「変化は見えないように起こる」が虫を通してわかる

今朝もいつものように2つの御言葉を聞きました。どちらもセミを通して話してくださいました。

セミっていろんな教訓を得られる生き物ですよね。

長い間を土の中で暮らして空を飛び回る姿とか、懸命に鳴いて求愛行動をするところとか。

幼虫が成虫に変化する姿もとても神秘的ですね。動画を撮られたことがあるかたもいるかもしれません。

僕は子供のころにカブトムシを飼っていましたが、イモムシから変化する様子はとても不思議でした。

イモムシ君はブヨブヨしてます。触るとただブヨブヨしてて、「やめてくれ」と言うかのように体をブニブニ動かすだけの、なんだかよくわからない存在です。

はじめはすごく小さくて可愛いのですが、どんどん大きくなってきてはっきり言ってキモいです。微妙に毛が生えてるし。

このまま大きくなると相当キモいんですけど、と思うところでサナギになります。

セミもチョウチョもそうなのですが、成虫になる直前って、外殻は変化がないように見えて、中は一度ドロドロに溶けるそうです。

一度ドロドロになってから、成虫の形に再形成されます。

そして形ができたら、殻を破って外に出てくるんですね。

ただのブヨブヨが、カブトムシは立派なツノを持つ力持ちになり、セミは飛び回り夏の訪れを知らせ、チョウは美しい模様を見せながら花から花へ花粉を運ぶ使命を果たします。

摂理人だったらここで「葬りなさい」を歌うしかないっしょ。

見た目では変化がないように思う時こそ、大きく変わっていることがあります。

そういう変化は本人はとても大変な思いをしているものです。

だから周りはそうした変化に敏感に気がついて接する必要があるし、大変な思いをしている本人はそれが自分が変わっている過程であるとわかって、あきらめないで最後までその変化をやり遂げることですね。

その先は違った世界になります。

価値を知っている人が多くを得て、知らないと得られない

今朝の御言葉では、「貴重さをわかる人が価値あるものを多く得る」と仰いました。

何が貴重で何が貴重でないのかを分別できる。そのような知恵のある人が得るものを多く得ることができます。

先生はよく陶磁器の話をされます。

骨董品の世界は、貴重さを知っている人と知らない人が分かれている世界だからです。

貴重さをわからない人は陶磁器を安く売ってしまい、わかる人がそれを買って博物館に飾って成功する、という話です。

日本でも「なんでも鑑定団」でおなじみですね。

素人目には貴重さがわからないものが、わかる人にはとても価値のあるものであることがあります。

世の中、値札がついてるものなんてほんの一部ですから、価値のあるものとないものを分別できる知恵が必要ですね。

御言葉に続く箴言では、健康について話されました。

「自分の健康」なんて特に、ふだんはあまり気にかけないけどめちゃくちゃ貴重なものです。

昔から「体が資本」と言われています。この体を貴重に思って使う人はたくさんのものを得て生きているし、むやみに使ったり怠ける人は得るものがありません。

先生は、健康管理のために運動や健康診断の話をよくします。

「信じれば治る」という類の話はしません。

「具合が悪ければ病院にも生きなさい」と言います。

信仰をもっていると、「祈れば治る」「信仰が良いから神様が病気にならないようにしてくれる」という思いをもってしまうことがありますが、そうした奇跡はなかなか起こるものではないことを話されました。

僕も思い込みをもつことがあります。

最近、歯医者に行ってないんです。

なのに、「たぶん大丈夫」という気持ちがあります。

はっきりいうが、根拠はない。

なぜ大丈夫だと思うのかというと、現実を知りたくないんですよね。

歯医者に行って、医者に「うわー!なんでこんなになるまで放っておいたの。これは大工事だ。10万円はかかるよ。」といったようなことを言われたら、と考えると少し怖い。

そうした現実から逃げるために「大丈夫だ」と思い込んだり「神様が守ってくれる」といった理由をつけているとしたら、間違いですよね。

たぶん神様は奇跡を起こしてくれないでしょう笑

信仰はそういうことのためにあるのではなくて、神様と愛を結ぶためにあるものですね。