愛=好き、だけではない聖書の愛

今朝の御言葉では“愛”について話してくださいました。

“愛”というと「好き」という感情のことだけを私たちは考えますが、神様の愛はもっと大きくまた目的があるものだということがわかる話でした。

聖書は創世記から黙示録まで“愛”なんだと仰いました。

聖書をふつーに読んでも、僕らが考えるような“愛”を感じることはそう多くはありません。誰と誰が付き合って、とか、あの先輩が気になって、イケメンで、といった話は聖書にはまったくありません。

でも、聖書は“愛”なんだと。

神様の愛で、歴史は進んできました。

また、神様は人間を愛したけど人間が神様を最後まで愛さなかった時、歴史は壊れました。

私たちが考える“愛”とは違いますね。また、私たちが考える“歴史”とも違います。

神様と人間の愛いかんによって歴史が進んだり止まったりすることを、先生は男女の愛をたとえにして話しました。

「はじめは男が女を愛する」のだと。

この話はなんとなくわかりますね。

でも、「結婚したら女から男を愛する」のだと。そう話されました。

ふーん、そういうものなのか。

「女性が男性をつかんでこそ、命の働きが起こる」のだと言っていました。

たしかに、命というのは、女性が男性を受け入れてから始まるものです。

そんなふうに、歴史も大きくなってきたのだと。

やっぱり私たちが考える歴史観とは違いますね。

先生は最後まで神様を離さなかったという話もされました。今も、どんな目にあっても神様を離さない先生がいて、私たちはその姿を見ています。

歴史は愛いかんで大きくなり、また崩れるものだという話でした。

これはより霊的な愛の話ですね。霊で、三位と1つになった時、大きな歴史が起こります。

摂理人の何気ない日常 〜礼拝の後の時間編〜

今日の礼拝の後、いろいろな人と話をしました。

中学二年生の男の子と話をしている時に「一緒にご飯を食べに行こうよ」と言うので近くのうどん屋に連れて行きました。

連れて行った後で(家でご飯用意してたとしたらまずかったな)と気づいたのですが、後でお母さんに謝れば大丈夫だと思いました。

この子とも、この子のお母さんとも仲が良いからです。

うどんを食べた後、彼はうちまでついてきました。

しばらくそこで話していたら、2人とも眠くなって、寝そべりながら話しているうちに寝てしまいました。

少しして起きてから(今日の御言葉では時間の大切さについても話されていたんだった)と気づいたのですが、神様に謝れば大丈夫だと思いました。

神様とは仲が良いからです。

その子が「この後の時間よていがない」というので、外に連れ出しました。

自転車で移動している途中、有名な駄菓子さんが近くにあると彼がいうので、そこへ寄りました。

江戸時代からあるお店で、そこで駄菓子2つとラムネを2本買いました。

今日は暑かったので美味しかったです。

駄菓子屋のおじいさんやお客さんの話をして、それから百貨店に行きました。ブランドものの服を横目で見ながら、靴のショップに入りました。

(高い…)買うのを諦めました。

2人で街を歩いていると、東急ハンズが見えてきました。彼が「行ってみたい」というので店に入りました。

彼は文房具とおもちゃに興味があるようでした。

ボールペンのインクが欲しいというので、買ってやりました。

暗くなってきたので帰ることにし、彼を家の近くまで送りました。

遅めの夏休みを体験した気分でした。

神様の創造目的をわかってこそ自分が何をすべきかもわかる

今日の御言葉では「神様の創造目的」について話してくださいました。

神様がどのような目的を持って宇宙を創り、地球を創り、人を創ったのか。

それは〈愛の目的〉のためです。

人が、<新婦の立場>で三位に「愛」で接し、三位と言葉も通じ、対話も通じ、考えと行ないも通じて、満足して生きること。

これが目的です。そのためにあまりにも長い期間をかけて、天地万物、人々を創って来られました。

その過程で、数億もの苦痛があったといいますが、その苦労が実って今があります。

この「神様の目的」をわかってこそ、私たちは自分の人生の目的も見つけることが出来ます。

「自分はこの人生で何をしたら良いのか」の答えは、「神様がどういう目的をもって今は何をしようとしているのか」によります。

それはたとえば、夏から秋になろうとしている今の時期に「自分は何を着たら一番快適なのか」がわかっていることと同じです。

「神様は時だ」とも仰いますが、神様の時にぴったり合わせて行うことが人にとって一番幸せなことです。

秋に秋刀魚を食べるのが美味しいんです!秋に色とりどりの夏野菜を食べるのは、美味しいんですがちょっとずれていますね。夏に食べるほどの美味しさを感じることはできません。

秋の夜長に本を読むのが一番捗ります。先生は本を書いているそうですが。冬の寒い時期には本を読んでも入って来ません僕は。しかも冬は何かと忙しいですしね。師走っ!

身近な例をあげましたが、もっと大きな視野で見た時に、神様が動かしている「時」というものがあります。

それを知り、わかって行うことが、わたしたちにとって大きな喜びになります。

「神様はこの時代、<愛>を「最高の基準点」と見なします。」と仰いました。

今は愛の時代です。争いの時代は終わって、愛の時代です。

ちょうど先生が生まれた年に世界大戦が終わって、今まで世界大戦は起こっていません。

「いつか第三次世界大戦が起こる」という意見もありますが、それを本気で考えているのは北朝鮮くらいなもので、先進国同士はお互い警戒している現状はあるものの、(もう、戦争って古いよな)ということをなんとなく感じはじめています。

今は<愛>が「最高の基準点」になっている時です。

そのような時だから、今は愛を行うことが、一番栄えることなのだということを思いました。

話してこそ神様も働いてくださる

昨日の御言葉では、神様は「話すことがなくても、会いにきてくれただけで嬉しい」のだと仰いました。

しかし、一方で「話さなければわからない」という現実もあります。

今日御言葉を伝えてくださった方は、人に話せなくて2週間ひとりで考え込んでいたことが、ある人に話したら5分で解決したのだと仰いました。

周りから見て(あの人困ってるんじゃないかな)ということがなんとなくわかっていたとしても、実際の声がかからないと動けないってことがありますね。

神様に対しても、「わかってくれるはず」と思わないで話しなさいと仰いました。具体的に話したらふさわしく働いてくださるってよ。

言葉は人間に与えられた「表現する方法」というプレゼントなんだと仰いました。

僕は歌手の使命をやっていますが、(この思いを受け取ってください!!)という熱い思いだけでもって、前に突っ立って何も表現しなかったら、やっぱりみんなも神様も「えっ」て思うしかないと思います。

もらったものに感謝して、様々な表現で神様に栄光を帰したいですね。

「話さないと気まずい問題」を解決しよう

「会ったら話をしなければならないのか」問題というものがあります。

「会ったからには話をしなければならない」、「話すことがない時間が気まずい。」

このように感じる人は多いですし、私もいつも感じます。

たとえば会社の飲み会の時、5人10人も人がいるのに誰も話さなくなる瞬間ってあるじゃないですか。

そういう時、気まずいんですよねー。

まるでゴッドファーザーの映画で、ファミリーが長いテーブルを囲んで静かに食事をしているシーンのようになります。

薄暗い部屋の中、フォークを動かす音だけがする、あの緊迫した雰囲気。この中の誰が裏切り者なのか…。

こわっ。

そうなってしまわないように、誰かが「あはは、今日はみんなおとなしい人だから、静かな飲み会だねっ」といって雰囲気を作ろうとしてくれたりして、みんな「そうだねっ、ははは」と笑ったりして、この流れをどうにか変えなきゃいけないと焦って、と、なかなか厳しいものがあります。

話すことがないときはダメ。

そうした風潮に、今日の御言葉では「そんなことはないよ。」と話してくれました。

私たちから話すことがないとしても、神様から話すことはたくさんあります。

なぜなら、愛しているからです。

愛しているから、会いにきてくれただけで嬉しい。

それが神様の気持ちなんですね。そんな愛を、先生はいつも現してくれています。

本当に愛している人同士って、会話がなくてもわりと平気だったりしますね。

会えれば、気持ちのやりとりができて、それで満足。恋人同士ではそういうことがありますね。

ヘタに話すと逆に雰囲気が壊れたりします。

また、家族もあまり話をしなくても大丈夫な存在です。

「とにかくいてくれたらいいんだ。」親は子どもにそう思っています。

親元を離れてる方は、定期的に親に連絡とった方がいいですよー。

会えればそれで満足しますので。

好きだからたくさん話したいことがあるということもあります。好きだから話さないでも大丈夫だということもあります。

どちらにせよ、愛を中心にして行なっていきたいですね。

頭が働かないときの「感謝」の効用

頭がうまく働かないときの解決法にはいろいろありますが、今日の御言葉では感謝について話してくださいました。

感謝をすれば大きな力が湧いてきます。

逆に、感謝をしないとやってることを息苦しく感じたり、不平が出てきてしまってやる気がなくなってしいますね。

神様に感謝をすることは、愛を表現することです。

神様は行なった通りに報いる方だから、感謝を神様に与えれば、その見返りが必ずあるのだと今朝の御言葉で仰いました。

だから、感謝をすれば力が湧いてきます。

また、酸素を胸いっぱいに吸い込むと頭がスッキリするように、感謝もたくさんすると複雑な心がスッキリします。

感謝はたくさんした方が良いですね。

先生はよく「みんな感謝にケチだ」と言います。

感謝をすることは呼吸をすることと同じで、酸素はたくさん周りにあるけれども、私たちが行っていないから本当に贅沢なんだと言います。

先生はいつも感謝をしています。「聖書は感謝にはじまり感謝に終わる」と言うくらいの感謝人(かんしゃんちゅ)です。すいません造語です。

昔、私は摂理の先輩に「呼吸をするように感謝したらいいよ」と教えてもらいました。

本来は呼吸できることも感謝ですよね。自分ではあまり意識もしていないのに、生きるために必要なものが供給されているのだから。

だいたい4秒に1度呼吸をしているとしたら、1日に2万回感謝のチャンスがあります。

他にも探してみたら、たくさん感謝することはありそうですね。

会話が弾まないときに足りてないもの。熱量!

対話がうまく弾まないときにはどうすれば良いでしょうか。

うまくいかない時に必要なもの、それは「集中」です。

これは何かに取り組んでいる時もそうだし、また対話でも同じです。

話がなぜか噛み合っていないのは、対話に集中できていない時なんだということです。

今朝つたえられた御言葉では「主との対話がうまくいかなくて、集中が必要であることに気がついた。」と仰いました。

「集中」というと勉強するときや仕事をするときなど、1人で何かをするときにだけ使うもののように思いますが、2人で対話をするときにも必要なものです。

もちろん、そのときには「集中しているかどうか」とは言わずに「会話が弾んでいるかどうか」とか「気が合うかどうか」、「盛り上がっているかどうか」という言い方をします。

会話が盛り上がらないのは、相手に何か心配事があるかなにかで別のことを考えているときです。

「会話中にスマホをいじるのは失礼」というマナーが言われることがありますが、これの意味することは「会話に集中しないで別のことを考えるのをよしなさい。」ということです。

この脳は一度にたくさんのことを考えるほど熱が冷めるようになっています。

それは冷静であるということでもあるので、あちらからも見て、こちらからも見て確認するべきときには必要なことです。

しかし、熱をもって肉を茹でるようにグツグツ煮込むべき時もあります。対話をする時も、周りがどうこうでなくて一対一で熱心に話すべき時もあります。

その対話の鍋に水を入れては料理が出来上がりません。文字通り「会話に水を差す」ことになってしまいます。

対話がうまくいかない時に必要なものは集中です。

ちなみに、このブログも周り気にしないで集中して書いてます。

このブログを読んで僕本人に会うと「なんか雰囲気が違う」とよく言われます。

それは、いつもはわりと客観的で、わりと冷めてるからです。熱量が違うのです。ご理解いただけると幸いです。

「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」
‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭3:15‬

熱く対話しましょう。

天国はあると思う人にはあり、ないと思う人には無い

天国があるという人もいるし、ないという人もいます。

これは実際にあるかないかではなく、その人の意識が決めていることです。

実際にあるものでも、無いように思う人にとっては無いということが真実になります。

あると思うからそこから希望と喜びを得て、無いと思っていたらそこから希望も喜びも得ることができない。

こうした話は、信仰を持っている人がよく使う詭弁のようにも思えますね。

しかし、そうではありません。

私たちの日常の中にある「あると思えばある」「無いと思えば無い」の代表例をあげてみましょう。

ここに紙切れがあります。どこからどう見ても紙です。

長方形です。紙には、歴史の偉人の肖像画と数字が書いてあります。

ある紙には「1000」と書いてあり、ある紙には「5000」「10000」と書いてあります。ときどき「2000」と書いてあるものもあります。

この紙の価値を知っている人が世の中にはいるんです。

あなたは知っている人ですか?

この紙切れ、ただの紙切れですよ。科学的にどんなに分析しても「紙」ですが、この紙の価値を知ってる人は、それを得るためにあらゆる努力をします。

そしてそこからたくさんの希望と喜びを得ます。

しかし、この紙の価値を知らない人は、そこから得るものがありません。

未だに物々交換をしている原住民や、ブタや猫などの動物には紙幣の価値はわからないでしょう。

彼らにとっては、紙幣は無いものであり、チリ紙と同じ、ただの紙です。遊び道具です。

だから、聖書にも「豚に真珠を与えてやるな」と書いてあります。

このように、あると思えばあり、無いと思えば無いという世界に私たちは生きています。

金融用語では「信用」といいますが、お金は私たちが「信じている」という事実のみをもって存在します。

昔は金の保証があったけど、先生が生まれたくらいの頃に廃止されました。

そして、この信用が揺らいだ時には「信用不安」となって経済に大打撃を与えます。

2009年のリーマンショックは最悪でしたねー。

「無いと思う」ということがどれだけの損失を生むかってことがよくわかる事例です。

もう二度と体験したくないけど。

天国があるかないかを、お金の話で例えてみました。

天国があると思う人にとっては、そこからたくさんの希望と喜びを得ることができます。

もちろんただの妄想じゃダメですよ。自分で「1000000000」て書いた紙を持っていても価値はありません。しかるべき門を通らなければなりません。

お金では得られるものは限られていますが、天国については得られるものはもっと多様であり、またとても多いです。

先生、御言葉を書きながら作曲を同時進行する

やっと気付いたのですが、今週の主日の御言葉は、先生が作った歌「祈りは仕事だ」と同じです。

2. 祈りは煮込むことだ
ぐつぐつ 火を通すことだ
時間かけて 熟す実のように
四十、七十、百十日 祈り熟させることだ
神は喜ばれ 答えられる
祈りは対話だ 対話をして解くことだ
落胆せず信じ 最後まで祈りだ

御言葉が歌になり、歌が御言葉となって伝えられるのが先生流です。

きっと、御言葉を書きながら曲も作っていたのでしょう。

すごい時間の使い方ですね。無駄がなさすぎです。

僕たちもそのように時間を使いたいですね。

「仕事の時間は仕事だけ」とか「食事の時間は食事だけ」ではなく、「仕事をしながら主と対話」すれば、ただの仕事がもっと有意義な時間になります。

仕事を通してわかったことがあればそれを証に使えるし、食事をしながら主と対話をすれば経緯ができます。

いつも対話だと仰いました。

先生は「夢でも魂が活動する」と言います。睡眠をただの休息ととらえません。

祈り、つまり対話をすることは時間を有効に使うことでもあるのだと思いました。

祈りの必要性と、祈ってばかりいてはいけないことについて

今日の御言葉は、「祈りとは何か」「祈りはどうして必要か」について話してくださいました。

僕は「このタイミングで来たか!」と思いました。

なぜなら、つい先日の明け方の箴言で「病気になったら『祈ってばかりいないで』病院にも行って、定期的に健康診断も受けなさい。」とおっしゃっていたからです。

先生が3年祈っても病気が治らなかった話もされましたね。

そうした話を聞いたら、私たちは「そりゃそうだな。…ん?じゃあなんで祈ったりする必要あるの?」と思うじゃないですか。

ちっちっちっ、そんな私たちの気持ちなんかお見通しなんだぜ先生は。

今日はたくさん祈りの必要性について話してくださいました。

まずは、「祈れば考えが変わる」ということですね。

もう僕の体験レベルでしか話せませんが、お祈りは自分をチューンナップするような役割があります。

これはやってみないとわからない。これ以上の表現ができません。

判断力にキレが出て、余計な考えが入ってこなくなります。

周りから見ても「なんかオーラ出てるな」と感じます。

僕が顕著に感じるのは、お祈りをたくさんできてる時は「飲み会に執拗に誘われない。」

これ統計とったらすごく面白い結果出ると思うんだけど。

祈らないとやる気が出ません。その結果、自分には不利益なこと、不健康なことに対してあまり嫌気がなくなって、流されます。

そしたら、病気になりますね。

病気になったら病院に行かなくてはいけない。

自分の不注意で不健康を招いた場合、神様の奇跡を待つよりやっぱ病院に行った方が良いです。

祈りは対話だ

「祈りは対話だ」とも仰いました。恋人と対話することです。

僕は人と話すのがあんま得意ではないので、ずっと祈ってるというか考え事をしています。

そうしていて思うことは、祈っていることについてはよく気がつくけど、あまり熱心に祈っていないことについてはてんで感覚が鈍いということです。

人との対話でも「この人に会うといつもこういう話になる。」ということがありますよね。

神様と人間も同じです。

大きく見れば、大昔は神様と人間との関係性が遠かったから、それなりの対話しかできませんでした。

先生は、その関係性を近くして実践した人の1人ですね。

先生と神様は近しくなりましたが、みんながみんな近いわけではありません。

今の時代は神様と近い時代なんだけど、一人一人で見たらその関係性は多種多様で、対話の内容も様々です。

健康に関しても、祈りで深い対話をしている人もいれば、そうでない人もいるんじゃないでしょうか。

対話してなかったら、その分野に関しては気がつきません。

どんなに神様からサインを送ったところで、本人が気づかなければしょうがありません。

先生が「病院に行きなさい」というのは、裏を返せば「脳が固まっていて、祈りの焦点が合っていない。」ということなのかもしれませんね。推測っすよ、推測。

御言葉では、「教会のことについても祈りなさい。1人でもいれば、狙っているサタンが消える。」と仰いました。私たちの体も1つの聖殿なので、わかって管理をしていきたいですね。

重要なのは、「お湯が煮立って肉を茹でるように」熱く祈ることです。

長くなりましたのでこのへんで終わりにします。

じゃ、そろそろ1時祈りなんで。