「真理は人を自由にする」そのことを実感した今日の御言葉でした。
今まで「時代ごとに神様の働きかけ方が変わってきた。」という点についてたくさん教えてもらってきました。
たとえば、昔はささげものをしていたけれど、新約時代からはそれがなくなりました。
なぜなら、神様と人との関係性が「主人と僕」から「親と子」に変化したからです。
時代が変わると神様の働きかけ方が変わるということを私たちは知っていましたが、今日の御言葉ではそれをさらに析いて「人によっても違う。」ということを習いました。
たとえば、サッカーではゴールキーパーとそのほかの選手では適用されるルールが違う。病人は仕事を休んでも問題ないが健康な人が仕事をサボるのは問題になる。そのように神様の法もそうだといいました。とてもわかりやすいたとえでした。
御言葉を聞かない人にもぜひ知っていただきたい内容でした。アップされるかな。
特に、ルールを気にしすぎて窮屈に感じてしまうタイプの人には今日の御言葉は必読だとおもいます。日本人にはそういうタイプの人が多いかも。
僕もかなりそういうのを気にしてしまう人で、日曜の夜にみんなでやってるスポーツに参加できないだけでものすごい罪悪感があったり、業務連絡で異性にlineするだけで「罪に定められたらどうしよう」と心配してしまう、典型的な心配性です。
しかし、それはちょっと間違っていたことが、今日の御言葉を聞いてわかりました。
もちろん、日曜スポーツには行ったほうが良いに決まっていますが、それによって自分を責めすぎることや、誰かに攻撃されるんじゃないかと身構える必要はないんだということです。
本来、法律は人を守るために作られたものです。
交通法も事故をなくすためのものだといいました。
御言葉で宣布される法も、人を自由にするためのものです。
しかし、その法が人を縛ることがあります。
ルールを気にしすぎて自分を責めてしまうこともそうです。
また、「法律ではこのようになってますが?」「なんで法を守らないんですか?」と、法を人を攻撃するツールとして使うこともそうです。
特に、昔にできた法律ほどその傾向が強くなります。時代にマッチしなくなるからです。
新約聖書には、旧約時代にできた律法をパウロがぼろくそにこきおろすシーンがあります。
「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」ローマ人への手紙 3:20
「いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。」
ローマ人への手紙 4:15
法律のネガティブな点をあげつらっています。
パウロはもともと律法に忠実な人だったといいます。パウロ自身が聖書で記しています。
そのパウロが律法をだめだといっているわけです。律法を行いながらも、古くにできた律法の限界が見え、デメリットが目についていたのかもしれません。
先生の御言葉によると、パウロは真面目に生きながらとても苦しい思いをしていたのだといいます。
その昔、民数記や申命記で定められたものすごく細かい律法は、烏合の衆だったイスラエル民族をまとめるために有用な法律でした。
統制が取れたから戦争にも勝ったし、エルサレム宮殿も建てられたのだと思います。
しかし、時代は変わります。神様は働き方を変えます。神様、時代が求めたのは昔ながらの統制だけではなく、愛でした。
すると、昔は有用だった法律の多くは、意味を成さなくなってきます。
それでも法を守ることに固執したユダヤ人は、律法を守っていることを自慢することに使ったり、人種差別をしたりと、律法を守りながらも核である愛がおろそかになっていました。
そこへイエス様が現れて、「律法を完成させる」とも言われた新約の御言葉を伝え始めたんですね。
そのように、今日の御言葉も「そもそも法ってなんのためのものなのか」を再認識させる内容でした。
細々とした決まりごとはその都度変わっていくものですが、こういう御言葉はどの時代にも、どの人にも通じる普遍性があるものです。