祈りの必要性と、祈ってばかりいてはいけないことについて

今日の御言葉は、「祈りとは何か」「祈りはどうして必要か」について話してくださいました。

僕は「このタイミングで来たか!」と思いました。

なぜなら、つい先日の明け方の箴言で「病気になったら『祈ってばかりいないで』病院にも行って、定期的に健康診断も受けなさい。」とおっしゃっていたからです。

先生が3年祈っても病気が治らなかった話もされましたね。

そうした話を聞いたら、私たちは「そりゃそうだな。…ん?じゃあなんで祈ったりする必要あるの?」と思うじゃないですか。

ちっちっちっ、そんな私たちの気持ちなんかお見通しなんだぜ先生は。

今日はたくさん祈りの必要性について話してくださいました。

まずは、「祈れば考えが変わる」ということですね。

もう僕の体験レベルでしか話せませんが、お祈りは自分をチューンナップするような役割があります。

これはやってみないとわからない。これ以上の表現ができません。

判断力にキレが出て、余計な考えが入ってこなくなります。

周りから見ても「なんかオーラ出てるな」と感じます。

僕が顕著に感じるのは、お祈りをたくさんできてる時は「飲み会に執拗に誘われない。」

これ統計とったらすごく面白い結果出ると思うんだけど。

祈らないとやる気が出ません。その結果、自分には不利益なこと、不健康なことに対してあまり嫌気がなくなって、流されます。

そしたら、病気になりますね。

病気になったら病院に行かなくてはいけない。

自分の不注意で不健康を招いた場合、神様の奇跡を待つよりやっぱ病院に行った方が良いです。

祈りは対話だ

「祈りは対話だ」とも仰いました。恋人と対話することです。

僕は人と話すのがあんま得意ではないので、ずっと祈ってるというか考え事をしています。

そうしていて思うことは、祈っていることについてはよく気がつくけど、あまり熱心に祈っていないことについてはてんで感覚が鈍いということです。

人との対話でも「この人に会うといつもこういう話になる。」ということがありますよね。

神様と人間も同じです。

大きく見れば、大昔は神様と人間との関係性が遠かったから、それなりの対話しかできませんでした。

先生は、その関係性を近くして実践した人の1人ですね。

先生と神様は近しくなりましたが、みんながみんな近いわけではありません。

今の時代は神様と近い時代なんだけど、一人一人で見たらその関係性は多種多様で、対話の内容も様々です。

健康に関しても、祈りで深い対話をしている人もいれば、そうでない人もいるんじゃないでしょうか。

対話してなかったら、その分野に関しては気がつきません。

どんなに神様からサインを送ったところで、本人が気づかなければしょうがありません。

先生が「病院に行きなさい」というのは、裏を返せば「脳が固まっていて、祈りの焦点が合っていない。」ということなのかもしれませんね。推測っすよ、推測。

御言葉では、「教会のことについても祈りなさい。1人でもいれば、狙っているサタンが消える。」と仰いました。私たちの体も1つの聖殿なので、わかって管理をしていきたいですね。

重要なのは、「お湯が煮立って肉を茹でるように」熱く祈ることです。

長くなりましたのでこのへんで終わりにします。

じゃ、そろそろ1時祈りなんで。

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