愛の倦怠を回避するには基本を守ること

愛と倦怠についての御言葉でした。

これから先生と会える!嬉しい!とはやる気持ちはあるけれど、信仰が生活化できてなければその喜びは一瞬で、あとに長い倦怠期が訪れると言いました。

やばっ。わりと現実的な話。

こういうリアリティのある話、好きです。

昨日、水曜礼拝が終わって「寝ないで朝会行こう」と思って、帰らないで銭湯に行きました。

お風呂はいって、番頭さんにロッカーの鍵と借りたタオルを返すそのわずかな時間、テレビの音が耳に入ってきたんです。

綾小路きみまろ「どうかおそばにいさせてくださいましと、周りの反対も振り切って結ばれた2人。しかし、あれから40年!あのときの美しい姿は見る影もございません。」

おばあちゃんたち爆笑。

笑い事じゃねえよ!

ネタだから笑えるけど、現実、倦怠の問題ってけっこう大変です。

このような倦怠に陥らないようにするために、御言葉では「基本を守りなさい」と言いました。

まずは感謝。

先生は、私たちが大変なときにはよく「過去にしてもらったことに感謝しなさい。」と言います。

様々に神経を使って、うまくいかない原因を見つけ出せ

どうしてうまくいかないのか。その原因には罪が関わっていると言いました。

ただ「やる気が足りない」とか「決心が足りない」とか考えるのではなくて、まず罪に縛られてうまくいかないから、悔い改めてそこから解かれなさいと言いました。

以前の御言葉でも「1%の悪いところのせいで他の99%がダメになる」という話がありました。

そのように、何か1つのことのせいで全体がうまくいかないことがあります。

パソコンが動かなくなる原因が、ほんのささいなところにあるように。

そのように、足を引っ張っている罪、それを見つける必要があります。

そして、それは「自分でもわかっていること」もあれば「自分では気がついていないこと」もあります。

よく会社では、うまくいかない原因を要素分解して分析します。

何かを行なって出る結果は、たくさんの要因が絡んでいます。だからそれをさいて見るんです。

すると、「なんでここがダメなの?」と思う点が出てくることがあります。今まで「そこがうちの推しポイント」だと思っていたところが実は足を引っ張っていた。そういうことはとても多いです。

思い込みです。

聖書では、ユダヤ人たちは「これで神様が喜ばれる」と思ったことを真面目に行なっていましたが、その行ないをイエス様は指摘する箇所があります。

「しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:42‬

箴言では「神様は後悔しないように二つとも行なう」と言いました。

主日の御言葉でも「急ぐからといって一つのことだけを考えてやってはいけない。」と言いました。

いろんなことに神経を使う必要があります。

考えは熱いか冷たいかでありたい

考えを極におけば変質しないと言いました。

極的に熱い考えか、極的に冷徹に考えにしなさいということです。

「なんとなく」とか「まあいいや」というぬるい神経でいるといろんな考え入ってきて鬱になってしまいます。

そうではなくて、熱い考え、または冷静に考えなさいといいます。

たとえば、食べ物も冷凍するか煮込んでおけば長持ちするように、考えもそうなんだといいました。

おせちを思い出しました。

おせちはもともと保存食なんですよね。
長持ちさせるために、煮詰めたものが多いと聞いたことがあります。

お煮しめが好き。

出来立てよりも、一晩寝かした奴が味が染み込んでいてうまいんですよ。

あとお寿司!正月は食いまくるぞー。

あっ、こういう考えではいけませんね。もっと熱く主だけに神経をむけなければなりません。

今日の御言葉は、きっと黙示録からきています。

「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」
‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭3:15-16‬

摂理の御言葉はいつも聖書につながっています。

先生の実践力

先生の実践力を感じさせる御言葉でした。

先生は最後までやります。その精神は、神様の計画を変えようというくらい強いものだと言いました。

神様の計画を変えるなんてとんでもないと思いますが、聖書にはいくつか神様が計画を変えたことが記されています。

たとえば、神様に滅ぼされるはずだったニネベの街は、ヨナを通して悔い改めて、その御心が変わりました。

もう死ぬと言われたヒゼキヤ王が必死に祈って寿命が延びたとか。

ヤコブが神様と相撲をとって勝ったとか。

新約聖書でも、イエス様がある女に「うちの子を救ってください」としつこく言い寄られて一度断るんですが、女が「犬でも飼い主の落としたパンくずはいただきます。」と自分を捨てて求めるのでイエス様が願いを聞いてあげたという話があります。

人を人とも思わない裁判官でも民があまりにしつこく求めるなら面倒だから願いを聞く、という例え話も聖書に載っています。

そのように、先生も神様の心を変えるつもりで最後まで行ないます。

だから「やればできる」という言葉が出てくるし、それが言葉だけでなく説得力を持って私たちに響いてきます。

先生「みんな挑戦が弱い」アーメンです。

神様もコロコロ変わるのだ。まるで季節が変わるように。という話が印象的でした。

先日、新しい歌『心を定めなさい』の日本語訳が上がりましたが、そこでも「神様の心は見ているだけでは流れてしまう」と言いました。

「神経を使わないから問題が起こる」と言われたそばから忘れ物をしました。

神経を使いなさいと言いました。

神経を使わないからいろんな問題が起こるんだよと。

そういうそばから、カフェにスマホを忘れた私。

今まで一回も忘れたことがなかったんですけどね。

けっこう、御言葉が出るときってそのことに気をつけなければならない“時”だからその御言葉が出ています。

そういう、天気予報のような役割もあるのが御言葉です。

皆さんも気をつけてください。

神様の知恵は深くて単純に考えてはわからない

自分のために祈る祈りが、先生のために祈ることになるんだと言いました。

祈りでも自分の管理をしっかりして、先生に迷惑がかからないようにしなければなりませんね。

それにしても、この前「主のための祈りの中に全てが入っている」という御言葉があったばかりです。今日は「自分自身のために祈ることが先生のために祈ることだ」です。

一見すると反対のことを言っているようですが、どう見えますか?

実は意味するところは同じです。

神様の知恵は深く深いんですね。

箴言は「うまくいく時」と「ダメな時」についてでした。

昔「人生楽ありゃ苦もあるさ」っていう水戸黄門の歌が子どもたちの間でも流行っていましたが、そのように、人生は良い時もあれば大変な時もあります。

御言葉では、「ダメな時」は準備する期間で「うまくいく時」に行いなさいと言いました。

今は準備する期間ですね。先生の状況を見ても「ダメな時」ではないか、と思えます。

でも、御言葉では「今が黄金期だ」とおっしゃることもあるんですね。先生は「人々私を不幸というけれど、いいや、私幸せな人」と歌っています。

神様の知恵は深いです。

先生が作った歌『前もって行いなさい』には「昼きたら夜がくる 前に前に前に 急いで実践しなさい」という歌詞があります。

さっき「『ダメな時』は準備の時だ」と書きましたが、「うまくいく時」には「ダメな時」の準備が必要です。

神様の知恵は深い。

それにしても、あの『前もって行いなさい』ってとても軽快なリズムの歌なんです。そういったリズムに「昼きたら夜がくる」といった、真剣に受け止めなければならない歌詞が乗っています。

歌いながら、とても不思議に思っています。もっとしんみりと歌う歌だったと聞いたことはありますが。

神様の知恵は深いです。

神様は切実に願うところに働かれる。

願いを叶えてくれる神様についての話でした。

聖書にも「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」と書いてあります。

しかし、ただ「欲しい」とおもうだけではもらうことはできません。

神様は、“切実に”願うところに働きます。

聖書にも、「神は追いやられたものを尋ね求められる」と書いてあります。

欲しいと思ってする願いではなく、「もうこれがないとダメになってしまう。」という、鬼気迫るくらいの切実さ。そういうものがあってこそ、神様は働かれます。

この切実さとは、一歩間違えれば「落胆」や「諦め」になってしまうようなものです。

願わない方が楽、諦めた方がまし。そのくらいの状況でも切実に願い、神様を信じることをやめない。

そういう態度を神様は見ています。

聖霊様は厳格な方だが気前の良い方でもある

聖霊様についての御言葉でした。

聖霊様は、会うことがとても難しい方なんだと言います。

清くなければならず、完全でなければならず、心が合わなければならず、会う価値のある人でなければならない。

その難しさは、自分1人の条件では会うことがほぼ不可能なほどだそうです。

それだけ高貴な方だということですね。

ではどうやって会えばいいのかというと、主を通して会いなさいと言いました。

私たちはお祈りをするとき、必ず主の御名で祈ります。

そうすることで、私たちのお祈りをサタンが邪魔できなくなるからです。

そのように、聖霊様に会うときもそうしなさいと言いました。

主が立てた条件があるので、主を通した時には清く、完全であり、会う資格を有するということですね。

そうすれば、聖霊様は気前良く会ってくれるのだそうです。

難しい話であり、不可思議な話でもあるかもしれませんが、よくよく考えれば世の中はそのようになっていることが多いです。

神様の愛は変わらない

神様の愛についての御言葉でした。

私たちは調子が良い時、悪い時さまざまありますが、それで神様の愛が変わることはないと言いました。

昨日、罪についての御言葉で、自分にも該当する罪について考えて「完全ってのは難しい」と考えていたのですが、そうだからといって神様から受ける愛が増えたり減ったりはしないと聞いて安心しました。

毎日御言葉が伝えられていること、これも変わらない神様の愛ですね。

ただ、箴言にもあったのですが、愛は主体と対象が愛し合ってこそ完成します。

神様が100%愛しても私たちから愛さなければそのぶん点数が低くなってしまう、それが愛です。

自分が何をして来たのかは後になってはっきりわかる

赦しについての御言葉でした。

罪があるから、主が犠牲になって赦しの条件を立てました。

罪、と言われてもピンとこない時があります。毎日まじめに生きてるよ、と。

でも、神様から見たときに大きな罪となるものがあります。

そのことを、このまえ歴史の話を聞いて改めて感じました。

罪があると歴史的にどういう大変な目にあったかということもそうだし、どういうものが罪だったのか、という罪の観点についても改まりました。

聖書を読んでいると、登場人物たち過ちについて他人事のように感じてしまうものですが、昔の話から今の話までを順番に聞いていくと、「あ、自分もこの中の1人じゃん」ということを感じざるを得ませんでした。

この10年の間にあったことを歴史として振り返ったときにはそのように冷静に感じられます。しかし、当時、その渦中にいるととても冷静になれるような状況ではありませんでした。

完全に行うってのは本当に難しいものです。