天国があるという人もいるし、ないという人もいます。
これは実際にあるかないかではなく、その人の意識が決めていることです。
実際にあるものでも、無いように思う人にとっては無いということが真実になります。
あると思うからそこから希望と喜びを得て、無いと思っていたらそこから希望も喜びも得ることができない。
こうした話は、信仰を持っている人がよく使う詭弁のようにも思えますね。
しかし、そうではありません。
私たちの日常の中にある「あると思えばある」「無いと思えば無い」の代表例をあげてみましょう。
ここに紙切れがあります。どこからどう見ても紙です。
長方形です。紙には、歴史の偉人の肖像画と数字が書いてあります。
ある紙には「1000」と書いてあり、ある紙には「5000」「10000」と書いてあります。ときどき「2000」と書いてあるものもあります。
この紙の価値を知っている人が世の中にはいるんです。
あなたは知っている人ですか?
この紙切れ、ただの紙切れですよ。科学的にどんなに分析しても「紙」ですが、この紙の価値を知ってる人は、それを得るためにあらゆる努力をします。
そしてそこからたくさんの希望と喜びを得ます。
しかし、この紙の価値を知らない人は、そこから得るものがありません。
未だに物々交換をしている原住民や、ブタや猫などの動物には紙幣の価値はわからないでしょう。
彼らにとっては、紙幣は無いものであり、チリ紙と同じ、ただの紙です。遊び道具です。
だから、聖書にも「豚に真珠を与えてやるな」と書いてあります。
このように、あると思えばあり、無いと思えば無いという世界に私たちは生きています。
金融用語では「信用」といいますが、お金は私たちが「信じている」という事実のみをもって存在します。
昔は金の保証があったけど、先生が生まれたくらいの頃に廃止されました。
そして、この信用が揺らいだ時には「信用不安」となって経済に大打撃を与えます。
2009年のリーマンショックは最悪でしたねー。
「無いと思う」ということがどれだけの損失を生むかってことがよくわかる事例です。
もう二度と体験したくないけど。
天国があるかないかを、お金の話で例えてみました。
天国があると思う人にとっては、そこからたくさんの希望と喜びを得ることができます。
もちろんただの妄想じゃダメですよ。自分で「1000000000」て書いた紙を持っていても価値はありません。しかるべき門を通らなければなりません。
お金では得られるものは限られていますが、天国については得られるものはもっと多様であり、またとても多いです。