思いついたことをざっと。
先生がよく話す「体が引き上げられるのではない」ということについて。
日本人からすると当たり前だと思うようなことです。体が空中に浮くことはないだろうと、自然に考えられます。
ほかにも「太陽がとどまったわけではない」「太陽と月と星が落ちるのではない」なども、それはそうだろうと思います。
しかし、太陽が止まるといったことを信じている人がいるといいます。なぜなら、聖書にそう書いてあるからです。
現代でこそ、その数は少なくなっていると思いますが、もっと昔、教会が権威を持っていた時代には聖書に書いてあることをそのまま信じないと罰せられました。
有名なのは、ガリレオが地動説を唱えたときの宗教裁判ですね。
証拠が実証されているのに、人々はそれを受け入れることを拒否しました。
なぜ、かたくなまでに文字通り信じるのだろう。
僕がそう疑問に思ったとき、ある光景を目にしました。
子どもたちがいました。
1人の子がもう1人の子に言いました。
「おい、走っちゃだめだからな」
今は走ってはいけないというルールが、その子達の間にはあるようでした。
命令された子が(は?わけわからん)という顔で走ろうとすると、命令した子が「走んなっつってんだろ!」怒りました。
なぜ走ってはいけないのか。理由はありません。なんとなくです。
僕も子どものころにはよくやっていました。
「バリア」と言えば、相手にタッチされてもばい菌がうつらないとか。
「雨水」と書かれたマンホールは踏んでも大丈夫で、「汚水」と書かれたマンホールを踏んではだめだとか。
子どもが作るルールは大人には意味不明ですが、当時はそれで友人関係が築かれていた面があったので役にはたっていました。
友達同士でルール作るの、けっこう楽しいんですよね。
女性も、ままごとではいろんな決まりごとを勝手に作っていたと思います。
赤いブロックを指して「これはトマトね」とか、「あ、ドレッシングかけなきゃ」といって砂をさらさらかけたりとか。
大人は、その非現実的な世界に付き合わなければいけません。
もし、砂のことをドレッシングだと言う子に対して「は?これはどう見ても砂だろうがバカめ!」と大人が言ってしまったら、子どもは泣くか怒ります。
そのように、「太陽が止まる」「体が引き上げられる」などの非現実的な世界を信じている人も同じなのだろうということです。
本気で太陽が止まることを信じている人はそれほど多くないかと思います。でもそれを信じることで、社会がうまくまわります。
子ども同士がルールを共有することで仲良くなるように。
そしてそのルールを否定されることは、怒るべきことです。
子どもがルール違反するものに対して怒るように。
既成が「子どもの次元」とよく言われるのは、そういうことなのだろうと思います。