結婚と清さについて思ったこと

認識を変えなさいと言いました。

どんなに価値のあるものも、自分の認識次第で価値がわかったりわからなかったりします。

今朝、1つ認識が変わったことがありました。

会社に行く準備をしている時に、ふと大学の民俗学の授業が思い浮かんだんです。

教授は「花嫁が結婚式できる白無垢と、お化けがおでこにつけてる三角の布、おれはもともと同じものなんだよ。」

教授の言わんとしていたことは、“結婚”と“死”は、民俗学的にはとても近いものなのだということです。

時代劇では、男が女にプロポーズする時、「僕と生き直しませんか?」と言うことがあります。

つまり、結婚とは、今までの生き方を“葬って”、“清くなって”“新しく”“2人”で生きるということを意味します。

御言葉がつながった気がしました。

でも、学術的に「結婚と死がうんぬんかんぬん」と言われてもちょっと重いですよね。

やっぱり、御言葉通り「古いものを葬って」「聖霊様は清さを求められる」ということを核にしていればいいんだと思います。

聖霊様と幾何学

聖霊様についての御言葉でした。

なかなか理解ができない“聖霊様”についての話も摂理ではたくさんされます。

最近は「装わせる」存在としての聖霊様の話をよく聞いています。今日は「家を建てた後のインテリアをする。」というたとえで聖霊様を表現されました。

宗教っていうと、イメージとして「ものさみしい」とか「厳格な」というのもあると思うのですが、それは家を建ててインテリアをしていないからです。聖霊が加わるとずいぶん違ったものになります。

箴言は主に「円と楕円」についてでした。楕円は最も美しい形です。

女性の形が楕円でできているという話も以前あり、これも聖霊様につながる話ですね。

黄金比の話もありましたが、写真を撮る時の黄金比も楕円の組み合わせです。


lifehacker

昨日、チョウンさんの話を聞きました。僕はチョウンさんを見るたびに、「顔がすごく楕円形だなあ。」と思ってしまいます。

この体も霊の力を受けて活き活きと生活する

霊の力をこの体でも受けなさいと言いました。

霊は御言葉を聞いて行うことで成長していきます。

わかりやすくいうなら、目的がはっきりするし、自分がどういう人なのかもはっきりするし、何をしたら良いのかもはっきりします。

はっきり、くっきり見えるようになります。

なぜなら、御言葉がはっきりしているからです。

はっきりした考えを受けたら自分もはっきりした考えになっていきます。

そのはっきりとした霊の力を、この体でも発揮しなさいと言いました。

霊でははっきりしていても、この体は日常生活の複雑な情報にさらされてなかなかはっきりとはできないことがあります。

最近ニュースになっていますが、ツイッターでなんとなく「自殺したい」とつぶやいたら話しかけてきた人がいて、なんとなく話を聞いていたら「会わないか」と言われて、なんとなく会ってみたら…という事件が毎日報道されてるじゃないですか。

その「なんとなく」な状態を、霊の考えではっきりさせなければなりません。

霊と体が1つになって、霊の力をこの体でも発揮すること。そうすれば騙されることもないし、活き活きとした生活が過ごせるようになりますね。

「信じる」ということが歴史を作る

日曜日の御言葉で「心と思いと命を尽くして神様を愛しなさい」と言いました。

そうはいっても「やれやれ、愛したって愛さなくったって変わらないよ。」と思うじゃないですか。

しかし、昨日の御言葉では「信じないことが一番大きな罪なんだ」と言いました。

そうはいっても、「そんなこと言って怖がらせても無駄だよ。」って思うじゃないですか。

ところが、今日の御言葉で「信じることで歴史になる」と言いました。

確かに、愛さなくても生きていけるし、信じないことで罪だと言われてもすぐに何かあるわけではありません。

でも、それは人生を小さく考えた場合の話です。

自分の人生も、お父さんお母さんがいて、おじいさんおばあさんがいて、と、小さな歴史を形作っています。

でもそれは何かの証拠があって形作られているわけではなくて、ただ「信じる」ということで形成されています。柔らかい言葉を使うなら「家族同士の信頼」とか「家族愛」とかでしょうか。

僕も、うちの両親のことを「遺伝子の型」を確認してから家族だと認めたわけではありません。

そう信じているから家族であり、僕の一族は続いています。

この「信じる」ということを拡大したら民族にもなり、国にもなり、そして歴史にもなります。

「信じる」というのはとても大切なことなんですね。

罪についての御言葉でした。

新しい一週間が始まりました。

御言葉を聞いて力を受けたのだとしても、普段の生活の中で活かすことが必要です。

今日は罪についての御言葉でした。

罪の種類について詳しく教えてくれましたね。

自分たちの行いの結果が後々にまで影響を与えるという話は気が引き締まります。

そして、最も大きな罪は信じないことだと言いました。

2000年前にイエス様が現れて、信じた人はそこから始まったキリスト教というビッグウェーブに乗りました。

乗れなかった人は古い主観圏で終わりました。

新しい潮流が起こっていることを、それが小さいときから「信じて」ついていく。そのことが必要ですね。

信仰は人の心を通わせるツールでもある

「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。」‭‭マタイによる福音書‬ ‭22:37‬

この聖句の意味を教えてもらいました。

今までも御言葉の中で何回も引用された聖句ですが、今日はまた一段深く教えてくれました。

信仰生活をしていると、ふと考えるだけの信仰になってしまいますが、行ないがなければなりません。

どのような行ないが必要なのか。僕には書けることがない。

今日の御言葉をブログで書くのは難しいね。

原典を読んだらすごく納得できる内容です。摂理の御言葉聞いてみてね。

ということで話題を変えちゃお。

今日は別の教会で礼拝を捧げました。

とても大きな教会でした。

あんな教会がほしい!

でも思ったんです。

将来的に、少子化が進むから空き家が多くなると言われています。

そうしたら教会が入りやすくなるんじゃないかなあ。

あっちも教会こっちも教会。

コンビニより教会が多い。

いいね。

もっと気軽に信仰生活ができる世の中になるといいな。

摂理の教会は人が良いです。

他の教会に行ってみて改めて感じました。

何より「同じことを学んでいる」という共通項があるのが大きいよね。

今の世の中って価値観が多様化しているから、誰がどういう人なのか把握することがすごく難しいんです。

この人は良い人なのか悪い人なのか。良い人悪い人外側同じだ。確認することがすごく大変。

それが「摂理の御言葉聞いている」という1つがあるだけでパスできることがあまりに多いです。

たくさんの書類が揃わないと通らなかった審査が、カード1つで簡単に通れるような感じ。

それが信仰の良いところですね。

ただ、それがゆえにあつかましくなってしまったり、中には利用してやろうと考える人もいるにはいるけれど。

それでも、今は多くの価値観を結ぶ仕組みが必要な時代なので、やっぱり信仰が必要なのだと思う。

アスリートは自分の管理を怠らない。信仰生活も同じだ。

今はラストスパートの時だから、聖霊様も強く働きかけて後押ししてくれています。

長いレースでしたが、これを走り終わった後、また新しいステージが始まります。

そのことを心配してゴール手前で逆走する人がいるという話もありましたが、聖霊集会では答えを与えてくださいました。

自分によく気を使いなさい、よく見なさいと言いました。

プロのアスリートは年中試合をしています。それが可能なのは、コンディションの管理がうまいということもあります。

コンディション管理のための毎日のルーチンを持っている人も多いです。

そのように徹底的に管理をしているから、試合が終わった後にまた試合をするという、一般人には不可能なことができます。

信仰生活もマラソンに例えられることがあります。いつも自分を管理して、本来の実力を発揮したいですね。

人生で逆走してはいけない。逆走して良いのはマリオカートだけだ。

「戦って勝利しなさい」という主日の御言葉を聞いて「RPGゲーム」が思い浮かんだ僕ですが、今日の御言葉からもゲームを思い出してしまいました。

「逆さに生きるな」という御言葉です。

目的地に向かっている最中で逆行する人がいることについて指摘しています。

僕が子どものころ、周りに逆行する奴がいたんです。マリオカートをしている時です。

どういう時に逆行するかというと、「負けが確定した時」「アイテムの出が悪かった時」「無理にショートカットしようとして失敗した時」「そのほか自分の思い通りのレース運びができなかった時」。

このような時に、情けない思いでゴールするよりはと、ゴール手前で方向を変えて爆走します。それがけっこう爽快で、「おらー」とか「イェー」とか言いながら蛇行していくんです。僕もやったことがあります。そうすることで勝ちで得られなかった興奮を代わりに味わうことができます。ただし、代償としてしばらくマリカ出禁になります。

このような現象が、マリオカートではしょっちゅう起こりましたし、桃太郎電鉄でも頻繁にありました。逆行現象は身近な問題なのです。

御言葉では「勝利を目前にして逆行する人がいる」という話もありました。

負けが決まったヤケクソでの逆行ではなくて、勝ちが確定してからの逆走です。

今まで私たちは、何度も困難を乗り越えてきました。御言葉によって勝利してきました。そして勝利した後は映画のようにハッピーエンドで暗転、ではなくて、新しいステージが始まることを経験しています。

お祈りの条件も何回めでしょうか。ここで勝利して先生を迎えたら、また新しい次元で始まるだろうこともなんとなくわかっています。

そうなると、(ここで勝利を得たところでどうなるだろうか)という気持ちになることもあります。

意識の問題です。

プロのアスリートは、一年中試合をしています。大きな国際大会で勝ったすぐ後にまた別の国際大会に出場して真剣勝負をしています。べつに途中でやめたって一生暮らせるだけの賞金は稼いでいるけれど、国を代表して走っているし、後進の若者たちに見本を見せるという使命感もあるし、後世に記録を残すやりがいで走っています。何より一回一回の試合を楽しんでいます。

でも、僕みたいなスポーツ一般人は「マラソン大会完走した!もう一生ぶん走ったわー。二度と走んないと思うわ。とりあえず履歴書に書いて就職有利にしよ。」くらいの意識しかないので、その次元で終わります。

霊の次元は無限に上がっていくという御言葉もありました。

生きて働かれる神様を捉えて、続けて行いたいですね。

自分を大切にしようと思う時には霊のことも考える必要がある

自分がもっているものの価値について話してくれました。

この体も一度失ったら戻すことができないものですが、この霊はさらに貴重なものなのだと言いました。

私たちの霊がどう存在するかは、この体が生きているうちに決まります。

そして、その霊は私たちが死んだ後もその状態でずっと存在し続けます。

肉体の生は100年だけど、霊の生は永遠です。

だから、霊の価値をわかって大切にしなければなりません。

この体が御言葉を聞いて実践すると、霊は成長していきます。成長した霊が今の状態から次元が下がってしまうと、回復するのは容易ではありません。

でも、そうは言われても「霊ってなんやねん」という考えが浮かんでくることもあります。そうなると、あまり価値がわからなくなってしまいますね。

僕も霊についてわかる方ではありません。でも、少しはわかることがあります。それは「こういうものだ」と説明するものではありません。

あえて科学で説明するなら、「自分が死んでも自分の遺伝情報は残る」ということでもありますが、それが全てではありません。

聖書を引用するなら、アダムとイブ(エバ)は堕落して霊が死んだから、その後何千年もの間、アダムとイブ(エバ)からスタートしたイスラエル民族が苦痛を受けることになった、ということです。

人間はこの体だけで生きているわけではなく、霊というものを持っています。

本当の意味で自分を大切にしようと思う時、自分の霊のことも考えてあげることが大切です。

はっりきわからないと苦痛を受ける

今日の箴言は「角度と方向」についてでした。

なんでも360度全ての面から見て、一番良いところに使いなさいと言いました。

畑に適さない土地も、その土が焼き物を作るところに適している場合がある、というたとえ話もありました。

この「角度と方向」の話は昨日からの続きです。

昨日「一番輝く角度がある」という話を聞いた僕は、「これはインスタグラムの箴言だ。いかに美しく写真を投稿するかの話だ。なぜなら今日はハロウィンだから。」と思いました。しかし、違いました。

「角度」は「個性」です。インスタグラムは関係ありません。人によって輝く個性が違います。その輝くところで活躍しなければなりません。摂理は一人一人の個性を非常に大切にするところなので、先生はこういった話をたくさんするんですよね。

今日、「角度は個性だ」と教えてもらってそのことがようやくわかりました。教えてもらわなかったら、僕はずっとインスタ映えについて考えていたかもしれません。

昨日、箴言を聞いてインスタ映えについて考えながら家に帰りました。LINEを開いたら、元同僚の女性がプロフィール写真を変更していました。その角度が、すごい特徴的だったんですよ。右斜め上からのアングルで上目遣い。明らかに小顔に見える角度でした。実物と違いすぎて、僕はますます「角度でこのように違う」ということを思ったのでした。

このように、わかるにもちゃんとわからないと間違った認識をしてしまうんだという話が今日の御言葉にありました。

わからないまま知識でだけ知っていると苦痛を受けます。悟らなければなりません。

今週の主日の御言葉は「戦って勝ちなさい、かき分けて最後まで行きなさい」と言いましたが、自分の無知もかき分けてはっきりわかって行う段階に行きたいですね。