頭の中がクリアであってこそ、話すことにも力がある

悔い改めてこそ愛に燃えるといいました。そして、そうしてこそ御言葉を伝えたくなります。そして自分が理想的に変わるようになります。

御言葉を伝えていることではありませんが、このブログを書きながら「悔い改めって必要だなあ」と思うことは多くあります。

なぜなら、自分の頭の状態が文章に表れてしまうからです。

汚いものが、あるいは雑多なものがたくさん頭に入っていると、書くことが何も出てきません。または書いても薄っぺらい、あるいは攻撃的な文章になってしまいます。

まるで、血が不純物でドロドロになり流れにくくなっているように、頭の回転が鈍くなります。

血液はサラサラしていてこそ栄養が体に行き渡るように、この霊も罪がなくてこそ御言葉が私たちを生かしてくれます。

今週の主日の御言葉では、「明け方に祈って聡明であってこそ、御言葉を伝える時に力がある。祈らないと説教に力がない。」という話がありました。

説教者向けの内容でしたが、原理は誰にでも当てはまります。その原理とは、「同じことを話しても、その裏にある“何か”は、キレイかキレイでないかで左右される。」ということです。

僕は、こうしてブログを書きながらなんとなくそのことに気がついて、それから自分の管理をちゃんとしようと気を使うようになりました。

その結果、自分の状態を良いところにキープしておくことが、少しはうまくなった気がします。

つまり、誰かに読んでもらうためにブログを書きながら、結局は自分にかえってきたということになります。

神様のための行いは、それがいずれ自分のところに返ってくるということを意味します。

摂理の御言葉では「神様は行なった通りに報いられる」と言います。

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