宝を掘り出すことについて教えてくださいました。
一般的に「宝」というと、世界のどこかに古の宝が埋まっている洞窟があって、そこには危険がたくさんあるんだけど奥まで行くと宝箱があり、しかしそれを開けると眠っていたドラゴンが目を覚ましてしまい、かろうじて倒した先に本物の宝箱があって、開けるとキラキラした貨幣がぎっしり詰まってる。といったおとぎ話です。
宝を見つけて財宝ざっくざくというのはインディジョーンズかパイレーツオブカリビアンの世界だというのが、この現実世界では当たり前のように語られています。
だから肉的だというんだよ!!
御言葉では、宝は自分の中にあるのだと仰いました。
それは誰でも持っているのだと言います。
それを見つけたばかりの時は自分だけがわかるのだと仰いました。
しかし、聖三位が使うと、自分だけのものではなく、全体が使うのにふさわしい宝、見物し、訪ねて行く宝になると仰いました。
だから開発しなさい。聖三位の前に持ってきなさい。そうすればふさわしく使う、と仰いました。
箴言では先生が得た宝を、私たち全体にの宝としてくださいましたね。
先生はその宝を明け方に得ています。
そして、神様の時間を守れば次元の高いものを得られる、守らなければ低いものしか得られないと仰いました。
明け方に次元の高いものを得、それを三位に見せることで三位が使い、全体の宝になっています。
こうした話を聞くと、本当に人の考えと神様の考えは違うということがわかりますね。
人は、宝は外の世界にあると思っています。しかし根本は中にあります。
高麗青磁のように、その元になるものは誰にでもあるものだから、あとはどう作るかと、どう認識するかで価値が大きく変わってきます。