こんにちは。昨日は山の日でした。学生にとってはもともと夏休みなのであまり関係ない休みですが、社会人にとっては貴重な祝日です。
かといって私は山に登るわけでもなく、電車の中でブログを書いています。
なぜ書くのかといえば、「書くことが好きだから」だと思います。史上初のエベレスト登頂を目指したジョージ・マロリーは、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と取材された時「そこにエベレストがあるから(Because it’s there. )」と答えたといいますが、ブログもこうした内的な動機があって書いています。
何かをやる時、外的な動機、たとえばお金がもらえるとか、賞をもらえるとかいう動機は、瞬間は自分を動かしますが、持続しない燃料です。
もちろんそうした動機でも続ければ成長するし、そのことでお金が稼げるようになったり人から賞賛されるということはありますが、根本的な力ではないので、逆にもらえるお金が減ったとか、人から悪口を言われたりするとモチベーションが下がることになります。
つまり、他人次第で自分のやることが左右されるということです。
そういう外的環境に左右される動機ではなく、内的に燃え上がって持続する、つまり「好きだから」というのがとても大事ですね。
そういう意味では、2月から挑戦を始めた聖書通読を先日達成したのですが、これは「通読したら褒められるぞ」という思いがややあったのであまり良いことではありませんでした。
それでも、山の頂上からの景色が綺麗なように、聖書を通読することで6000年の歴史を俯瞰できたのは大きかったと思います。このチャレンジをする前、聖書を100読以上している方から「通読すると良いよ」と言われた時には「ははん、そんなのあるわけない」と思っていましたが今悟りました。
たくさんの感動があった聖書通読で、それをここに書けばこの記事を読む方にも聖書を読むモチベーションになるかと思うのですが、そういうことをするのは私はあまり好きではないので、あえてまったく感動しなかったエピソードを書きたいと思います。
それが何かというと、「バアル」と「アシラ」についてです。旧約聖書に偶像として登場する「バアル」と「アシラ」。
バアルもアシラもなんども聖書の中に登場し、神の民を惑わしては自分を信じるように引き込んでいく悪い奴らです。
バアルはその後進化して、「バアル・ゼブブ(ハエの王)」と呼ばれるようになります。新約聖書に出てくる表記では「ベルゼブル」ですね。
そのくらいキモいキャラなわけです。ハエの王様なんて、ああ嫌だ!
こんなかわいくないかも
イスラエル統一時代のサウルやダビデ王と敵対していた「ペリシテ人」は、バアルを神と崇める民族でした。
ペリシテ人は、イスラエル民族と数々の戦闘を重ねる中で、勝利をおさめるとバアルに栄光を帰していました。バアルはペリシテ人の心の拠り所だったのです。
私は聖書を読みながら、このバアルの「ハエの王」という呼称といい、イスラエル民族を苦戦させる強さといい、いったいどんな奴なんだと、疑問に思うようになりました。
バアルは偶像だから、もちろん像が作られているわけです。それが現代に発掘されているのかもしれない。
そこでググってみました。
出典:Wikipedia
…………
えっ?
なんか思ってたのと違う。
間違えたのかなと思い、もう一度検索しました。
出典:Wikipedia
えっ?
ぜんぜんハエっぽくないし、力が強そうでもないし。てか腕ほっそ!俺でも腕相撲で勝てるわ。片足前に出してるのは何の意味なの?こんなのにイスラエル民族が誘惑されてたとか、ありえないわー。
あ、そうだ。アシラはきっと違うのかもしれない。
アシラは豊穣の神。女性神だから、きっとその偶像もスタイルが良くて美人に作ってあって、それで多くの人が誘惑されたに違いない。
出典:アシラ(Asherah)
えっ…。
スタイルについての疑問もあるけど、そもそもこれは女性をかたちどった偶像なの?
女性のスタイルの良さは「出るところは出て、引っ込むところは引っ込む」ところにあると思ってたけど、このまっすぐなラインは美しいの?
これを拝むとか、いったい当時の人々はどういう考えをしていたのでしょう。
当時の人々には魅力的だったとしても、時代が進むとおかしなことに気づく、そういうことがあるのかもしれませんね。
聖書読みたくなった?