先生とコーヒー。先生が話す言葉は愛から出ているということ

最近の御言葉を聞いていてなにげに恵み深いのが、先生がたまにコーヒーを飲んでいるという話が出ることです。

なぜ恵み深いかというと、これまで摂理ではあまりコーヒーが飲まれる文化がなかったからです。

その理由は、昔先生が「コーヒーを飲むな」と言ったことがあるからだそうです。

僕も人づてで聞いたことがあるだけで、実際そう話されている場にいたわけではありません。

ですが、飲むなというなら飲まない方がいいのかなと思って、あまり飲まないでいました。(ただし、カフェに行くと一番安いのがブレンドなので、たまに飲んでいました笑)

コーヒーを飲むなと先生が言われてから摂理ではコーヒーを飲まなくなって、いつしか、誰かがコーヒーを飲んでいるとツッコミが入るようになっていました。

「あー!コーヒー飲んでる!」というような。

不思議ですよね。

先生が言ったことを守ることは、たしかに必要なことです。私たちは人生の行く道がよくわからないからです。

しかし、どうしてそう話したのかという心情まで知らなければなりません。

「コーヒーを飲むな」という言葉についても、そう話された経緯があります。

先生についてくる人の中に、寝食を忘れて熱心に頑張る人がいたそうなんですけど、その人が気合いを入れるためにコーヒーをがぶ飲みしてたら体を壊した。

それに先生はショックを受けて、コーヒーを飲むなと言ったそうです。

だから、この言葉はコーヒーの良し悪しを語っているというのではなくて、先生に熱心について来ていたその人可愛さに、その人が体を壊したもんだから怒りの矛先がコーヒーに向かってしまった(笑)そういう言葉なのだと思います。

先生の言葉はいつも愛から生じています。

しかし私たちは「コーヒーはダメ」という法律として捉え、いつしか全体がそういう風潮になってしまって、理由もわからずコーヒーを飲まなくなりました。

それが、今は先生自身がコーヒーを飲むことで、間違った認識を矯正しています。

話を聞いていて嬉しくなります。コーヒーを飲んでいる兄弟を見て指摘していた人は、今ごろ恥じているでしょう、ククク。

コーヒーについてもそうだし、株式投資についてもそうです。

昔、株式投資で損をした人がいた。先生は「株はダメだ」と言った。

今は、先生は株についても肯定的な話をされるようになっています。

もし、昔言われた「株はダメ」を絶対的な法だと思ってしまったら、話が食い違っていることに戸惑うでしょう。

先生の言葉がいつも愛から出ているということがわかれば戸惑うことはありません。

私たちは解釈を間違えることがあります。

今週の御言葉は、復活について話されています。そこでは「復活は肉体の復活ではない。霊の復活だ。イエス様の当時はみんなそのことをわかっていた。今はみんな肉体の復活だと思って待っている。だから成されない。」と話していました。

ここでも解釈のズレが生じていることがわかります。

元々別の意味で言った言葉を、伝言ゲームをしているうちに意味を変えてしまう。

言葉から愛がなくなって、人を強制するための武器として使ってしまう。

そのようなことがあってはいけませんね。

セノレを歌いながら思ったこと

先生が作った賛美歌をよく聞きます。そして、歌います。

今日歌ってみて思ったのですが。

高い、音程が。

明日の賛美の準備をしましたが、高いよ。

今までの合唱曲では、テナーでも「ファ」までしか音を出したことがありません。

長年聖歌隊やってきて、それ以上だったことがありません。

しかし、先生の曲はその上を行く高さがあります。「ソ」が連続で出てきます。最後は「ソ」で伸ばすし。

男で、あの音を出すのはなかなか難しいです。あまり出せる人がいません。

それを先生は出している。

それだけでもすごいことですが、もっとすごいのは、元々先生は極度の音痴だったということですね。

摂理に長くいる人なら、昔の先生の歌声を聞いたことがあるはずです。

何を歌ってるのかわからない。歌い終わって曲の解説を聞いてはじめて「ああ、あの曲を歌っていたのだな」とわかる。

先生自身も、「音楽ではなかなか天の合格点が取れない」と言っていました。

それが、今ではビブラートかけたりしてます。

ビブラートかけながら音程を上げたり下げたり、演歌で聞くことがある技巧ですが、あれをやります。

普通の人ができないことをします。

以前は人より音痴だったのが、今では誰よりも歌が上手くなっている。

これが、復活なんだな。

しかも歌ばかり練習してるわけではないですしね。

いろんなことをやりながら、その全てて復活をしているところが、先生の凄さだなと思いました。