変化についての御言葉で、自分が変われば現実も変わるのだと仰いました。
私たちが知っている現実はほんのわずかです。
たとえば、高校生から大学生になったときに「わあ、大学ってこんなところなんだ」と思いましたし、大学生から社会人になった時にも「わあ、社会ってこんなところなんだ」と思いました。会社を辞めたら、「わあ、老後ってこんな現実なんだ」と思うことでしょう。
自分が変わるたびに、世界が変わることを何度も体験しています。
なにより、主を知らなかった時から主を知ってからが一番変わりました。
私は今でも、礼拝を捧げる時などに「この歳になって、このようにたくさんの人たちと一緒にいることになるとは、思ってもみなかったなあ。」と思う時があります。
礼拝時には後ろにいることが多いのですが、後ろからみんなの後頭部が目に入ると、(なぜ、この人と一緒にいることになったのだろう。)と不思議で仕方ない時があります。あやうくみんなに「いったいどういうわけで、5年も10年も一緒にいるのかね?」と聞いてしまいそうになります。
本当に感謝なことです。
いろいろな現実があって、そのどれかに私たちは属しています。
中には、先生が今いらっしゃるような場所で生きる人たちが見ているような、そのような現実もあります。
どの現実に属するのか、自分次第であることをわかって、良い方に変化したいですね。
古い自分を捨ててこそ、新しく変化し復活すると、昨日の水曜礼拝でも話していました。
先生の古い家を壊す映像も見ましたね。
古いものを捨ててこそ理想的ですが、普通に考えたらもったいないです。未練があります。先生のされたことを自分もできるかというと、なかなかできそうにありません。
たとえば、ポケモンでずっと育てていたピカチュウを簡単にライチュウに進化させられるかというと、未練がありますね。なぜならピカチュウはかわいいからです。しかしライチュウになってこそもっと強く、理想的です。
なんでポケモンの話になったのか、よくわかりません。