今は自分から行うべき時代になっている

今は自ら行なう時だと言いました。

誰かに言われてやるのではなく、自発的に行なうことが求められているのが今の時代です。

社会が停滞している、政治が混乱していると言われて久しいですが、もう周りがなんとかしてくれる時代は終わって自分からやらないといけない時代なのかもしれませんね。

この前、ベーシックインカムのニュースがNHKで取り上げられていました。

誰でもお金がもらえるという、ベーシックインカム。世界中で導入が検討されています。

なぜなら、格差が広がっているし、これからAIが仕事を奪うといわれているからです。貧困対策です。

でも、心配なのが「お金がタダでもらえたら人はどうなるのか」という点です。

ある人は、生活のために働かなくてよくなった時間をほかの社会的意義のあるところに使います。ヨーロッパで行われている実験では、そのような結果が実際に出ています。その一方で、自堕落な生活をしてしまう人が出てくるだろうという話もあります。

もう、「自分から行なえるか」にかかってるんですよね。そういう時代になってきているのだと思います。

御言葉から、そういう時代の流れを改めて感じました。

でも、ただ「自分の思い通りにやる」ということではなくて、御言葉では「神様の構想と感動の通りに」ということが言われていました。

好き勝手にやることは簡単ですが、それが実を結ぶかはまた別問題です。

神様の構想の通りにやってこそ、今も甲斐があり、後でも実を結んで甲斐があります。

箴言では、先生が月明洞を作った際に神様の構想通りに行なったことを話していました。

神様の構想通りにやったからとても勇壮で美しくて、人がたくさん集まってきます。

自分の考えでやっていたら虚しく終わっていたかもしれません。神様の構想を受けたいですね。

いつもともにする神様

信仰が生きている人はいつも神様が共にするのだと言いました。

主日の御言葉でも、神様が共にすれば艱難にも打ち勝って目的地に行けることを話してくれましたが、今朝は毎分毎秒までともにするんだと言いました。

1人でいる時、みんなでいる時、様々な時がありますが、そのどの場面でも神様は一緒にいて自分を目的地に行けるように導いている。そのことを忘れないでまた1週間頑張りたいですね。

ゲームと人生の似ているところ、違うところ

戦って勝ちなさい、と私たちを力づけてくれる御言葉でした。

礼拝の後、「今日の御言葉よかった」という人が何人かいました。

僕もそうです。わりと、男性にささるところの多い御言葉だったのではないかなという気がします。

「努力」とか「勝利」が前面に出ている話でしたから。「冒険」や「目的地」といった要素もありました。人生を楽しむことができるように認識し直してくれた御言葉でしたね。

僕は昔、ゲームが好きでした。ゲームはたいてい「冒険」とか「勝利」が絡んできますから、失礼ながら御言葉からゲームが連想されてきてしまいました。

〈人生〉は「瞬間立ち寄って行く旅路」と同じです。

ゲームや…

行く途中で困難に直面したといってへたり込んでいたら、何もできあがるものがありません。

ゲームや。

山奥の雑草をかき分けて〈目的地〉向かってみると、ある時は「蛇」もいるし、ある時は「獣」もいます。

モンスターや!

蛇がいたら、石を持ち上げて蛇の頭をつぶして、いくのです。

敵キャラとの戦闘や!!

〈自分自身〉は「自動車」と同じです。〈自分という車〉をもっと性能よく、安全にどんどん作らなければなりません。そうすれば人生を生きることがもっとよくて、易しく、楽です。

装備の強化や!!

行く途中「その主観圏にいる人」に会う時もあるし、「楽な場所」に出会う時もあります。

街と村人や!!

行く途中で止まったら、ちょうど旅人が目的地に向かって行く途中、宿屋に住みつくようなことです。

宿屋でHP回復や!!

と、こんなことばかり頭に浮かんできました。

人生はゲームに重なる部分もあります。というかゲームが人生を模倣したものです。

ただ、ゲームと人生が違うとは、ゲームは途中でやめられますが、人生はずっと続くということですね。

行く途中で止まって「楽な居場所」に座り込んだら、結局「その次元」に留まるようになります。行く途中幾度も「障害物」に遭うからといって落胆し、諦めたら、結局「そこで」虚しく終わるようになります。

旅の途中で諦めたら、その人生がずっと続くようになります。

僕は今までに何度か転職をしていますが、ある会社の上司がこういっていたことがあります。

「俺は柔道を頑張ってきた。その道で成功したいと思っていた。だが、あのオリンピック金メダリストに負けた。だから俺はこんなところで働いているんだよ。」

もちろん、スポーツの世界は一部の人しか勝てない世界ですからしょうがないことですが、未練の残る形で人生を過ごすのはつらいと、その言葉を聞いて思いました。

人生を行く途中には何度も困難にぶつかります。

それによって力を失ってしまうこともあるし、縛られてしまうこともあります。

だから、その鎖を断ち切り、力を与えてくれるものが必要です。

その核は、御言葉なんですね。

〈悔い改め〉さえすれば、神様は「罪の鎖」に縛っておくことをせずに、許して、放してくださいます。そしてまた挑戦するようにしてくださいます。

〈主〉は「神様の肉」になって、神様が予定なさったとおりに三位と一体になって、この世にすべて勝ったから、主の前にサタンも屈服し、世の中も屈服しました。
だから誰でも主と共にすれば、必ず勝ちます!

心を装うことを先生から学ぶ

装いをすることについて教えてくれました。

服を装うことではなくて、心を装うことについてです。

結婚式の前に新婦が装うことを例えとして話してくれました。装って新郎の前に出るように、装って神様の前に出ます。

新婦の装いをするためには、母親の手助けが必要です。

そのように、母親格の聖霊様に手伝ってもらって装いなさいと言いました。

先日、聖霊様は装いの神だという話もありましたね。

女性は装うことが上手です。僕は毎日同じ服の方が楽です。

それはともかく、昨日、先生の映像を見ました。

海外で、先生がお祈りの場所を探しに山へ登っている映像です。

祈りにふさわしい場所を探すためだけに、8時間もかけて、時には道に迷いながら山を登ったのだそうです。

そうして見つけた祈りの場所は、絶景でした。

さらに、祈りの場所の手前には、祈りの準備する場所みたいなところがあって、そこで十分に準備しないと祈りの場所には入らないそうです。至聖所ですね。

そこまで準備するのか、装うのか、ということが驚きでした。

僕も文章を書くときは集中できる場所を探してカフェをまわったりしてますが、なんか次元が全然違いますね。

先生は、そのように完全な準備をしてお祈りをしているから、神様と深い対話ができるのだと思いました。

ですが、ただ修行僧のようにストイックに山歩きをするのではなくて、途中で話をしながら、花を摘みながら、木にぶら下がって遊びながら過程を楽しみます。

そして、必ず道を作りながら進みます。後から来る人が楽になるように。

不安な心は聖霊で燃やす

聖霊を受けなさいと言いました。不可能に思うことも、聖霊を受けると自信がわいて行えるようになります。

その違いは水と湯のようだという話も箴言にありました。

水では野菜が茹でられないが、湯は野菜を茹でられます。

そのように、考えが冷めている時は「そんなことできない」と自信をなくしてしまうことも、聖霊の火を受けて考えが熱くなったらできるようになります。

聖殿の話がありました。ある小さな教会が聖殿を買おうとしていくつか候補が上がったけど、そのうちの1つは大きすぎて今の経済状況だと負担が大きいとのことでした。

こういう話、先生はけっこう具体的に対話してますよね。

それで、現状は負担があるけれど、将来は理想的だ、一丸となって大きなことをした方が良い、という感動があったそうです。

こうした自信は聖霊様から受けないと難しいです。

今は少し大変かもしれないけど将来はずっと楽になる選択をする。それは、はじめの負担がある時を乗り越えていかなければならないということでもあります。

そのためには、続けて聖霊の火を受けて、明かりを消さないようにして、進まなければなりません。

今、聖霊集会を定期的に行うという話や、明け方も導いてくれるという話も出てきています。

この機会を捉えて行ないたいですね。

神様の考えに合わせる

対話をしなさいと言いました。

相手の気持ちをわかるためには対話が必要です。神様とも、祈りという対話が必要です。そうしてこそ、身の回りで起こる様々なことの意味がわかるようになります。

箴言でも、神様と考えを合わせることについて話していました。1次元、2次元、3次元と漸進的に考えを高くしていって合わせるのだと言いました。

神様は注釈をつけないということも昨日の箴言でも言っていたので、私たちから考えを合わせて行ないたいですね。

先生と共に生きるってどういうことだろう

今は「自分のために祈る」時であるはずなのに、御言葉で「個人の次元を抜けて家族のため民族のために」とか「いまだに自分の悩みや問題の話が多い」と言ってることが多くて、いったいどうなっているんだ。

つまり、「自分のために」とは言えど、ただの個人としての自分ではなく、もうちょっと大きなスケールで自分を捉えて、自分のために祈らないといけない時なのだろうと思います。

御言葉でも、「結婚する前は愛し合うことだけをするが結婚した後はともに思いをなして行く」という話もありました。

お祈りの条件やってますが、時間、早いですね。先生と共に祈るというか、先生より早い気がします。

御言葉で聞いていた、先生が起きて祈る時間より、今私たちが起きている時間が早い。

以前、先生と共に走っていた方は、先生より早く起きて準備をしていたのだと聞いたことがあります。それと同じなのかもしれませんね。

共に走る時には、自分たちがもっと早く起きて先生が起きた時に「お早うございます」と気持ちの良い挨拶ができるのか、その練習をしているような気もします。

そう考えると意識変わりますね。

御言葉を聞いてると、時々先生寝坊してるじゃないですか。「起きたけどあまりに疲れていて、寝た姿勢のまま祈ってまた寝てしまった」という話が何回かありました。

リアルにそういうことが起こったら、私たちが起きてるのに先生が起きなかったら、私たちはどういう反応を示すでしょうか。

眠気で不満爆発するでしょうか。先生につまづくでしょうか。それか、心を落ち着けて待っているのでしょうか。

その時には自分の本性が誤魔化しようがない。そのように思いながら、僕も朝会の後は二度寝してしまうわけですが。

生活の中で消耗しないためには祈りが必要です

お祈りの御言葉でした。祈ることで、自分を悪い運命に連れて行くサタンに打ち勝ち、また自分の弱い心にも勝ちなさいと言いました。今必要な御言葉です。

御言葉に「キタリス」が出てきました。

調べたらけっこう可愛いのでしばらく見てしまいました。

引用:Wikipedia

かわい。ところが、この可愛らしさとはうらはらに樹木や若芽を食べてしまうので害獣とされることもあるそうです。

箴言では錯視の話がありましたし、以前に「外側は美しいが内側は違う」という御言葉もあったことを思い出させます。

御言葉では、キタリスが枯れ木の根っこを食べてしまう様子から、自分の信仰も枯れ木のように弱いとどんどんやられてしまう、強くなりなさい、と励ましてくれました。

根っこが深く丈夫な木は害獣がかじれません。社会に出ているとけっこうかじってくる系の人も多いので笑、気をつけたいですね。

今回、キタリスを通して気をつけなさいという話をしてくれましたが、もちろんこれは比喩で、キタリス自体が悪いという話ではありません。万物から教訓を得ることが根本です。

キタリスは名前の通り寒い地域に生息するリスです。これからどんどん寒くなっていきますね。先生のいる場所も守られるように祈りたいです。

3ヶ月続けて体質になり、3年続けて成果が出るようになる

証をして補充をしなさいと言いました。

この体も続けて栄養のあるものを食べてこそ健康が体質になるように、何かをなすためには続けて補充をしなければなりません。

先生のハチミツの話が印象的でした。明け方の空腹の時にスプーン1、2杯のハチミツを3ヶ月続けて摂っていたら体が良くなってきたと言っていました。

3ヶ月、およそ90日。それくらいは続けてやらなければなりません。

ちょうど今、110日のお祈りやってますが、これもちょうどそのくらいの期間です。

この前知ったのですが、筋肉は約90日で総入れ替えになるそうです。だからタンパク質を摂るにも、運動をして筋肉をつけるにも3ヶ月を目安に頑張りましょうと、雑誌で偉い人が話していました。

また、御言葉では3年という期間もありました。3年やってからがどんどん得るようになるという話。

先生も、青年の時に故郷からソウルに出てきてはじめはなんの成果もなかったけれど、3年経ったころから成果がではじめたという話がありました。

ほんとにそれまで諦めずに継続できるかですよね。

旧約聖書には、イスラエルの王ソロモンが1000日の条件を立てたことが書かれています。

私たちが毎日している仕事も、入社してから3年は「丁稚奉公(でっちぼうこう・下働きの期間)」と言われています。

はっきりとした成果を出せるまで、続けて補充していかなければなりません。

神さまの法は怖いものではなく、神様の願いであり祝福

神様の法についての御言葉でした。

「法」というと「怖い」とか「縛るもの」というイメージがありますが、神様が時代ごとに伝える法はつまり「神様の願い」であり「祝福」なのだと言いました。

まさに、守るべき「お祈りの条件」という方が与えられている今に必要な話ですね。

それを守ることで祝福があるから「お祈りしなさい」と言っています。別に無理やりいうことを聞かせたいとか時間を奪いたいから言っていることではありません。

神様の法だけではなく、この世にある法律は自分自身を守るために作られたものだという話もありました。交通法を守らなければ事故にあうように。

思うに、法律が「怖い」「縛るもの」と感じてしまうのは、それを扱う人が利用するからですね。

法律そのものは良いものです。しかし、それを利用して人を脅したり怖がらせることに使う人もいるから法のイメージは悪くなります。

神様の法も、人を怖がらせることに使っている人が多いです。

「悔い改めなければ地獄に行くだろう」といって人を縛ろうとしたり、「御言葉ではこう言っていますよね?」と詰問したり。

そうしているから宗教のイメージも悪くなります。

摂理の御言葉では「愛が核だ」と何度も言います。神さまの法が「祝福」であるということをちゃんとわかって使わなければなりません。