聖書の「時代の盲人」の話はすべてに当てはまる

今日の御言葉は、〈盲人〉と〈新しい時代〉についての話でした。

出エジプトやイエス様の時代の話を通して、新しい時代が来た時の人々の反応について伝えてくださいました。

いつの時代も、新しいことが起こるとそれを受け入れられない人がいます。

出エジプト記のイスラエル民族もそうだったし、パウロもそうでした。

パウロは途中で悟って心を翻し、歴史に名前を残しますが、出エジプト記のイスラエル民族のほとんどは、わからずにいてそのまま死にます。

神様の裁きの怖いところは、「失われた心のまま放っておかれる」ということだと仰いました。

「なんとなく月日が過ぎている」ということが実はとても怖いことなのだということを私は思いました。

本当に「ただ月日が過ぎている」だけなら良いでしょう。平和で。私もそういうのんびりしているのは好きです。

しかし、神様はじっとしている方ではありません。

サタンに奪われた歴史を回復するために、ひと時も休まないで働かれています。

だから、「なんとなく今日も平和」というのは本当に何も起こっていないのではなくて、自分が大きな変化に気づいていないだけで、実は神様に放っておかれている可能性があることを感じなければなりません。

そうなったらパウロのように「このままじゃ俺やばい」と気づいてすぐに方向を変えないと行けませんね。

先生は今日の御言葉を本に残すとおっしゃっていました。

その通り、聖書のこの話はすべてのことに通じるモデルケースです。

あらゆることで、このような「新しいことが隠密にどんどん進み」「知らない人は相変わらず食ったり飲んだりしている」という現象が起きています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA