同じものを見ても認識が違った話

今日は先生の過去の映像をたくさん見ました。

驚きだったのが、聞いている人の反応が今までと全く違ったことです。

最近摂理に来たと思われる若い人たちが「わー」とか「きゃー」とか歓声をあげながら先生の若き頃の写真や映像を見る姿に、衝撃というかとても新鮮味を感じて笑ってしまいました。

こういう認識で先生を見ているのか。御言葉で言っていた「あとでわかる」というのはこういうことなのか。

そのように思いました。

長く摂理にいる人にとって、映像自体は何回か見たことがあるものです。

しかし、そんなわーきゃー言いながら見てはいませんでしたし、そう見るものではないという認識があったように思います。

もっと真摯に受け止めるべきというか、苦労を前面に置いて見ていたというか、自分もあのくらい苦労しなきゃいけないのかという重責を感じていたというか。

それなのに今の若い人たちときたら。10年前に来た人とは同じものを見ても認識がちがう。10年前ではなく、明らかに、今年から違う。

どちらかというと「栄光の軌跡」という角度を前面に置いて見ているような気がしました。

僕らがわりと深刻に見ていた写真や映像をカジュアルに楽しく見ているその姿に、面白さを感じて笑ってしまいました。同時に将来希望的でもあると感じました。

先生の40年間の苦労は、これがもっと拡大した形で報われていくのかもしれませんね。