認識が合っていてこそ正しい方向に進める

認識についての御言葉でした。

御言葉を伝えてくださった方が曜日を間違えて、そこから認識を間違えるとなかなか直らないのだという話をしてくださいました。

なんかそうとう忙しい様子です。

主のために働いてる方々のためにも祈らないとですね。

箴言では、どのようにすれば正しい認識がもてるかをおもに教えてくださいました。

認識が正しくてこそ、前もっての行ないも正確な方向に行なえます。

何かを実践していて本当に感じるのはその方向性です。

方向が間違っていたらどんなに苦労しても水の泡です。

まるでゴルフのように、ずっと先に小さなゴールがあって、そこに向けて一打一打むかっていくような感覚です。

いつも「コッチでいいのか」ということに気を配りながら進んでいく毎日ですね。

そういえば、認識といえばやっぱり人は見た目で判断することが多いのだな、ということを感じざるをえません。

私の場合は、もっと見た目に凄みを持たせる必要があります。

もっとみんな知恵深く判断してもらいたいけど、なかなか現実は厳しい。

そこで、ひげを生やそうかなとも思うんだけどどうだろう。

問題は礼拝の時だよね。

みんなに「あの人はどうしたのかな?」と思われるでしょう。

先生にも「あなたはユダヤ人にでもなるの?」と言われる気がします。

ひげもじゃになったらしゃべるの大変そうだよね。普段あまりしゃべらないけど。

だから、やっぱり御言葉でみんなの認識を変える方が良いと思うんだよね。

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