御子と交通するってどういうこと? 摂理の便り

日曜日、歌手の使命を一生懸命やりすぎて御言葉をぐでんぐでんになって聞いていましたが、
映像資料で僕が好きだったゲームのBGMが流れたとたん元気になりました(笑)

男性はほぼみんな気づいたと思うんだよなあ。

「あ!フ○イ○ル○ァ○タ○ーの音楽だ!よーし、引き上げられてジョブチェンジするぜ!!」
って思った人いますか?

。。。

では、御言葉の感想を書きたいと思います。

「御子と分体と交通しなさい。
これが今この時一番急迫してすべきことだ。」

という御言葉でしたね。

初めてきた人に向けて伝えられた御言葉でしたが、長く経った人にも大切な話でした。

長い人は一度は聞いたことがある御言葉ですが、同時に完全には悟れていない御言葉です。

僕がこの日改めて感じたことがあります。

「今、この時、摂理史が一番急迫して行うべきことが、つまり「御子と分体と交通し、対話し、愛して生きること」です。
そうしてこそ、霊が根本的に生き返って、引き上げられます。」

こう仰いました。

交通することが生き返ることなんですね。

「交通しない人は死んだ人です。」

こうも仰いましたね。

この言葉を聞いたとき、僕は改めて「死」について考えました。

死ってなんでしょうね。

死ぬって、一般的には心臓が止まることですよね。

ですがこれは科学的な見地からの死の定義です。

昨日の御言葉では、交通しないことが死んだことだといいました。

これは宗教的な見地からの死の定義なんです。

死んだら、交通、つまり関係が切れますから。

そしてこれこそが本来の死の意味なんです。

なんで関係が切れることが死の本来の意味かと言うと、
心臓が止まったかどうかが問題というよりは、
それによって関係が切れてしまうことが本来的な問題だからです。

あなたにとってもそうですよね。

愛する人が死んでしまって、もう以前のように話せない、暮らせない、それが何よりも問題じゃないですか。

逆に心臓止まっても、相変わらず元気だったら別にいいんじゃないですかね。

ありえないですけど。

死ぬことによって肉体的な機能が停止することが根本的な問題なのではありません。

死ぬことによってお互いに交通疎通関係が切れてしまうこと、もう連絡が取れないこと、会えないこと、愛せないこと、これが一番つらくて悲しくて怖い、耐えられないことなんです。

誰でもそうです。あなたも、僕も。そして神様も。

死、というものの見方を変えると、そこに「関係性が切れる」という面が見えてきます。

これを深く学ぼうとしたら摂理でしか学べないですよ。

そういう意味で、今週の御言葉はとても深く、摂理の基礎であり根本、また文学的な作品でしたよね。

生きていることに感謝、そして主と交通してもっとすばらしく生きましょうね。

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