愛=好き、だけではない聖書の愛

今朝の御言葉では“愛”について話してくださいました。

“愛”というと「好き」という感情のことだけを私たちは考えますが、神様の愛はもっと大きくまた目的があるものだということがわかる話でした。

聖書は創世記から黙示録まで“愛”なんだと仰いました。

聖書をふつーに読んでも、僕らが考えるような“愛”を感じることはそう多くはありません。誰と誰が付き合って、とか、あの先輩が気になって、イケメンで、といった話は聖書にはまったくありません。

でも、聖書は“愛”なんだと。

神様の愛で、歴史は進んできました。

また、神様は人間を愛したけど人間が神様を最後まで愛さなかった時、歴史は壊れました。

私たちが考える“愛”とは違いますね。また、私たちが考える“歴史”とも違います。

神様と人間の愛いかんによって歴史が進んだり止まったりすることを、先生は男女の愛をたとえにして話しました。

「はじめは男が女を愛する」のだと。

この話はなんとなくわかりますね。

でも、「結婚したら女から男を愛する」のだと。そう話されました。

ふーん、そういうものなのか。

「女性が男性をつかんでこそ、命の働きが起こる」のだと言っていました。

たしかに、命というのは、女性が男性を受け入れてから始まるものです。

そんなふうに、歴史も大きくなってきたのだと。

やっぱり私たちが考える歴史観とは違いますね。

先生は最後まで神様を離さなかったという話もされました。今も、どんな目にあっても神様を離さない先生がいて、私たちはその姿を見ています。

歴史は愛いかんで大きくなり、また崩れるものだという話でした。

これはより霊的な愛の話ですね。霊で、三位と1つになった時、大きな歴史が起こります。

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