ついて行く人がどうするかで運命が変わるということの具体的事例

必要性があってプログラミングを学び始めています。

プログラミング言語には多分いろんな種類があります。

c、Java、swift、ruby、python…

それぞれ特徴があります。例えばiPhoneアプリを作るならswiftだと言われています。

また、pythonというプログラミング言語は機械学習に強いと言われています。

プログラミングを始めたとき、なぜPythonは機械学習に強いのか、疑問に思いました。

調べてみたんですけど、わかりませんでした。

他の言語と比べて機械学習に強いと思える要素がないように思えたのです。

続けて調べてみた結果、あることがわかりました。

pythonが好きな人を「pythonist」と呼ぶそうですが、彼らがpythonのために機械学習のライブラリといわれる便利な機能をたくさん作ったのだそうです。

Pythonがもともと機械学習に強かったわけではなく、pythonのことが好きでついて行った人たちが、pythonのために機械学習についてのライブラリをたくさん用意して、みんなが使えるようにした。

そのことが「Pythonが機械学習に強い」と言われるようになった理由だったんです。

これはほんとに深い真理だと言うことを感じました。

それを好きな人、ついて行く人がどうするかでそのものの運命が変わるということだし、また御言葉で言われる「初めは微弱だが後では壮大だ」の意味、このことがどういう意味なのかを考えさせられました。

特別なことはまるで当たり前なことのように起こる

最近ブログを書いてなくて、久しぶりにブログを書きたいと思います。

ついさっき喫茶店に行ったんですが、メンバーがたくさんいらっしゃいました。ぱっと見7、8人いらっしゃいました。

みんな女性で、女子会中で、御言葉を熱く伝えているようだったので(中には御言葉と関係ない話をしている女子もいました)、僕は邪魔しないように喫茶店の隅っこに引っこんで1人でおもしろ動画を見てクスクス笑っていました。

ところで、今日は聖餐式でした。キリストが十字架にかかったことを記念する日です。

時代が邪悪で、福音をいくら伝えても人々が受けいれなくて、イエス様は十字架にかかることになりました。

一番最後に弟子たちと食事をしたのが『最後の晩餐』と呼ばれる出来事ですが、これは絵画を見てもわかるようにで、とても重要で、厳かで、特別な出来事でした。

しかし、当時は特別感はなかったんだろうなということを感じました。

12人の弟子を集めてパンとぶどう酒を食べたという出来事です。豪勢な食事をしたわけではないと言っていましたね。

後になって、その食事が最後だったんだということを弟子たちにわかるようになります。

イエス様が十字架にかけられたからです。

『最後の晩餐』というのは後からつけられた名前ですね。

みんなで集まってイエス様と一緒に食べた食事、それが最後だった。

なんでもそうですが、特別な事は私たちが思ってるように特別な雰囲気の中で起こるのではなくて、ごく自然に起こるものだということを感じました。

このようなことを、私たちは2015年3月にも体験したし、今年も体験しました。

「生活の中で主を迎える」ということを改めて考えさせられました。