人前で話す時に必要なのは「自分が温まっていること」

あまり親しくない人と話すときや、人前で発表する時に必要なものは「自信」です。

自信とは「自分を信ずる心」だと辞書には出てくるのですが、このブログは摂理のブログなのでもう少し深く考えて見たいと思います。

自信を持てと言われて無理やり「自分はできる、できる!」とおまじないをかけてもできないときはできません。手のひらに「人人人」て書いて飲み込んでもやっぱり緊張します。

無理しているのが周りに伝わってしまい、場が冷めてしまったり、不信感を抱かれてしまったりして、うまくいきません。

摂理の御言葉ではどういっているのか。

「胎が温かい時に命が産まれる」

先生はこういう表現をします。これについて少し考えてみたいと思います。

命は、愛で生まれます。そして、お母さんがちゃんと健康であってこそ、健康な命が誕生します。

これは、人と話す時にも言えることなんです。

つまり、自分が十分に温まっていてこそ、相手の心も動いて打ち解けることができ、目的を成すことができるということです。

だから、自信とは「自分にエンジンがかかっていること」だとも言えるでしょう。

御言葉では「聖霊の火」というものがあって、これが一番強くていろんな不可能なことを可能にするのですが、それについては先生から学んでみてちょ。

自分が温まっていないと、それが周りになんとなく伝わってしまって自分なりに頑張って素晴らしい話をしてもうまくいきませんが、温まっていると、それが相手に伝播して、たとえ話している内容が少し不器用だとしても成果が出ます。

そうであるということを、僕は教会のメンバーから学びました。

うちの教会の人たち、何言ってんのかわからないときがあるけどとりあえず熱いんですよねえ。

目に見えるものは目に見えないものから始まる

僕が就職活動をしていた時に、ある企業の面接で話が弾んだことがありました。

大きな会社のグループ企業で、規模がわりと大きな会社です。

その時にけっこう突っ込んだ話をしたのですが、今でも覚えている質問があります。

面接官「会社は大きくなると何もしない人が出て来るものなのですが、そういう人に我慢ができますか?」

あっけにとられました。なんと答えたか忘れてしまいましたが、この質問内容だけはよく覚えています。

組織は大きくなると安定します。そのぶん、あぐらをかいてしまう人がいる。何人かがサボっていても業績に大した影響はありません。

企業ブランドがあれば、その名前を出すだけでみんなが「おおー!」と言うから、見栄に走る人も出てきます。

これが、腐敗の前兆です。

見えるところばかりに神経を集中して、初心を忘れた状態です。

しばらくはそのままでもやっていけますが、けっきょく見栄を張るためには自分が無理をするか誰かを見下さないといけないので、次第に不満がたまっていきます。

その結果、息切れして続かなくなったり、または踏みつけられた人たちが革命を起こすようになります。

歴史はそんなことの連続でしたね。

冒頭の企業も、その創業当時は「世の中をこんな風にするぞ」て感じで、きっと人数も少なかっただろうけど希望に満ちて事業をしていたはずなんです。

希望は目に見えないものですが、それが核となって様々なものを得させます。

そうしてだんだんと組織が大きくなって、誰もが知る企業になりました。

すると事業は楽になります。

そこで楽になったことを感謝をするのではなく、怠けて、初心を忘れてしまうのはズレですね。

先生は、どんなに組織が大きくなっても全く変わることがありません。

今も昔のように、神様を愛して、忙しく走っています。

封印を解いた人がその世界を見るようになる。

深くその世界に入っていくと様々なものを見つけることができます。

それが「悟る」ということです。日曜日の御言葉では悟ることについて詳しく話してくださいました。

そして今朝の御言葉は「感謝」についての話でした。

感謝もすればするほど感謝の世界を見つけるようになるといいます。

これは、感謝の世界について悟るといっても良いのではないでしょうか。

神様は、様々なものを封印しておかれました。

その封印の世界を解いた人が、その世界を見るようになるといいます。

感謝の世界も封印されていて、その封印を解いた人がそのせかいをみるようになります。

たとえ話として、海の話がありました。

海についても、その封印を解いた人がその世界を発見しました。

七つの海を発見した人がいましたね。

昔は、海には巨大クラゲがいるだとか、海の先は絶壁になるだとか、地球は亀が支えているだとかという話が本当の話として信じられていました。

観念的な世界でした。

つまり、当時は海については封印されていたんです。

ジパングという黄金郷があるという話もありましたね。

ジパング、ジャパンね。ここだよー。

海について様々な幻想が存在し、みんながそれに酔ってたくさんの物語ができたり、または怖れて崇めていたりしました。認識が間違っていました。

そうした封印されていた時代から、大航海時代が起こって、世界について様々な封印が解かれるようになりました。

地球は丸かった。マジかよ。

宗教についても同じです。

誰もが観念的な認識を持っています。

つまり封印されている世界です。

それを解こうとした人が、2000年前に存在しました。

イエスキリストがそうであり、また仏陀や孔子もそうでした。

当時は霊界の封印を解くことについての時だったんですね。ちょうど大航海時代にみんなが海に出たように、宗教の時代が2000年前に一度ありました。

海を渡ることがとても大変だったように、霊の世界、愛や感謝の封印を解くことも、とても大変な思いをしたことが歴史書からわかります。

そうして一部が明らかになり、多くの人がその恩恵を受けていきています。

でも、まだわからないことがたくさんあります。

その封印を解くことにチャレンジして見つけているのが、先生なんですよん。

量子力学の世界と御言葉の世界

今日の御言葉を聞いていて、すごく気になってしまったのは「考え」についての話です。

先生は「考え」についてすごくたくさん話をされます。そして今の環境下でも、感覚でわかっていろいろなことをされています。

体が自由な僕らよりもやってることが多いです笑

今日も「考え」についての話がとても多かったのですが、話を聞くほど、僕には量子力学と重なっているなあって思うんですよ。

最近、ニュースでもよく取り上げられる量子の世界。

今までの物理法則とはまた違った性質を持っていて、アインシュタインが「気味が悪い」といったほどです。

たとえば、「量子テレポーテーション」。

物質が瞬時に移動することをテレポートと言いますが、かつてファンタジーの世界でしか語られなかったこの法則が、今では実際にありえるということが証明されています。

史上初、水中での量子テレポーテーションに成功

最近のニュースでもよく取り上げられています。

ここで注目なのは、「一瞬で移動する」ということと、「情報が移動する」ということ、そして「最高のセキュリティを持つ」ということです。

量子は一瞬で数千キロを移動します。Aの状態が変わると、それに合わせてBの状態が一瞬にして変わるというのが量子テレポーテーションです。

これを御言葉ではなんといっているでしょうか。

<考え>は「光」より数百兆倍もっと速いです。

御言葉の途中ここで笑ったやついるやろ。「数百兆倍とか規模でか過ぎやろwww」つって。悔い改めなさい。

量子は光より速いです。一瞬で移動します。

まと、量子は情報が移動するという点です。物質そのものが移動するのではなくて、そこに含まれている情報が移動することで、出発点と目的地は同じ状態になる、というのが量子テレポーテーションの技術です。

はい、御言葉ではこうおっしゃっていました。

◆<天国>は「考え」れば、「霊の体」と一体になって、行くことができます。
<考え>でどこかに行こうと思って、目的地を考えて出発すれば、<考え>が「実相」になって、<霊の体>と共にその位置に瞬間移動します。

「瞬間移動」出ました!そしてこう続きます。

◆(重要)<天国>では「考え」れば「実体」になるけれども、どうやって「天国で可能なこと」が「地上」でも可能かと言うのですか?
<考え>は「肉の脳」に属していますが、「霊の世界の側(がわ)のものだから」です。

むずい。「考えは肉の脳に属しているものだけど霊の世界の側のもの。」ってどういうことでしょう。

「考え」は情報といいかえても良いものですが、それは肉の脳に属しているけれども、霊の世界のものだといいます。

肉の世界と霊の世界で共通して持っている情報が「考え」なんですよ。

だから、肉としてはこの世の中にあるわけだけれども、「考え」というツールを通して向こうにあるものと同じものを共有しているということです。

むずい。説明もむずい。次に行きます。

量子テレポーテーションの技術は「最高のセキュリティ」を持つと言われています。情報が漏洩するのは途中で盗まれるからですが、量子の場合は「途中」という概念がないので盗まれることはありません。

以前、御言葉では「神様と人との間には専用線がある」という話をされたことがあります。

専用線とは、他の情報が入らない一対一のセキュリティの高い通信線のことです。

こんな風に、いろいろな共通点があります。

御言葉の中には、現代科学でなお研究中の分野についての秘密が隠されてるんですね。

ただ聞いただけではわからない「御言葉の価値」。知るだけでなく悟る段階に行きたいですね。

切実に悟って、そのときに行なう

今日は「悟ること」についての御言葉でしたね。

「知る」と「悟る」というのは違います。

健康について、「健康管理が大事だ」と頭でわかっていることが「知る」ことで、実際に病気になって「身に染みてわかる」ことが「悟る」ことです。

健康については、私もわりと悟ってる方ですよ。

なにせ歳を重ねてますから笑

周りで亡くなった方もいるし、大変な病気にかかった方もいます。

それがあまりにも唐突だったりするので、僕も自分にもいつそのようなことが起こるか、健康管理は本当に大事だと思って生活しています。

でも、若い子にはこれがあまり切実でないんだろうということを感じます。

無茶できますからね。自分の体のことを考えるより「もっとでかいことやりたい」という時でもあるので、健康については優先順位が低くて当然です。

僕みたいなおっさんがLineに切実な思いで健康のことを投げても反応が薄いです笑

若いときには若いときにやるべきことがあるし、老練になったらそのときになって気がつくことがあります。

つまり「悟る」というのにも時があります。

今日の御言葉では「悟ったときにやりなさい」ともおっしゃいました。

時がいたって「悟る」時がきます。そうしたらそのときにやりなさいと。

神様は順理で導かれるということがわかりますね。

そして、やるべきときに集中してやりなさいともおっしゃいました。

考えを鋭利にして行いたいですね。

力が抜けるときには、神様のことを考える

土曜日の昼どき、いかがお過ごしですか。

休みの方はゆっくり過ごされているでしょうか。

僕も、少し気が抜けてブログの更新がいつもより遅くなってしまいました。

休みは時間の使い方が自由であるぶん、怠けてしまいがちなのがネックですね。

平日より頭がスッキリ回っていない感じもあります。

「たまの休日なんだからそれでもいいじゃん?」という思いもありますが、僕は「仕事があるからやる気が出る」って状態があまり好きではないんですよ。

自発的じゃないじゃないですか。

先生が好きなのは、みんなが「自動式」で動くことです。

やらされて動くことではなく、好きで、嬉しくてやること。

だから、「仕事があるときは無理やりやる気出す。ないときは死んでいる。」というのは、環境に左右されていることだから、僕はあまり好きではありません。

でも、そうはわかっていても気が抜けるんですよねえ。

今朝の御言葉では、伝えてくれた方がリズムが崩れて力が出なかった時にどうしたかを話してもらいました。

雑然とした周りの環境に左右されると力がどんどん抜けますから、そういうときは主を考えると力が湧いてくるんだそうですよ。

あなたを創った神様は、あなたが活き活きとした姿でいてくれることを切実に願っています。

その思いに少しでも気がつくことができたら、力が湧いてきそうですね。

対話がお互いの心をほぐす

対話の重要性について話してくださいました。

先生は「人は対話をしないと悪感情がわく」と話します。

たしかに、話さないと(この人はなにを考えてるんだろう)と思ってしまいますね。良い感情よりも悪く考えてしまう可能性の方が高いです。

あまり良く思っていなかった人が、対話をしてみたらけっこう気が合う人だったというのは、よくあることです。

僕も無口な人なので「対話しなさい」と言われるたびにギクリとしてしまいますが、対話をしてこそお互いの気持ちがわかって心がほぐれますし、協力してやるべきことが進むようになります。

神様とも、対話をしてこそ神様の心がわかり、私たちの思いが届きます。

「神様っていったいなんなのだろう」という時には、対話をしてみてはいかがでしょうか。

神様の意外な一面が見られるかも。ふふふ。

どう対話したら良いのか、それは対話が得意な先生に学ぶのが良いと思いますよ。

「祈りは対話だ」

無念な思いをした時こそもっと神様に近づく

今朝の御言葉では、昨日に引き続き、困難や無念な思いをした時にはどうすべきか、について話してくださいました。

昨日は“感謝”についての話でしたが、今日は“義を行うこと”を話されました。

行いをもっと完全なものにして、“神様の公義の審判を待つ”ことが、誰よりも無念な思いをさせられてきた先生が今までやってきたことです。

この話は、こういう見方もできると思います。

無念な思いをさせられた時に、無念な思いをさせた人を見るのではなくて、もっと神様を見るのだということです。

ここで、無念さに心が囚われることが一番怖いことなんです。

考えると「感じ」で通じると御言葉で仰いますが、無念な思いをさせられた人を考えて「無念だ、あのやろう」と考え続けることは、その人といつも一緒にいるようなものです。実際は、その人自身というよりは、自分の中で歪曲されたその人の姿、つまりサタンといつも一緒、暮らしているようなことになります。

そうしたら心はずっと地獄、やるべきことがやれなくなってしまうし、その結果得られるものも得られなくなってしまいます。

先生は、そうした“絡みつく罪”に打ち勝ちました。

獄の中で歌作ってるほどだからね。聞いてると「なんだか平和だなあ。」と感じます。先生の状況を知らなかったら、誰も獄中でこの歌が作られているとは考えないでしょう。

先生は、自分が何をされたかにはあまり関心がなくて、永遠なものを残すことに関心があります。

御言葉もそう、歌もそう、月明洞もそう。

今日の箴言を見ても、ひたすら“永遠に残るもの”霊について話をしています。

なんでこうなった?サタンはね、こういうの困るんですけども。

感謝が困難を乗り越えさせる

今日は感謝の御言葉でした。

誰にでも大変なときはあるけれども、感謝をして乗り越えるのだと言いましたね。

そして、先生がたくさんの困難を感謝で乗り越えてきたことを話されました。

本当に、たくさんの困難がありました。今もまだ困難の中にいるけれども、10年間毎日神様に栄光を帰していた姿を私たちは見ました。

数ある困難の中の、どの瞬間かでも落ち込んだり諦めたり憎んだりしていたとしたら、これから起こるはずの宴会のひと時もなかっただろうと思います。

そして、その「無い」という状態が現実のものになっていたはずなんです。

新しい歌も無い、月明洞も無い、愛する弟子たちもいない。

獄を出てきて寂しい余生を暮らすのが、感謝しなかった人、というか普通の人は皆そうです。

映画で見たことあるじゃないですか。

木枯らしが吹く中、無骨な建物の鉄の門を開けて出てくる1人の男。彼は10年前に濡れ衣を着せられてここにいることになった。当時こそ少し世間を賑わしもしたが、10年経った今、あの事件を覚えてるものは誰もいない。世の中は自分の幸せを追いかけるために忙しいのだ。彼の出所を祝ったのは、長年彼の世話をした看守1人だけだった。さあ、これからどこに行こうか。男はひとつ身震いをして、曇り空の中に足を踏み出した。

つって。重いねー。

でもこういうのが普通なんですけどね。「人生終わった」と思うのが普通でしょ。

でも、先生は勝利したんだよ。

先生が出てくるとき、木枯らしが吹いてるのは変わらないとして、帰る場所があり、そこが大きく栄えていて、たくさんの人が待っていて、というのがあり得るのは、ただ感謝して困難を乗り越えてきたからに他なりません。

こういうのねー、サタンとしては、とっても困るんだけどね。

認識を変える必要性についての御言葉でした

今朝の御言葉は「認識を変えること」について話してくださいました。

自分の周りを虫が飛んでいて気になるようなときには、その場所を離れてこそ気にならなくなります。

この考えも、気になるところから考えを変えて抜け出してこそ、気にならなくなります。

この話、目的を持っている人には特に重要だと思ったのですがどうでしょうか。

何かを目指しているとき、周りがいつも味方してくれるわけではありません。

あなたが何を目的としているか知らない場合もあるだろうし、「それを目指してどうなるんだ。それより遊ぼうぜ」と誘ってくる人もいるかもしれません。

そういうときは、考えを変えてこそ環境も変わり、集中して自分のすべきことができるようになります。

日本人には相手に合わせることがうまい人が多いですが、今日の御言葉では「環境の苦痛を受ける人が多く、力を発揮できている人が少ない」と御言葉でおっしゃいました。

いつも神様の考えで判断したいですね。

もちろんそれは、「人のことなんかどうでもいい!なりふりかまわず夢に向かって突進する!」という意味ではありません。

聖書には「敵を愛せよ」と書いてあります。「親を敬え」とも書いてあります。「上司につかえよ」とも書いてあります。