力を注ぐと何かができる。「成せば成る」「E=mc2」の原理

善は善のエネルギーで作り、悪は悪のエネルギーで作るといいました。

サトウキビを煮詰めると砂糖の塊ができるように、神様のエネルギーによって人間の霊ができるのだといいます。

以前は、サツマイモから水あめを作るというたとえで話をしてくれたこともあります。

エネルギーが何かを作るというのは、化学式ではかの有名な「E=mc2」というものがありますね。

僕は科学についてあまり詳しくありませんが、質量とエネルギーは等価なので、エネルギーを注ぎ続けると何かができるのだそうです。

逆に、何かを壊すとエネルギーがでます。

原子爆弾はその原理を利用したものですね。原始を壊すことで莫大なエネルギーを発生させます。

今日の箴言では、善は善のエネルギーで作り、悪は悪のエネルギーで作るといいました。

悪いエネルギーを注いでいると悪いものができてしまう。良いエネルギーを注いでいると良いものができる。

悪いエネルギーを文学的に言うなら、恨みとかねたみでしょうか。

良いエネルギーは、熱心さとか切実さというものです。

そういうエネルギーを、私たちは生活の中で自然と使っています。それによっていろんな結果を招いていますが、それは私たちが使ったエネルギーの結晶なのだと考えることもできますね。

このブログもエネルギーを使って書いています。かれこれ10年くらい。

そうしたら、たしかに、何かができたっぽいです。肥料を与えていたら木が育っておいしい実がなるように。

その実をすでに享受していることもあるし、またはこれから享受することになるかもしれないことを、なんとなく感じることがあります。

法で人を活かすこともできるし殺すこともできる

「真理は人を自由にする」そのことを実感した今日の御言葉でした。

今まで「時代ごとに神様の働きかけ方が変わってきた。」という点についてたくさん教えてもらってきました。

たとえば、昔はささげものをしていたけれど、新約時代からはそれがなくなりました。

なぜなら、神様と人との関係性が「主人と僕」から「親と子」に変化したからです。

時代が変わると神様の働きかけ方が変わるということを私たちは知っていましたが、今日の御言葉ではそれをさらに析いて「人によっても違う。」ということを習いました。

たとえば、サッカーではゴールキーパーとそのほかの選手では適用されるルールが違う。病人は仕事を休んでも問題ないが健康な人が仕事をサボるのは問題になる。そのように神様の法もそうだといいました。とてもわかりやすいたとえでした。

御言葉を聞かない人にもぜひ知っていただきたい内容でした。アップされるかな。

特に、ルールを気にしすぎて窮屈に感じてしまうタイプの人には今日の御言葉は必読だとおもいます。日本人にはそういうタイプの人が多いかも。

僕もかなりそういうのを気にしてしまう人で、日曜の夜にみんなでやってるスポーツに参加できないだけでものすごい罪悪感があったり、業務連絡で異性にlineするだけで「罪に定められたらどうしよう」と心配してしまう、典型的な心配性です。

しかし、それはちょっと間違っていたことが、今日の御言葉を聞いてわかりました。

もちろん、日曜スポーツには行ったほうが良いに決まっていますが、それによって自分を責めすぎることや、誰かに攻撃されるんじゃないかと身構える必要はないんだということです。

本来、法律は人を守るために作られたものです。

交通法も事故をなくすためのものだといいました。

御言葉で宣布される法も、人を自由にするためのものです。

しかし、その法が人を縛ることがあります。

ルールを気にしすぎて自分を責めてしまうこともそうです。

また、「法律ではこのようになってますが?」「なんで法を守らないんですか?」と、法を人を攻撃するツールとして使うこともそうです。

特に、昔にできた法律ほどその傾向が強くなります。時代にマッチしなくなるからです。

新約聖書には、旧約時代にできた律法をパウロがぼろくそにこきおろすシーンがあります。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」ローマ人への手紙‬ ‭3:20‬ ‭

「いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭4:15‬

法律のネガティブな点をあげつらっています。

パウロはもともと律法に忠実な人だったといいます。パウロ自身が聖書で記しています。

そのパウロが律法をだめだといっているわけです。律法を行いながらも、古くにできた律法の限界が見え、デメリットが目についていたのかもしれません。

先生の御言葉によると、パウロは真面目に生きながらとても苦しい思いをしていたのだといいます。

その昔、民数記や申命記で定められたものすごく細かい律法は、烏合の衆だったイスラエル民族をまとめるために有用な法律でした。

統制が取れたから戦争にも勝ったし、エルサレム宮殿も建てられたのだと思います。

しかし、時代は変わります。神様は働き方を変えます。神様、時代が求めたのは昔ながらの統制だけではなく、愛でした。

すると、昔は有用だった法律の多くは、意味を成さなくなってきます。

それでも法を守ることに固執したユダヤ人は、律法を守っていることを自慢することに使ったり、人種差別をしたりと、律法を守りながらも核である愛がおろそかになっていました。

そこへイエス様が現れて、「律法を完成させる」とも言われた新約の御言葉を伝え始めたんですね。

そのように、今日の御言葉も「そもそも法ってなんのためのものなのか」を再認識させる内容でした。

細々とした決まりごとはその都度変わっていくものですが、こういう御言葉はどの時代にも、どの人にも通じる普遍性があるものです。

神様の領分と人間の領分

主を中心にしなさいといいました。

それは言い換えると、「自分の位置を守ること」だといいます。

自分のポジション。

主が中心に位置し、人間は対象としての位置にいる、ということをいつもわきまえていることが必要です。

そうしたときに、さまざまな問題も解決策が見つかるし、より高いところに上がることもできます。

クラシック音楽に、「子どもの領分」というものがあります。ドビュッシー作曲です。

かわいらしい音楽で、子供がぴょんぴょんはねている様子が浮かんできます。

子どもは「遊ぶこと」がその位置です。大人のように経済活動をしたり、老後の計画を立てたりする必要はありません。

遊んぶことが、脳が発達していくそのときには必要だし、またその元気な姿を見て大人は力を受けます。

子どもが老後の心配をしたり、大人たちの矛盾を指摘したところで何かが解決するわけではなく、ただかわいくないだけです。

クリスマスプレゼントのランクが一つ下がるだけです。

子どもは子どもの位置を守ってお父さんお母さんを愛することで、お父さんお母さんも安心してその子と遊んでくれるし、その子の将来のことを真剣に考えてくれるし、クリスマスプレゼントもアップグレードするかもしれません。

人も、神様との関係性の中で、その位置をわきまえている必要があります。

そうすると、問題の解決策が見えてくるのだと、今日の御言葉で言っていました。

それはちょうど、今まで自分の力でなんでもしようとしていたことが、自分の位置をわきまえることで、神様がどんなことをしようとしているのかを見るようになる、認識が変わるということです。

神様は、人間ができない大きなことをやっています。

旧約時代の4000年間をかけて新約時代が準備される。このような、人にはどうやってもできっこないことは神様の位置です。

そうした流れを人間が作ることはできないので、ただその流れに乗ることで、今まで自分の力だけでは不可能だった問題の解決の糸口が見つかるようになります。

わからないまま行なったことの代価が十字架だった

十字架は私たちの選択だといいました。

私たちが、その運命を決めた。

イエス様は十字架の前で「彼らを許してください。彼らは自分が何をしているのか、知らないでいるのです。」と言いました。

そのように、自分のしていることがどう繋がってどういう結果を招くのか、知らないでいました。

知らないで行なったことが、実は罪だった。それをイエス様が代わりに負った。

人は人生を知らないで生きます。

間違った道を行っているのか、正しい道なのか、わからないで進んでいます。

その道を教え、また運転してくれるのがメシアなんですね。

今もお祈りをしています。あとで、「本当に祈っておいてよかった」と思う日が来ると言います。

「私は道であり真理であり命である。」

愛を続かせるために御言葉が必要なんだ。

時に合う愛をしなさいと言いました。

時に合わないと冷めてしまう。愛ってタイミングも大事なんですね。

難しい!

今がどういう時なのか。神経を鋭利にして知ることが必要です。

「愛するに時があり」伝道の書にも書いてあります。

摂理人は110日のお祈りもしていますが、願いが叶うように、後悔しないように今お祈りしたいですね。

神様と愛をすることについてたくさん教えてくれる御言葉ですが、「自分の意向を成す異性の愛」については厳しく戒めます。

最近もたくさん御言葉で指摘されてます。

クリスマスシーズンだしね。

なぜダメなのか。理由はいくつか思いつきますが、「永遠に続かないから。」これもダメな理由の一つです。

摂理では、「幸せというのは、永遠な幸せであってこそ幸せなことだ。」といいます。

自分の思いを無理やり成しても、それが虚しく終わることがあります。

今日の箴言ではこんな例え話をされました。

25.<家>を素敵に建てたと自慢し、宴会をして楽しんだ。分かってみたら、そこは政府が「道路」を作ろうと計画している土地だった。だからいくら素敵に建てても、壊さなければならない。
本人が喜びで建てて、本人が悲しみで壊さなければならない。自分中心にやったからだ。

何も知らないまま感情で突っ走ってはいけないんですね。

自分中心ではなく、主を中心に。そうしてこそ賢い判断をもらって愛が続くようになります。

将来のことに神経を使って、わかって祈る

お祈りについての御言葉でした。

今のお祈りが将来の運命を決める、と言いました。

10年前、祈らなかったから今のような状況があるのだということも言っていました。

といっても、10年前にまさかこのようになるとは考えもしなかったから、祈りようがなかったということもあります。

つまり、私たちは幼かったということです。あまりにも世間知らずでした。サタンが世の中をどう治めていてどう攻撃してくるのか、甘くみていましたね。

これからの未来にはどうなるでしょうか。

わかって祈らなければなりません。

祈ることは、油を補給することだと言いました。

「油を用意していなさい」この聖句が思い出されます。

あとになったら油を補給する暇はないとも言いました。それだけ急いで走っていくということです。

もう何年も前に、先生は「そのうち祈る時間もないほど忙しくなる日が来る」話していたことがあります。

その当時は祈りばかりしていたし、祈ることしかできないような困難な状況でもだったので、僕は「まさか」と思っていましたが、今ならそうなりそうなことがなんとなく感じられますね。

つまり、先生はずっと前から、将来にどうなるかをわかって祈っていたし、わかったことを御言葉で伝えていたということです。

そのように、私たちも将来をわかって準備しなければなりません。

LINEの投稿に神経を使うように、お祈りの内容にも神経を使う

お祈りは対話だといいますね。

でも、いつも対話が成り立つわけではありません。

それは、私たちが見当違いのことを言っている場合があるからです。

LINEでのやりとりでも、うまくかみ合わないときがありますね。そういうときは既読だけついて流れてしまうことがあります。

お祈りも、かみ合っていないときには答えが得られないときもあるのだと、今日の御言葉では言っていました。

だから合わせなさいと。

私たちは、LINEに投稿するときにはいろんなことに気を使いながらやります。

顔文字とかスタンプとか使って楽しげな投稿をしてるけど、それを打ってる本人の顔は、たいていめっちゃ真顔なんじゃないでしょうか。

僕も「これでいいのか?やっぱりこっちにすべきか。」と神経を鋭利にして熟考してしまいます。

一生懸命考えてなんとか投稿した後も「これでよかったのか。」いろいろ考えてしまいます。

それで相手からちゃんと返信があると、ほっとしたりします。

そのように、お祈りもいろんなことに神経を使わなければいけません。

愛する人にすることだからです。

「期待した答えがもらえなかったら嫌だな。」と思う気持ちも正直あります。僕はLINEとかいまだにあまり好きではありませんw

でも、自分から動いたときに反応があるんだと思うと、多少不器用でもやったほうが良いことがあります。

LINEもそうだし、ブログもそうです。そしてお祈りも。

一人からはじめることだけど、その行ったことが結果を持ってきます。

だから、真心で継続的にやることですね。

その姿は、先生から学ぶことができます。

失敗しても立ち上がって継続する先生の精神です。

「熱心」とは、無秩序に燃やし尽くす炎ではなく、強火と弱火を治められる火。

今日の御言葉では「熱心にやりなさい」といいました。

熱心にやらなければ苦痛を受けるようになるといいます。

楽にばかりしていると、楽ではあるけれどそれによってよくないことが起こらざるをえません。

なぜなら、サタンは私たちが楽をしている間も熱心にやっているからです。

いくら有利な状況であっても、熱心にやることをやめた瞬間からだんだんとサタンとの距離が縮まり、ついには追い抜かれるようになります。

童話の『ウサギと亀』でもおなじみですね。

以前ポンソクさんから聞いた話を思い出しました。

「熱心に走らないことで人の車の後ろを走るようになる。排ガスを吸いながら走ることが気分が良いだろうか。」

全文まるまる覚えているわけではありませんが、そういう意味の言葉でした。

だから熱心に走る必要があります。

摂理の人は、先生が熱心に走った条件をもらっているためにかなり自由でいることができています。

でも、これからは自分たちで熱心に走らなければなりません。

熱心に走るコツは「神経を鋭利にして」行うということです。今週の主日の御言葉で教えてもらいました。

私たちが誤解していたのは、「熱心さ」を「まわりのことは気にせずやる」とか「無理をしてでもやる」と考えていたことでした。

そうすると神経が鈍くなり、繊細な仕事ができなくなるといいました。

って、この瞬間にマウスが動かなくなりました。

左クリックが効かない。致命的です。

最近PCやマウスをリュックに入れて持ち歩いているのですが、たぶん扱いが雑だったのでしょう。壊れました。

このように、神経を鋭利にしていないと繊細な機器はすぐに壊れます。

すると仕事は遅くなるし、余計な出費はかかるし、良いことはありません。

本当の「熱心さ」は、そういう無理やりなものではなくて、もっとスマートなものです。

主日の御言葉の中では「悠々と行いなさい」という話もありました。

火も、無秩序に燃える火では扱うことができません。火力が調節できて強火と弱火が使い分けられてこそおいしい料理ができます。

この神経もうまく治めて、良いものを作るところに使いたいですね。

「ADHDでもいいんだ。」と、既成の概念が変わった今日

いつもそうですが、今日の御言葉は既成の概念をぶっ壊す内容でした。

主題は「神経を鋭利にしなさい」

宗教を語る人が「神経を鋭利にする」というと、苦行を通して己の邪念を振り払った先に手に入る“超人的な神経”というようなイメージがあります。

「精神一到火もまた涼し」という言葉もあるくらいで、暑い寒いなんてのは弱者の言い訳だというのが多くの宗教人を含め精神論を語る人が今まで主張してきたことです。

今日の御言葉はそういった従来の精神論を真っ向否定してきました。

精神が大事なのは今までと変わりません。その考え方が違います。

「暑いのを我慢してこそ本当の精神が手に入る」のではなく「暑いと感じることは神経が鋭利であることだから、神経をうまく治めなければならない。」

ADHDにも触れていました。「心があちこちに変わるのは神経が鋭利だからだ。」といいます。

感受性が豊かだからいろんなことに気を使えるのであるということです。

むしろ、「いろんなことに神経を使って頭が痛いからといって神経を使うことをやめたら、鋭利にやるべきことができなくなった」ということを先生はいいました。

繊細な仕事は、いろんなことに気を使えてこそ成し遂げることができます。ひとつのことだけではなくふたつみっつ、たくさんのことに配慮して行う必要があります。

だから、そのような鋭利な神経を無理やり押さえつけることをするなといいました。

これは、従来の「一点突破型」、まわりを吹き飛ばしながらでも突き進んでいくやり方とは正反対です。

世間の流れを見ても、昔は「モーレツ」とか「男は仕事だけ、女は家事だけに集中する」ことが理想像としてありましたが、今はそれについて疑問視する声が上がっています。

今日の御言葉を聞いて、いよいよその流れが加速していくんだなということを感じました。

それにしても、今日の御言葉は先生ご自身の今までのやり方を否定する内容でもありました。

私たちが聞いている御言葉は、狭く薄暗く、あまりにも暑い、または寒い中で、先生が書き送ってくれているものです。

以前の御言葉によれば、寒くて手がかじかんで動かないときには手をかんで動かしていたとか、一日中同じ姿勢でいて体が固まってしまったとか、書類に埋もれて足を伸ばして寝られないとか、そういうふうにしながらでも御言葉を守り行ってきたといいます。

その話を聞いて、私たちは「先生の精神はすごい。見習わなきゃ。」と思いました。

なのに、今日の御言葉ときたら!

「押さえつけておいて『神経の練達になる』と言ってはいけない。」・・・だと!

衝撃だよ。

少年ジャンプでも「大きな壁を乗り越えてこそもっと強い自分になれる!」ってやってるのに、そういうのに僕らは感動してきたというのに、なんか方向が違うよ。

そんなの青春じゃねえ!そうでしょ。

でも、それが今の時代の流れなんですね。「気合と根性」だけでは何かを起こすことができない時代になっています。

少年ジャンプの売り上げが落ちているのも、そういった「伝えるべきメッセージがずれている」というのがあるのかもしれません。

1990年代のジャンプなんてね、熱量がすごかったですよ。スポーツ漫画で試合が白熱しすぎて怪我するじゃないですか。

ガシャーン!(怪我)

控えの選手「っっっ!こ、交代だ!!至急たんかをもってこい!」

選手「いや、大丈夫だ。続けさせろ・・・」

控えの選手「いや、無理だ。試合は今日だけじゃない。少しは体のこと考えたほうが・・・」

選手「大丈夫だって言ってんだろ!!!つべこべいわねえで続行だ!!!」

それでその選手が奇跡を起こして大逆転っていうのがかっこよかったんですよ。

それが、そういうのが!ジャンプが古いものになるなんて想像もつかねえ!俺の、青春が。

でも、ここは変えていかなければならないところです。

神様が時代によって働き方を変えているように、季節が秋から冬へとめぐるように、私たちもそれにしたがって、考え方や行いの服を衣替えしなければならないときです。

先生がまっさきに過去の自分を否定して、古いものを葬ったのだから、私たちもそれについていかなければなりません。

今日の御言葉は「神経を押さえつけない。」ということがメッセージのひとつでしたが、いくら「感受性が豊かなことは良いことだ」といっても、なんでもかんでも心の向くままに神経を使っていたら大変なことになります。

いまはたくさんの情報があふれている時代で、あれもこれも取り入れていたら精神を消耗してウツになってしまいます。

年末だし、いろんな誘惑もあります。

だから、うまく治めなさいといいました。

脳は見たもの聞いたものをそのまま貯蔵するという御言葉もありました。

鋭利な神経はそのままにしつつ、その神経をよりよいところに使えるようにうまく治める。調節が難しいですが、そのことに挑戦していかなければなりません。

その方法として、「環境を良くする」ということが挙げられていました。

例として、「椅子」。

椅子は人間が楽な姿勢でいられるために作ったものです。昔は地べたに座っていたのですが、より楽でいるために椅子は発明されました。

椅子って実は奥が深くて、家具屋ではいいものはすごく高い値段で売られています。

それは居心地がいいからということもありますが、それだけではなく、姿勢が楽になることで「やるべきことに集中できるから」です。

フリーランスの人はよく言います。「まず良い椅子を買え。仕事の効率がだんぜん違う。」

目的をなすための手段として「環境を良くする」ということ。これは大事なことです。「目的をなす」こと一つだけを考えていたらなかなかうまくできないことも、「環境を良くする」というもう一つのことにも神経を使ったら、結果として目的をなしやすくなった。

最近の御言葉の流れですね。僕も今日はいつもよりブログの文字数が多いですが、それはいつもスマホでブログ更新しているのを今日はPCに「環境を変えた」からです。本当は音声入力がしたい笑。

なにはともあれ、早く先生が今のところを出て、月明洞という「良い環境」で御言葉に集中できる日が待ち遠しいですね。

御言葉を聞いたら実践することで自分のものになる

御言葉を聞いたら実践しなさいと言いました。

聞くだけでは、自分のものになりません。御言葉では「料理も学んだら作ってこそおいしく食べられるように、御言葉もそうなんだ」ということを言いました。

水曜礼拝でも、「御言葉は生活とつながっている。5万の箴言を与えて全部教えたのに、御言葉と生活を別々に考えるから騙される」と言っています。

御言葉は、少し神経を使わないと「自分とは関係のないおとぎ話」となってしまいますが、すべて自分、現実に関係しています。そうでなければ、キリスト教が歴史として続くことはなく、一つの「ためになる話」になったはずでした。

たくさんの御言葉を与えてもらっているのは、それを自分が取り入れて大きく成長するためです。

そこには霊のことはもちろん、経済的なことや自分の身近な悩みの解決も含まれています。