無念な思いをした時こそもっと神様に近づく

今朝の御言葉では、昨日に引き続き、困難や無念な思いをした時にはどうすべきか、について話してくださいました。

昨日は“感謝”についての話でしたが、今日は“義を行うこと”を話されました。

行いをもっと完全なものにして、“神様の公義の審判を待つ”ことが、誰よりも無念な思いをさせられてきた先生が今までやってきたことです。

この話は、こういう見方もできると思います。

無念な思いをさせられた時に、無念な思いをさせた人を見るのではなくて、もっと神様を見るのだということです。

ここで、無念さに心が囚われることが一番怖いことなんです。

考えると「感じ」で通じると御言葉で仰いますが、無念な思いをさせられた人を考えて「無念だ、あのやろう」と考え続けることは、その人といつも一緒にいるようなものです。実際は、その人自身というよりは、自分の中で歪曲されたその人の姿、つまりサタンといつも一緒、暮らしているようなことになります。

そうしたら心はずっと地獄、やるべきことがやれなくなってしまうし、その結果得られるものも得られなくなってしまいます。

先生は、そうした“絡みつく罪”に打ち勝ちました。

獄の中で歌作ってるほどだからね。聞いてると「なんだか平和だなあ。」と感じます。先生の状況を知らなかったら、誰も獄中でこの歌が作られているとは考えないでしょう。

先生は、自分が何をされたかにはあまり関心がなくて、永遠なものを残すことに関心があります。

御言葉もそう、歌もそう、月明洞もそう。

今日の箴言を見ても、ひたすら“永遠に残るもの”霊について話をしています。

なんでこうなった?サタンはね、こういうの困るんですけども。

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