新郎新婦の関係の意味

思いついたから書いておく系の記事。

昨日はチョウンさんからの話を聞きました。

話を聞きながら、チョウンさんは愛の人だなあと思いました。

また、敏腕なビジネスマンだなあとも思いました。

そして、摂理を一つの家庭のように思っていて、母のようでもあるなあとも思いました。

話している内容が、母。
母でしか話せない内容が盛り沢山でした。

まさに、新郎新婦の時代の新婦を体現しているなあと思いました。

今は新郎新婦の関係だと私たちは何度も学びましたが、それを真実に実践している姿をチョウンさんから見ることができました。

新郎新婦というと、僕らのイメージでは「幸せいっぱいうきうきらんらん」な関係を想像します。

しかし、現実はそうでもあるけれどそれだけではないということがわかりました。

チョウンさんの「命を管理してこそ摂理の甲斐を感じる」という話からは、世間一般にいう「子どもは夫婦の蝶番」という言葉を感じさせましたし、「先生が獄を出てきてからしばらくは嵐に見舞われた」という話からは、新婚当初の生活がそれまでとは違うことに戸惑いを覚える様子と似ていることを感じました。

新郎新婦の関係になるとは、今までとは全く別の生き方に変化することなのだと。そういう悟りがありました。

お互いの生活の中での様子まで見えるのが、恋人関係とは違うところです。

先生も、2018年には弟子たちにかなり失望したという話をよくしていましたね。我々のガッカリな様子は記録に残ってます。ハレルヤ。

先生は弟子たちの様子にびっくりし、弟子たちは先生の様子にびっくりしました。

新婚生活とはかくしてそういうものなのだなと思います。

僕の両親も、結婚当初にはお互いの生活スタイルの違いにかなり戸惑ったと話していました。

新郎新婦の関係になるということは、今までにない大きな変化を経験するということです。

そして、今が新郎新婦の時代ということは、世の中で大きな変化が連続して起こるということでもあるのではないでしょうか。

大きな変化が起こりそうであることは、人工知能の台頭やバイオテクノロジーの発展のニュースを見ていれば誰でもなんとなく感じます。

変化し続けることが当たり前の時代、それがこれからの時代であり、「新郎新婦の時代」という意味の一つなのかもしれません。

変わっていく中でも結婚生活を続けていけるのは、そこに変わらない愛があるからです。

これは、家庭でも、摂理でも、これからの時代を生き抜く上でも必要なことです。

「〜してください」という祈りについて

御言葉の量が、一時期よりは少なくなってきました。

以前があまりに多かっただけですが。

以前聞いていた量が体質になっているせいか、耳さみしいような思いもあって、最近僕はオーディオブックを聴いています。

オーディオブックとは、市販の本を読み上げるサービスです。

いろんな本を聞いてみて、NLP(神経言語プログラミング)の本にこう書かれていました。

「目標は完了形で書きましょう」

どういうことかとオーディオブックを聞き進めると、こう書いてありました。

「〜なりますように」「〜したい」という目標の立て方は、暗に「現在の自分はできていない」というメッセージを含んでおり、脳が「できない自分」をイメージしてしまうので、目標達成が難しくなる。

とのことです。
つまり、ネガティブ思考になってしまうということですね。
自覚しているしていないに関わらず。

だから、「〜できました」という完了形で目標を立てる方が脳にとって良いそうです。

「〜できました」という目標の立て方だと、脳が「できた自分」をイメージして、できた自分にとってふさわしい行動を実際に起こすようになるとのことです。

これはたとえば、「梅干しを十個口に頬張って1分間我慢する」と想像すると実際に唾液が出てくるように、脳の生体反応として、イメージするとそれにふさわしい体の反応が起こるのと同じ原理です。

逆に、「できない自分」をイメージすると、脳はそれにふさわしい認識と行動を取るように体に指示をします。

この話を聞いて、あっと気づいたことがあります。

お祈りについてです。

私たちは願っていることを祈ります。
けっこうたくさん祈っています。

そして、そのほとんどが「〜なりますように」「〜してください」という形になっているということです。

「主が100%してくださる」という確信があれば弊害はないのですが、こうした祈りの形は謙虚さを表すという反面、見方を変えれば、脳にとっては「自信の減退」という側面を持っています。

元々謙虚な日本人にはこの側面がより強く現れているかもしれません。

必死に祈れば祈るほど疲れる、虚無感に陥る。そのような経験をしたことがある人は、たぶん僕だけではないはずです。

10年くらい祈ってるのにまだ実現していないこともあります笑

それもそのはず、祈る度に「できない」というメッセージを何度も何度も自分の脳にすり込んでいるからです笑

先生は祈りについてたくさん御言葉をくださっていますが、おそらくそれをちゃんと学べていない可能性があります。ちゃんと学べば、僕がしている祈りとは変わるのではないかと最近思っています。

そもそも、先生は求める祈りについては僕らがしているほど強調していません。

「求めよ」とはいいますが、その後に必ず「探せ、門を叩け」と言います。つまり行動しろと。

そして、求めのお祈りについても「もうしてくださったと思ってするとよい」とおっしゃっていたことがありました。

聞いた当時は???でしたが、少し理解できた気がします。

伝道の時は、「あらかじめどんな人と会いたいか具体的に祈ってから出かけると本当に会える」という話をたくさん聞きますね。

何にせよ、まだまだわかっていないことが多いですね。

ペテロの話でした

ペテロの話でした。

元々漁師だったペテロは、イエス様との出会いで運命が大きく変わりました。

今朝も先生の御言葉を聞きましたが、なんか頭に浮かんできたのは、「ペテロって文字かけたんだな」ということでした。

『ペテロの手紙』を書いてますが、元々漁師だし、2000年前のイスラエルの識字率なんてすごく低いだろうし、聖書のペテロのキャラ(ときどきおかしな発言や行動がある)のを見ると、元々文字も書けなかった可能性はあります。

それが、聖書を書くまでになった。これも大きなしるしだなと思いました。

ペテロだけでなく、聖書を記した人たちって、かなり高度なスキルを持っていたんですね。義務教育が無かった時代、どうやって文字を覚えたのかが気になります。

パウロやモーセが聖書を書いたのはわかる気がします。幼少時代から高等教育を受けていた人だったから。

でも取税人(現代でいうNHK集金人のようなもの?)であるマタイや、医者(昔の医療はまじないのようなものが多かった)であるルカが文章を書くのは実はものすごいことなのでは。

ペテロは、もしかしたら人生の晩年になって文字を勉強したのかもしれません。証したい一心で熱心に勉強したのだろうか。

などと考えていました。

しかしwikiを見たところ、「『ペテロの手紙』は文章が洗練されすぎているので、ペテロが書いてない可能性もある」と書かれていました笑

ペテロ信じてもらえてなくてかわいそう笑

ペテロはイエス様に会ったことで、文章という、当時としてはかなり高等な技術を習得したしるしをも起こすことができたのだと、僕は思いたいと思います。