自分が望むものを食べてこそ満足

自分がほしいものをもらうことが祝福。

主日の御言葉でおっしゃいました。

昨日の朝の御言葉でも、「自分の好きな人と暮らすことが一番の幸せ。」「自分が望むものを食べられたら満足する。」

そのような話をしました。

こうした話がなんどか出たせいか、通勤中、僕が初めて月明洞に行ったときのことを思い出しました。

6人くらい、とても少人数で行きました。

先生が海外にいた時のことです。ガイドは現地で作業をしている人がしてくれました。
ガイドといっても、毎日月明洞で大きな松や岩を運んでいる人です。見た目ごつい。

ガイドさんの案内で、テドゥン山に登りました。

途中、ガイドさんが「おなかがすいたな。何か食べるものを持っている人いないか?」と聞きました。

しばらく沈黙がありました。
誰も持っていなかったのかもしれません。

ただ、僕のリュックの中にはひときれのチョコレートがありました。

月明洞の売店で買ったチョコレートです。

これしかない、でもこれが今できることの精一杯。

聖書には、やもめ女が全財産の2レプタ(レプタは貨幣の最小単位)をささげ、イエス様が感心されるシーンがあります。マルコ12:41

僕はその聖句を思い出しながら、チョコレートを差し出しました。

すると、ガイドさんはそれを受け取り、少しの間ながめました。

そして、それを、全力で遠くに投げ飛ばしました。

「カマキリの餌になった」

そう言いました。

そのあとのことはよく覚えていません。

悔しすぎて。

「神様を怒らせてはいけない」

そう言われたことだけは覚えています。

泣きながら山を登った、それが僕の初めてのテドゥン山の思い出です。

僕としては、御言葉を実践したつもりでした。

「食べ物を持っている人はいないか?」とたずねられた。

チョコレート以外、誰も何も持っていなかった。

自分の持っているすべてを渡した。

「やもめ女のささげた2レプタ」の聖句を思いながら。

このように考えれば正しいように見えますが、常識的に考えればおかしいです。

“毎日月明洞で作業している人に、そこで売っているものを手渡した”ということだからです。

もしかしたら彼がそのチョコレートの仕入にもかかわっていたかもしれません。

たとえるなら、明治の社長に明治チョコレートをあげたようなものです。

いるかそんなもん。

当時はとても悔しかったですが、今となっては、御言葉をどうとらえるべきなのか、真剣に考えるきっかけになった出来事でした。

最近の実言葉を聞きながら、そのときのことを思い出しました。

あれ以来でしょうか、与えられたものをむやみにありがたがって受け取るということはしなくなったように思います。

「自分が望むものを食べられてこそ満足。」

人間もそうだから、神様もそうだという話です。

あの時、神様が求めていた私たちの反応は何だったのでしょうか。

今朝は愛の話、関心を持つことについての話がありました。

関心を持ったら、相手にどう接するべきかわかるかもしれませんね。

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