「自分は知らない」ということを自覚していることが知恵があることだと仰いました。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、これを「無知の知」と言いました。
「自分って何もわかってなかったんだな」ということを知ること。これが無知の知です。
ソクラテスは、ボロ布をまとい、道行く人にかたっぱしから話しかけていたといわれています。
そして相手の答えに質問しまくって、相手が「ああ、俺って何もわかっていなかった」ということを自覚させることをしていたんだそうです。
そうやって人々が今の自分に満足せず、もっと上の段階に登る手伝いをしていました。
人は年をとるとどうしても「自分は物知り。偉い人」となってその場に安住してしまいます。しかし、「知っている」というところにいつまでもいられるわけではありません。
なぜなら、主日でも、その年齢の時その時代に該当することは行って終わったと仰ったからです。時は変わっていくものです。
つまり、どんなに物知りな人でも「以前のことは知っている」だけで、これからの時代のことは誰にもよくわからんのです。
イエス様が福音を伝えていた当時、ユダヤ教のお偉いさんたちは自分たちを賢い者だと思っていました。自分の行いに満足していたし、主観が固まっていました。だから新しい時代が来たことに気づけませんでした。
聖書にはこう書いてあります。「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネによる福音書 9:41
「自分はよく知っている」と思い込んでしまうのは罪なんですね。
古くなった習慣は捨てて謙虚に学び続ける姿勢が必要です。
御言葉も、毎回同じようでどんどん変化しています。
「<牛>の話をしている途中で<犬>の話もするし、あるときは<天使>の話もするから、最後の一行まで聞いてみなければなりません。」と仰いましたが、そのようにどのようになるかわからないから、続けて学ばなければなりません。
ちなみに、このブログも真面目な話をしていたのに突然プレステの話をしたりどうでもいい話をしたりして、話がどうなるかわからないから、ちゃんと最後まで読んだほうがいいから。