶うのだという話もされました。

悔しい思いをした人もその10倍の祝福があるという話もありました。

ちょうど昨日悔しい思いをしたので、僕にとってはここが強調されて聞こえてきましたww

でも、すぐにポンと良いことがあるかというと、いつもそういう時ばかりではありません。

僕も昨日、心の姿勢の悪い変な人に絡まれたけど、今日もまだ若干気分が悪いままです。何か良いことがあるわけでもなく、いつもどおりの月曜日がはじまっています。

でも、最後まで神様を褒め称えなければならないと御言葉ではおっしゃっていました。

最後まで行けばもっと良いものが与えられる、という話です。

先生のエピソードとしてぶどうの話がありました。

ぶどうを買って、店に置きわすれてしまった。でも、そのおかげで店に戻った時にもっと良いぶどうを手に入れることができたのだと。

わかりやすいたとえですね。正直自分にもそんなことがあるのか、自分ではさっぱりわかりません。そのことばかり考えていても気持ちがやきもきするだけなので、あったらいいなくらいの気持ちで、やることをやっていこうと思っています。

自分にとっての祝福は、どこにあるか自分ではわからないことが多いです。

箴言では、自分とマッチする連れ合いを見つけるのはとても難しいのだと仰いました。

自分と似たものではなく、違ったものを立てて連れ合いとしてくださるのが神様の祝福です。バイブルスタディで習った通りです。

皆様にとっての最良の祝福が得られますように。

体の姿勢と心の姿勢

今日の御言葉は体の姿勢から信仰の姿勢の話をしてくださいました。

姿勢については私より詳しい方がたくさんいそうですね。ヨガとかウオーキングの話が出てたくらいだから。

私は姿勢が悪いです。人にもよく言われるので、自分なりに工夫はしています。

まず、姿勢が悪いことって自分ではなかなか気がつきません。

これは心の姿勢もそうですね。

今朝、礼拝に向かう時に変な人に絡まれましたww

こちらが急いでるのに引き止めるから、少し話をしました。思ったのは(話してもわからなそうな人だ)ということです。

自分で何を言ってるのかわかってない人だったので、とりあえず褒められそうなところを褒めてやりました。そうしたら少し喜んだ様子だったので、そのすきに去りました。

おかげて今日は歌手をやりましたがキツかったです。歌い切るのが精一杯でした。しかも終わった後で「もう少し笑顔で」とか指摘されるし。最近心情をわかって接してくれる人がいません。

でも先生はそれよりもっと大変な人と毎日一緒にいるわけだから。

なんの話だったか、そう、姿勢は自分では気がつかないという話です。

僕も鏡を見てはじめて「うわっ、こんな格好で歩いていたのか。きもっ」と自覚します。

それで僕は全面鏡を買いました。また、週に何度か大きな鏡のあるスタジオで自分の姿を見ます。

ジムで運動しながら鏡を見ることもあれば、音楽スタジオを借りて発声練習をしながら鏡を見ることもあります。

少し間が空くとすぐ姿勢が悪くなります。

日中は仕事で一日中パソコンに向かっているからです。

姿勢を根本的に変えるためには生活環境を変えないといけないことを感じます。

また、姿勢を直すのにわりと役に立ったのが「枕」です。

今まで枕が悪かったのか、立っている時に頭が少し前に出てしまう形になっていたのですが、思い切って枕なしにしてみたら、ちょっと緩和されました。

こんなふうに、信仰の姿勢もわりと少しのことで改善することが多いのかもしれません。

日本は人に頭を下げる文化があるから、なかなか姿勢を良くするのは難しいかもしれません。

「実るほど、こうべを下げる稲穂かな」ということわざもあります。

しかし、御言葉では「頭を下げるのではなくて心の姿勢を下げなさい」と仰いました。

自負心は持ちながら、柔和でへりくだった姿勢というのが理想ですね。

御言葉の価値をわかることが全体の利益になる

いつも聞いている御言葉の大切さについて話してくださいました。

万物もそうですが、御言葉こそよく見ればいろいろな発見があります。

万物の秘密を発見した人で教科書に名前が載っている人は多いです。少しずつ明らかになりながら文明は発達しています。

御言葉もそうです。大きな封印をまず先生が解かれたから摂理が始まったし、今まで続けて大きくなってきました。

私たちに恩恵があるのは、こうした先生の実践があるからです。私たちに祝福があったとして、そこに先生が関わっていないことはありません。先生の条件があるから、自分の努力だけではあり得ない大きな祝福がここではあります。

家の電気がつくのが過去に誰かさんの条件があったように、祝福も主の条件があったからです。

私たちも、普段聞いている御言葉に隠されている神様の心情を正しくみつけることができたら、それは全体の利益になることです。

動物や植物のように自然体で

「飾ったりかくしたりしないで、万物のようにありのままに証しなさい」という御言葉でした。

万物は本当に素直です。見ているとホッとします。

それは、そこから主の姿を見ることができるからです。

ちなみに私は犬派です。

本来は、人間が神に似て作られたのだから、ごく自然に神様の姿を見せていなければなりません。

でも、人間はサタンにだまされて以来、サタンをも表す存在となってしまいました。

「神ときどきサタン」そんな感じになってしまっています。「今日は一日サタンでしょう」という日もありますね。

お金に目がなかったり、人に見せるために着飾ったり、インスタ映えする写真を撮るために駆け回ったり。

SNSが発達したから、盛ったり隠したりすることを強く意識するようになってしまったのかもしれません。

ありのままに証するためには、主のことをはっきり知りなさいと仰いました。

まだまだ道半ばですが、少しずつ主に似ていきたいですね。

否定的な考えと肯定的な考えの戦い

「否定的な考えはあなたをできないようにさせる」と仰いました。

一度否定的な考えが生まれると、それがどんどん大きくなっていろいろめんどくさくなってきますね。

実際に、否定的に考えたくなるような出来事は日常で起こっています。

だからこそ私たちは「またあのようなことが起こる可能性がある」という防衛本能のようなものを働かせます。

御言葉でも「気を引き締めなさい」ということを仰います。

東京に住んでると変なこといっぱいあるよほんとにフザケンナ。

気を引き締めることは自分の宝を守る良いことですが、行き過ぎると「疑い」や「血気」、そして「否定的な考え」に陥ってしまいます。

旧約聖書に「ヨシヤ」という王様が出てきます。先生のバイブルスタディで取り上げられている人物です。

ヨシヤ王の当世は世の中が乱れていました。それを一代で洗濯してしまったのがヨシヤ王の功績です。

しかし、ヨシヤは最後の最後で失敗してしまうんです。

自国に敵対していないエジプトに対して「あいつは我々を攻撃しようとしている」という否定的な考えを抱いて戦争をし、その最中に重傷を負って死んでしまうんです。

否定的な考えのせいで無駄な戦争を起こし、しかもそこで命を落としてしまいました。

先生はこのエピソードをもって、「無知の中の相克」という話をされます。よくされます。話し出すと止まりません!

さて、ヨシヤは邪悪な時代にあって、懸命に国を立て直すために働いた人です。

立て直そうとする中で、いろいろな困難を経験してきたはずです。

その経験が積もりに積もって、「どうせまた良くないことが起こる」といった考えになってしまっていたのかもしれません。

それでエジプトが不穏な動きをしたものだから「ほらきた。迎え撃つぞ」という自動装置が働いてしまった可能性がありますよね。

なぜそう思うかというと、私がよく経験しているからです。

おかしな出来事にたくさんあうと、どうしてもそうなってしまいがちなんですよ。

東京に住んでるとほんとにそういうことが多いよフザケンナ!

さて、様々な可能性に備えておくことは大事ですが、そこに溺れてやるべきことができなくなったり、色眼鏡で人を判断してしまってはいけませんね。

悪い考えは入ってきても、いつも良い考えをもって打ち消して行かないといけません。

それが御言葉です。善と悪の戦いですね。

箴言では、松や月明洞を大きく育てるにあたって先生がどういう精神で取り組んでいるのかがわかります。

大変なことは多いけど、腐らないで自分という作品を大きく美しく作りたいですね。

人生の終わりに「感謝しかない」と言えるか

この人生は、この肉体が生きているだけの期間あるのではなくて、その先も霊として生きていきます。

日曜日の御言葉では、この行いによって霊が美しくもなり醜くもなるのだと仰いましたが、そのように、生きている時にこの体を持ってどう生きるかが大切です。

多くの人は、死に際に人生を振り返って後悔をするのだという話をよく聞きますし、また今朝の御言葉でもそのように仰っていました。

しかし、今日御言葉を伝えてくださった方によると、最近ある兄弟が亡くなられたそうですが、その方は「ただ感謝しかない」といって目を閉じたそうです。

私も最近幼馴染みを亡くして人の死について考える機会が与えられているのですが、死ぬ時に「ただ感謝しかない」と言えるのって、すばらしいことだなと思います。

そして、それはとても難しいことでもあるように思います。

後悔のない人生って、簡単にできるでしょうか。

私の場合、今日も会社に行って、人の言うことを聞いて、少しばかりのお金をもらって。そんなことしているうちに日が暮れます。

そして、そんな毎日を繰り返しているうちに1ヶ月が過ぎ、1年が過ぎ、10年が経って、気がついたら残された時間が無くなっているでしょう。

御言葉聞いてなかったら、その時に気がついて後悔し、でももう戻れない。そんな人生だったかもしれません。

主日の御言葉でも、ある人が暗いトンネルを歩いていて気がついたら目の前がブラッホールだった、でも後ろからどんどん人が押し寄せてくるので後戻りができなかった。という話がありましたね。

この肉体が死ぬ時のことを考えて行動する。「そんなのまだ早いだろwww」と思いますが、気がついてからでは遅いことでもあります

新郎を助ける内助の必要性。自分が成功するために

今朝の御言葉では「先生を守る祈りをしなさい」と仰いました。

今の時代だからおっしゃる話ですね。

なぜなら、主人は僕に対して守ってほしいとは言わないし、親も子どもに対して守ってもらいたいとは思わないからです。

主人が僕たちの生活を守らなければならないし、親が子どもの面倒を見なければならないのであって、その逆はあまりありません。

稀な例として、優秀な部下が主人を助けるという例はあります。

旧約聖書にも、その時代の中心人物が王を助ける例がいくつか出てきます。

子どもが親の面倒をみるというのも、たまにはあります。

失踪した父親の代わりに子どもが稼いで母親を助け、大きくなってから父親を探すという話を、昔テレビで見たことがあります。

しかし、それは一般的な話ではありません。

主人は僕が生活できるように給料を支給することが法律で決まっているし、親が子どもの面倒をみるべきことも法律で決まっています。

ところが、恋人の場合は違います。

どちらかがどちらかを一方的に助けるわけではありません。

役割の違いはあるけれど、その行なうことは相方を助けるためのものです。

成功者はよく「妻がいたからこそ、今の自分がある。」ということを言います。

自分の努力だけで成功したわけではないのだということです。

あえて固有名詞を使いませんが、巷では、男の運勢をあげる女性、また逆に男の運勢を下げる女性というものがいると言います。

「自分はどういう内助ができるのか。」

そういうことを考えないといけないですね。

玉の輿に乗りたいとか、先生についていけばいいことあるんじゃないかとか、そういう新婦は先生の足を引っ張るだけです。

新郎は宝くじじゃありません。

玉の輿に乗りたいなら、男が玉の輿を準備できるようにしっかりサポートしてあげないといけませんね。

先生が良くおっしゃる「内助」が必要だということです。