月明洞にひきうすが入ったそうです。

日々、月明洞に様々なものが入ってきているという話を聞きます。

先日はひきうすが入ったそうです。大豆をひくんだとか。みんな月明洞に来たら食べなさいと言っていました。

大豆はタンパク質が豊富でカロリーが低い健康食です。

ソイプロテインてのもありますね。

大豆を粉にしたプロテインです。豆のままだと消化の問題がありますから、粉にした方が吸収が良いです。

てことは、先生が「ひきうすを買って大豆を粉にするからみんな食べなさい」というのは、私たちに馴染みのある表現では「ソイプロテイン作ってあげるから飲みなさい」ということになるでしょうか。

しかも自家挽きの。

自宅で豆を挽いちゃいますか。そういうのは裕福な老人とかがこだわりを持ってやるものです。市販のものでは満足できないから苦労してでも自分でやってしまうやつです。

「挽きたては香りが違うんだ」と言いながら。

なに食べても「美味しい」と言ってしまう若者にはその価値がわからない世界。

インスタント、ファストな食文化に慣れてる私たちは「アマゾンでソイプロテインぽちればいいじゃん」と言ってしまいそうだけど、先生はそうしないんですね。

ほんの小さな行ないにも真心を感じます。

大豆を挽くとのことですが、その大豆はどこかから買うのでしょうか。有機農業をしているメンバーからかな。

それとも月明洞で自家栽培した大豆だったらすごいですね。その大豆は薬水で育つわけです。やばい。

先生は、「みんな月明洞に来たら食べなさい」と言っていたので、いつか食べられる時がくるかもしれません。その時、アマゾンでポチったプロテインとの違いがわかるかどうか。

僕は自信がないので、とりあえず「ほんとに違います。歴史もこのように違うのですね。ハレルヤ!」って言おうと思います。

秒で実践できる御言葉「ハチミツを飲む」

御言葉の中には実践が難しいものもありますが、今週の水曜礼拝では即実践できる御言葉が出ました。

はちみつを飲む。

礼拝帰りの足ではちみつを買い、翌朝おきてすぐ飲んでみました。

めっちゃ健康になりました。

ウソですが、「口の中の不快感がなくなった」という感覚は本当にありました。

はちみつはその糖分の多さから殺菌力が高く、保存期間が長いのはそのためです。

調べると、うがい薬として利用もされてるとか。

整腸作用もあり、腸内の善玉菌の栄養にもなるそうです。

はちみつは他にもいいことばかり。買ってよかった。みなさんも買いましょう!

といいつつ、僕は先日古くなって固まってしまったハチミツを捨てたばかりでした。

そのハチミツを買ったのは、以前に御言葉でハチミツの話が出た時です。

つまり、ハチミツの御言葉が出た瞬間は喜んで実践したにもかかわらずに飽きて実践しなくなったということです。

摂理あるある。

価値を忘れると、先生がもう一度話して思い出させてくれます。

本当は、一回行ったらすぐ実践、熱く実践、最後まで実践、成し遂げる、が理想的だし御言葉でも出ています。

ハチミツの御言葉1つをとったって、例えば御言葉で出たらすぐ実践する→継続する→健康になる→証する→さらに祝福を得てハチミツの封印を解く→学会で発表する→ノーベル賞を取る→主と喜びを分かち合う→「あなたはわずかなものに忠実であったから、たくさんのことを任せよう。」という聖句を成し遂げる、とか。

そういうのが理想のパターンではないでしょうか。

ところが実際は、御言葉で出る→喜んで実践する→飽きる→忘れる→御言葉で出る…を繰り返しています。

または、御言葉で出る→喜んで実践する→そればかり狂ったようにやり過ぎる→先生に怒られる、というパターンもあるように思います。

聖書では、人間が何度も過ちを犯しては悔い改めるということを繰り返していてそれを見て僕らは「やれやれ」とか思っているのですが、まさに僕らがその当事者になってしまっていることを見るわけです。

主と共にして御心を成したいですね。

止めても、理解されなくても進まなければならない。

人がわからなくてもやらなければならないとおっしゃいました。

個人個人にすべきことがあります。

それは人にはわからないことも多くあります。

だから、先週の御言葉「主とともにしなさい」があるし、今週の「御心通りにしなさい」があるんですね。

日本は最近個人主義になりつつありますが、昔はそうではありませんでした。

僕が子どものころはそうではなかった。

みんな同じテレビ番組を見て、みんな同じような生活をして、働いて結婚して、退職して年金もらって余生を過ごす。

それがだんだん変わってきて、個人の時代になった。多様性が広がり、悪いところでは格差も広がっています。

一人一人やるべきことが違う時代になりました。

神様はすべての人に共にして答えをくださいます。

その答えをつかんでやる必要があります。

しかし、止める人もいます。

わからないからです。

先生も、先週の水曜日の御言葉の中で、広告としてですが、心情を痛めている話を少ししていました。

みんなのマナーがないことについて話していました。

という矢先、僕が座っている椅子を後ろが何度も蹴っ飛ばす人がいる。

すごく気が散りました。先週の水曜礼拝はあまり御言葉聞けませんでした。

「映画館でもそれやらないよ、御言葉聞いてる人がそれでいいのか」と思ってました。

誰が蹴ってたのか、御言葉後に帰るふりをしながらちらっと確認してしまいました。今週の日曜日に聖歌隊をやる予定でしたがキャンセルしました。

先生は、止めても、十字架につけられても前に進みます。

先生の経験してきたことは一般の人とはあまりにも違っており、その気持ちを理解することは簡単ではありません。僕らには戦争の経験も投獄の経験もないから。

そして、先生だけでなく、今は個人の時代ということもあり、昔と違って人によって事情が違い、どんな人でも簡単に判断してしまうことはできません。

知らずに心情を痛めてしまうことが無いように、マナーも守って行いたいですね。

秩序。