先生のお父さんは鉱夫だったがどれだけの金を掘ったのか

もっとやれば、もっと良いものを得られるという話を続けて伝えられています。

主日の御言葉の中で、先生のお父さんの話がありました。

鉱夫だったお父さんの話。

お父さんと一緒に働いていた人は、鉱山を掘っている途中で「もうやめる」といっていなくなってしまったそうです。

農作をするといって。

ところが、別の人があと1m掘ったら大当たりになったといいました。

そのようなたとえで、最後までやりなさいと御言葉でいいました。

先生のお父さんは30年間で金300貫を掘ったそうです。

貫という単位がピンときませんが、値段にしたらかなりすごいんだろうなと、御言葉を聞いたときに思いました。

そこで、御言葉を聞き終わった後、簡単に計算してみました。

一貫は3.75kgだそうです。

300貫なら、
3.75kg * 300貫 = 1125kg

約1トン、車1台分くらい。

金価格は時代によって大きく変わっていますが、今も昔も価値のある金属であることに変わりはありません。

1125kgがいくらになるのか、ためしに現在価格を用いて計算してみます。

金価格の現在値は約4700円/gですので、
  1125kg = 1125000g
  1125000g * 4700円 = 5287500000円

桁、いくつだ?w

先生のお父さんは、30年間でこれだけの金を掘ったそうです。

鉱夫って儲かるんですねw

ところが、先生のお父さんは生涯月明洞という片田舎で暮らします。

掘った金は、当時の韓国を統治していた日本に持っていかれたそうです。

だとしても、わずかでも残しておいたら大金持ちでした。

昔の百姓なんか、取り立てられる年貢を少なくするために取れた米を隠すということをよくしていたそうです。

今ほど会計基準も税務監査も厳しくないだろうし、どこにでも隠せそうなものです。

それでも先生のお父さんがそうしなかったのは、金をたくさん扱っていたから価値がわかっていなかったのだと、先生はおっしゃっていました。

お母さんもそうだったと。だから金のネックレス1つも作っていないそうです。

すごい夫婦。

釈迦かよ。

いいえ、先生のご両親です。

先生は、このようなご両親の話を通して価値を知ることについても教えてくれました。

御言葉では「もっとやること」について話し、加えて明け方には「やります」じゃなくて「やりました」というべきことについて話していました。

人の心は変わりやすいから、「やります」は信じられないのだと。

人間的にいえば、やろうと決めてからが大変です。やってみていろいろ困難なことがありますから。

途中で辞めようと思う出来事が何千回も起こるし、協力者はいないし、あと何ヶ月、何年かかるかもわからない。

そのような中で、最後までやる。

あと1m掘る、大当たりになるまでやる。

やるかどうかですね。

自分が望むものを食べてこそ満足

自分がほしいものをもらうことが祝福。

主日の御言葉でおっしゃいました。

昨日の朝の御言葉でも、「自分の好きな人と暮らすことが一番の幸せ。」「自分が望むものを食べられたら満足する。」

そのような話をしました。

こうした話がなんどか出たせいか、通勤中、僕が初めて月明洞に行ったときのことを思い出しました。

6人くらい、とても少人数で行きました。

先生が海外にいた時のことです。ガイドは現地で作業をしている人がしてくれました。
ガイドといっても、毎日月明洞で大きな松や岩を運んでいる人です。見た目ごつい。

ガイドさんの案内で、テドゥン山に登りました。

途中、ガイドさんが「おなかがすいたな。何か食べるものを持っている人いないか?」と聞きました。

しばらく沈黙がありました。
誰も持っていなかったのかもしれません。

ただ、僕のリュックの中にはひときれのチョコレートがありました。

月明洞の売店で買ったチョコレートです。

これしかない、でもこれが今できることの精一杯。

聖書には、やもめ女が全財産の2レプタ(レプタは貨幣の最小単位)をささげ、イエス様が感心されるシーンがあります。マルコ12:41

僕はその聖句を思い出しながら、チョコレートを差し出しました。

すると、ガイドさんはそれを受け取り、少しの間ながめました。

そして、それを、全力で遠くに投げ飛ばしました。

「カマキリの餌になった」

そう言いました。

そのあとのことはよく覚えていません。

悔しすぎて。

「神様を怒らせてはいけない」

そう言われたことだけは覚えています。

泣きながら山を登った、それが僕の初めてのテドゥン山の思い出です。

僕としては、御言葉を実践したつもりでした。

「食べ物を持っている人はいないか?」とたずねられた。

チョコレート以外、誰も何も持っていなかった。

自分の持っているすべてを渡した。

「やもめ女のささげた2レプタ」の聖句を思いながら。

このように考えれば正しいように見えますが、常識的に考えればおかしいです。

“毎日月明洞で作業している人に、そこで売っているものを手渡した”ということだからです。

もしかしたら彼がそのチョコレートの仕入にもかかわっていたかもしれません。

たとえるなら、明治の社長に明治チョコレートをあげたようなものです。

いるかそんなもん。

当時はとても悔しかったですが、今となっては、御言葉をどうとらえるべきなのか、真剣に考えるきっかけになった出来事でした。

最近の実言葉を聞きながら、そのときのことを思い出しました。

あれ以来でしょうか、与えられたものをむやみにありがたがって受け取るということはしなくなったように思います。

「自分が望むものを食べられてこそ満足。」

人間もそうだから、神様もそうだという話です。

あの時、神様が求めていた私たちの反応は何だったのでしょうか。

今朝は愛の話、関心を持つことについての話がありました。

関心を持ったら、相手にどう接するべきかわかるかもしれませんね。